

サンフランシスコの近郊、Concord Naval Weapons Station(コンコルド海軍武器補給所)の敷地内に第2次世界大戦中に米国本土最大の犠牲者を出した事故のメモリアルがひっそりと立っている。その記念碑は、Port Chicago Naval Magazine National Memorial(シカゴ港海軍武器庫国立記念碑)。1944年6月17日、太平洋に向け出港準備中の補給船への弾薬積込み中に生じた爆発事故によって320名の作業員等の命が失われた大惨事を覚えるための記念碑となっている。
太平洋戦争の始まり、そして戦線の拡大に伴い、米国太平洋艦隊への武器・弾薬補給能力の拡大が米軍にとっての喫緊の課題となった。武器補給基地として、水深があって積出しのための航路に近く、かつ、背後地と鉄道で容易に結ばれる一方で、敵軍の攻撃を受けにくい場所が検討され、1942年にサンフランシスコの北にあるSan Padro Bay(サン・パドロ湾)からさらに奥に入ったPort Chicago(シカゴ湾)に二隻同時に積出し可能な埠頭が建設された。

埠頭のあった場所
当時の海軍では、人種隔離政策がとられ、白人の監督の下で主に黒人の労働者が積込み作業に従事した。作業員たちは、弾薬の取扱いに関する訓練も受けず、危険な積込み作業に従事させられた。拡大する米軍の戦線に弾薬を補給するため24時間の作業工程が組まれた。作業の効率を上げるためにグループごとの競争が行われた。弾薬は鉄道によって内地より運ばれ、必要に応じて一時保管庫で保管された後、埠頭に持ち出され、船積みされた。当時シカゴ港では71名の仕官の下、1,400 名の黒人の作業員が交代で積込み作業を行った。この他、106名の警備員と230名の民間人が勤務していた。

弾薬保管庫
1944年7月17日夕刻、シカゴ港ではQuinault Victory号とE.A. Bryan号の2隻に弾薬の積込みが行われていた。Quinault Victory号はこれが処女航海で、E.A. Bryan号は初の任務から帰還したところであった。320名の作業員、警備員、船員たちが出港に向けて作業を行っていた。E.A. Bryan号には4日間の作業で既に4,606tの弾薬が積込まれていた。Quinault Victory号への積込みも始められようとしていた。16両の貨車に詰まれた429tの弾薬が埠頭で船積みを待っていた。そのときであった。
午後10時18分、埠頭からけたたましい音ともに巨大な閃光が立ち上り闇夜を貫いた。その6秒後にはさらに大きな爆音とともにE.A. Bryan号が跡形もなく粉々に砕け散った。向かいに停泊していたQuinault Victory号も吹き飛ばされてばらばらになり、仰向けに着水した船首部のみが残った。爆発の破片は1マイル以上離れた民家や建物にも降り注ぎ、爆発の振動は遠くネバダ州でも記録された。

船の破片
作業中の320名は跡形もなくなり、爆発や破片の影響でさらに390名が負傷した。320名の犠牲者のうち202名が黒人の志願兵で、この死者は第2次世界戦争での黒人犠牲者の15%近くを占めた。390名の負傷者のうち233名が黒人の志願兵であった。事故のあった場所に立つ記念碑には犠牲となった320名の名前が刻まれている。(爆発後の状況については
こちらを参照。)

記念碑
程なく残った328名の武器大隊は、Mare Island Naval Shipyard(メア島海軍造船所)での弾薬の積込みに配置転換された。しかしながら、そのうち258名が作業の安全性に懸念を覚えて弾薬積込み作業に従事することを拒否した。海軍は作業拒否者は反乱罪として軍事法廷に訴追すると予告した。この結果、208名は職場に復帰した(その後懲戒除隊)が、残る50名はそれでも拒絶したため、軍事法廷で裁かれることとなった。NACCP(全米有色人地位向上協会)の弁護士であった
Thurgood Marshall(サーグッド・マーシャル:後の黒人初の最高裁判事)らの弁護に関わらず、50名は懲役8年から15年に処せられた。しかしながら、この軍事裁判は多くの関心を呼び、海軍の人種隔離政策が白日の下に晒されることとなった。この結果、1946年海軍は他の諸軍に先駆けて人種隔離政策を廃止することを決定した。奇しくもシカゴ港での大惨事が海軍での人種隔離政策の廃止につながるきっかけとなった。
シカゴ港海軍武器庫国立記念碑は現在でも活動中の基地内にあるため、記念碑への訪問は、国立公園局のツアーによる場合に限られ、ツアーは2週間前の予約制で、原則として米国市民又は永住権者に限られることとなっている。しかし、お願いはしてみるもので、国立公園局とのやりとりの結果、特別に訪問が許可され、訪問することができた。爆発事故については、原爆の実験を行ったなど、多くの陰謀論が語られたという。そのとき何が起き、何が爆発事故の引き金となったかは不明のままであるが、この記念碑は痛ましい爆発事故とそれに続く従軍拒否、軍事法廷、海軍人種隔離政策の廃絶という米国の歴史を伝えている。なお、軍事法廷で有罪となった人々は戦後減刑されて釈放となったが、名誉回復は1999年のクリントン大統領の恩赦まで待たなければならなかった。
(国立公園局のHP)


バージニア州のバージニア半島の先端に、Old Point Comfortと呼ばれる岬がある。ここは、バージニア州内陸部までの水運を提供する
ジェームズ川へのチェサピーク湾からの入り口に当たり、ヨーロッパ人が新大陸に現れた当初より戦略的に重要な場所として知られていた。この場所に築かれた
Fort Monroe(モンロー砦)は、19世紀から今世紀初頭まで200年にわたり軍事基地として機能し、2011年11月に大統領令によりFort Monroe National Monument(モンロー砦国立遺跡)として国立公園ユニットに加えられた。
この場所の戦略的重要性に最初に気がついたのは、1607年にイギリス初の新大陸植民地
Jamestown(ジェームズタウン)を築いた人々であった。彼らはチェサピーク湾からジェームズ川に入る入り口に位置するこの岬を発見時の穏やかな海面に因みCape Comfort(安らぎ岬)と名付けたが、この場所はジェームズタウンからの海への出入りをコントロールできる場所であるため、その戦略的重要性から1609年にはFort Algernourne(アルジャーノン砦)を築き、警備を駐屯させた。アルジャーノン砦は1612年に焼失してしまうが、その後もこの場所には、Old Point Comfort Fort(1632-1667)、Fort George(1728-1749)と軍事拠点が造られた。1619年には30名のアフリカ人を乗せたオランダ商船が現れ、物資と交換が行われた。このとき上陸したアフリカ人が新大陸イギリス領での奴隷の始まりと言われている。1802年には今も現存するOld Point Comfort Lighthouse(オールド・ポイント・コンフォート灯台)が建てられた。この灯台はチェサピーク湾で最も古い灯台となっている。

アルジャーノン砦があった場所

オールド・ポイント・コンフォート灯台
英米戦争により沿岸防衛の重要性を知らされた
James Monroe(ジェームズ・モンロー)大統領は、全国の沿岸部の戦略的重要地点に砦を築くことを決定した。Old Point Comfortもその対象に選ばれ、1819年に堅固な砦建設が着手された。ナポレオンの秘書官も務めたフランス人技師Simon Bernard(サイモン・バーナード)の設計によるこの砦は、15年の歳月をかけて1834年に完成した。砦は、モンロー大統領の名前をとってモンロー砦と名づけられた。この間には、1828年に後に怪奇小説家として名をはせる
Edgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポー)が陸軍砲兵曹長として駐屯している。また、後に南北戦争で南軍の総司令官を務める若き
Robert E. Lee(ロバート・E・リー)も1831年から1834年にかけて陸軍工兵隊の現地副官(陸軍少尉)として建設を指揮している。1833年には通称Black Hawk War(ブラック・ホーク戦争)と呼ばれるイリノイ州で起きた原住民の反乱の指導者であった
Black Hawk(黒鷹)酋長がここで収監されている。Black Hawkをモンロー砦までエスコートしたのは、後の南部の大統領となる
Jefferson Davis(ジェファーソン・デービス)少尉であった。

当時リー夫妻が住んだ家
モンロー砦が最も歴史の表舞台に躍り出るのは、南北戦争のときである。モンロー砦は、南部の首都リッチモンドからジェームズ川を通ってチェサピーク湾に出るルートの出口を押さえる重要拠点であった。ヴァージニア州が連邦から分離すると、リンカーン大統領は、モンロー砦の兵力を増強し、南軍の手に落ちないようにした。モンロー砦は、南北戦争を通じて連邦軍の手にあり、南部への海からの物資補給を断つとともに、連邦軍の南部攻略作戦の前線基地の役割を果たすこととなった。とりわけ1862年の
George McClellan(ジョージ・マクレラン)将軍による
リッチモンド攻略作戦の侵攻基地となった。モンロー砦は、連邦軍の気球偵察部隊が置かれた場所としても知られている。
1861年5月、バージニア民兵Charles Mallory(チャールズ・マロリー)大佐の奴隷3名は南軍のために砲台建設に従事していたが、夜陰に乗じてモンロー砦に逃げ込んだ。当時の連邦法では、所有者が要請した場合、脱走奴隷は所有者に返還しなければならない義務があったが、モンロー砦の司令官であった
Benjamin Butler(ベンジャミン・バトラー)少将は、南軍の兵站を奴隷が支えていることを認識し、バージニア州は既に連邦を離脱しているため、連邦法の適用はなく、逃亡奴隷は戦利品(contraband)として連邦軍のものとなるとして奴隷の返還を拒否した。この決定はバトラー少将の独断でなされたものであったが、逃亡奴隷受け入れの南軍弱体化に資する意義を認め、連邦政府、議会もこれを追認した。この結果、モンロー砦は、Freedom’s Fortress(事由の砦)と呼ばれるようになり、南北戦争終了までに1万人の奴隷が自由を求めて逃げ込んだという。

モンロー砦
戦後、南部の大統領であったジェファーソン・デービスは、リンカーン暗殺共謀容疑でモンロー砦に2年間身柄を拘束された。当初の5ヶ月は窓のない砲郭の一角の牢に収監され、過酷な生活を送った。保釈金の10万ドルは、奴隷解放運動家
Horace Greeley(ホーラス・グリーリー)、鉄道王
Cornelius Vanderbilt(コーネリウス・ヴァンダービルト)ら北部の人々によって用意されたという。

デービス収監の場所
1891年から1906年にかけて沿岸防衛強化のため、武器の近代化を踏まえ数々の砲台の整備が行われた。モンロー砦には、1907年から1946年まで陸軍のCoast Artillery School(沿岸砲術学校)が置かれ、1973年以降は陸軍のTraining and Doctrine Command(訓練教義司令部)が置かれたが、2005年に米軍基地再編の一環で廃止が決定された。

Gatewood(ゲートウッド)砲台
モンロー砦は400年の歴史が詰まった場所だが、国立公園ユニットとしての整備はまだこれからであり、今後の整備が期待される。
(国立公園局のHP)


2011年11月7日、397番目のアメリカ国立公園ユニットがニュージャージー州に誕生した。Paterson Great Falls National Historical Park(パターソン・グレート・フォールズ国立歴史公園)、ニュージャージー州北部を流れる
Passaic River(パセイック川)の流れを利用して、アメリカ独立直後から産業振興が行われた場所である。グレート・フォールズは、落差が77フィート(23m)あり、ミシシッピー川以東ではその水量はナイアガラの滝に継ぐものである。 工業の衰退とともに寂れたパターソンの町は、新たに国立歴史公園の指定を得て、観光による町の再興を図ろうとしている。
この町の隆盛と切り離せない一人の人物がいる。
Alexander Hamilton(アレクサンダー・ハミルトン)。初代財務長官にしてFederalist Party(フェデラリスト党)の指導者として連邦政府の強化を主導したアメリカ建国の父の一人。彼が独立戦争の最中、1878年、この地を通りかかり、パセイック川の滝(グレート・フォールズ)を目にして水力を活用した産業振興のポテンシャルを見出した。ハミルトンは、イギリスからの経済的な独立を目指して工業振興を図るため、1791年に、有志でSociety for Establishing Useful Manufacturesを結成してニュージャージー州よりグレート・フォールズ周辺の独占的開発権を取得し、計画的工業都市の建設に着手した。新しい町は、当時のニュージャージー州知事
William Paterson(ウィリアム・パターソン)から取り、パターソンと名づけられた。
ハミルトンは、当初、ワシントンDCの設計者
Pierre L'Enfant(ピエール・ルファン)に都市設計を依頼するが、その構想が壮大なものになりすぎたため、途中でPeter Colt(ピーター・コルト)に依頼を切り替え、コルトは、滝の上流を堰き止めて貯留池を造り、そこからシンプルな運河を引き、1793年には、この水力を動力源として活用したニュージャージー州初の綿工場が設立され、工業都市パターソンが誕生した。
19世紀になり、運河は拡張され、パターソンには水力を動力源として活用した繊維、製紙、機械などの工場が立ち並んだ。1832年に蒸気機関車の製造を行うRogers Locomotive Works、1836年にレボルバーの生産を行うColt's Manufacturing Companyなどがパターソンで生産拠点を設立した。
やがて19世紀後半には、パターソンは絹織物の一大生産地となり、工業都市としての最盛期を迎えた。パターソンは、Silk City(絹の街)と呼ばれ、121もの絹関連工場が立ち並んだという。パターソンには、多くの移民労働者が流れ込み、工場での生産に従事した。1913年には、一人当たりの担当織機増加の提案をきっかけとして2.5万人の労働者が参加する一斉ストライキが行われた。ストライキは5ヶ月続いたが労働者側の敗北に終わったという。ストライキを嫌った工場主は工場をペンシルベニアに移し、化学繊維の到来と伴に「絹の街」は過去の栄光になってしまった。第2次世界大戦時にはパターソンは航空機エンジン製造の町として復活したが、戦争の終了とともに、再び町は没落し、廃れていった。
今回の歴史公園としての指定は、工業都市パターソンの200年の歴史を振り返る意図のものであるが、現時点ではかつての工場跡など施設等の整備が行われておらず、今後の整備の進展が待たれる。

グレート・フォールズ
(国立公園局のHP)


1963年8月28日、The March on Washington for Jobs and Freedom(ワシントン行進)において、リンカーン記念碑から世界に向けて人種差別撤廃に向けてのメッセージが発せられた。"I have a dream"で始まるその演説は、時空を超えて、世界中の人々の心を捕らえ、魂を揺さぶった。それから48年後の2011年8月28日に、その発信者を讃える記念碑がワシントンDCに建立された。Martin Luther King Jr. Memorial(マーチン・ルーサー・キングJr.記念碑)は、人種差別撤廃と恵まれない人々の地位向上にその39年の生涯を捧げたキング牧師を讃える記念碑である。(キング牧師の生涯については、
Martin Luther King Jr. National Historic Site(マーチン・ルーサー・キングJr. 国立史跡) を参照。)
キング牧師に捧げる祈念碑建立のアイデアは、キング牧師がボストン大学の学生時代に参加した黒人初の学際学友会であるAlpha Phi Alpha(アルファ・ファイ・アルファ)の有志から生まれた。祈念碑建立のアイデアは、1983年にキング牧師生誕日の祝日化(1月第3月曜日)法案が成立してから具体化に向けた動きが活発化し、1996年に連邦議会はアルファ・ファイ・アルファに対してワシントンDCにキング牧師祈念碑を建設する権限を与えた。1998年には資金集めのための財団 (Washington, D.C. Martin Luther King, Jr. National Memorial Project Foundation)が設立され、1999年には桜で有名なTidal Basinの北西に設置場所が決定され、2000年にはデザイン・コンペによりサンフランシスコの建築会社のデザインが選定された。残る課題は1億ドルにも上る資金集めであった。P&G, コカコーラ, GE, トヨタ, ソニーなどからの寄付や連邦政府からの1千万ドルの提供などにより資金に目処が立ち、建設が始まったのは2009年12月のことであった。彫刻家は、中国人の
Lei Yexinが選ばれた。
キング牧師祈念碑の位置には、重要な思いが込められている。祈念碑は、奴隷解放を実現したリンカーンの祈念碑と人類の平等を謳った独立宣言の起草者であるジェファーソンの祈念碑とを結ぶ線上に位置する。これは、キング牧師の運動は、リンカーンの奴隷解放によって開始された人種差別撤廃に向けた一歩を推し進め、ジェファーソンの掲げる理想に向けた一里塚を形成するとの意味を持つという。また、その住所には、"1964 Independence Ave., SW, Washington, DC"が割り当てられており、番地の1964は、キング牧師が生前その成立に努力した、公共の場所での人種等による差別の禁止等を内容とする1964年公民権法に由来するという。
キング牧師祈念碑は、大きく2つのパートに分かれている。第1のパートは、キング牧師自身の像である。巨岩からキング牧師が押し出された形をとっている。これは、キング牧師の"I have a dream"のスピーチからの1節である"With this faith, we will be able to hew out of the mountain of despair a stone of hope(この信念をもって、我々は絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう)"から来ている。巨岩が「絶望の山」で、キング牧師像が「希望の石」を体現している。キング牧師祈念碑の入口から入ると巨岩から一片の石が前方に押し出されている様子だけが伺える。進んで行き切り出された石の前に回って見て初めてキング牧師の姿を見ることができる。これは、まさにキング牧師がそのリーダーシップにより「絶望」から「希望」を生み出し、ジェファーソンの理想に向けて社会を一歩前進させたことを象徴しているものと思われる。また、キング牧師は、あえて正義の怒りに満ちた表情で彫られている。

絶望の山

希望の石
第2のパートは、Inscription Wall(碑文の壁)と呼ばれるキング牧師のスピーチや文章から引用した言葉が刻まれている壁である。壁は、「絶望の山」の左右に展開されており、1955年のアラバマ州モンゴメリーのバスボイコット時の演説の一節から1968年暗殺4日前のワシントン大聖堂での演説の一節まで14の言葉が刻まれている。この中に"I have a dream"の一節は含まれていない。これは、祈念碑の第1のパート自体が"I have a dream”の演説を体現していることと、キング牧師の思想・信条を表した言葉は他にもあり、それらにも焦点を当てたいとの意図を反映したことに由来する。

碑文の壁
「この信念をもって、我々は絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう」というキング牧師の言葉は、世界中の全ての人々への希望のメッセージとして今日も輝きつづけている。
(国立公園局のHP)
11月7日、サラザール内務長官による献呈式が行われ、Patterson Great Falls(パターソン・グレート・フォールズ)が 国立歴史公園として正式に発足しました。グレート・フォールズは、パターソンの街を流れる
Passaic River(パセイック川)に位置する落差77フィート(23m)の滝で、その水力により米国産業革命の舞台となった場所の一つです。初代財務長官である
Alexander Hamilton(アレクサンダー・ハミルトン)がその水力を用いた産業振興の可能性を見出し、パターソンにはニュージャージー州初の水力を用いた紡績工場が建設され、その後パセイック川の水力は製紙、機械等の製造業の動力源として活用されました。しかし時の経過とともにパターソンは産業構造の変化に取り残され、衰退し、廃れていきました。今回の国立公園ユニット指定は、没落したかつての産業都市を新たに産業観光によって再開発しようという試みです。


英米戦争はWar of 1812(1812年戦争)と呼ばれ、来年200周年を迎えるが、どこでどのような戦いが行われたのか、今ではあまり知られていない。ミシガン州デトロイト南の
Raisin River(レーズン川)のほとりにある現在のMonroe(モンロー)の町には、かつてはFrenchtown(フレンチタウン)と呼ばれたフロンティアの村があり、英米戦争の際に戦闘の最前線となったことはほとんど知られていない。
独立間もないアメリカは、ナポレオン戦争の際に、欧州列強間の戦争に巻き込まれることを避けるため中立を宣言し、英仏両国との貿易を維持した。これを快く思わないイギリスは、アメリカ商船を拿捕するとともに、フロンティアの原住民に武器を与え、アメリカを背後から脅かした。このようなイギリスの行動にアメリカ世論は沸騰した。アメリカは、フランスとの戦争に戦力を傾注するイギリス軍の力を過小評価し、この機会にカナダへの拡張をも視野に入れ、1812年6月、イギリスに対して宣戦布告した。これが英米戦争の始まりである。
同年7月、Northwest Territory(北西領)と呼ばれた5大湖周辺地域の司令官であった
William Hull(ウィリアム・ハル)将軍率いる民兵は、カナダに進行するも、敢え無くイギリス・原住民の連合軍に跳ね返された。ハル率いるアメリカ軍は、デトロイトに退却するも、追撃に遭い、同年8月あえなく降伏をした。この結果、現在のミシガン州一帯はイギリスの勢力下に置かれた。レーズン川のほとりのフレンチタウンにもイギリス・原住民軍が進駐し、キャンプが設けられた。

当時のフレンチタウンの模型
ハル将軍に代わり北西領の司令官に任命された
William Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン)将軍は、James Winchester(ジェームズ・ウィンチェスター)准将率いる主にケンタッキーの民兵からなる2,000の部隊を派遣し、デトロイト奪還に動き出した。ウィンチェスター准将は、旧フレンチタウン住民の要請を受けて、William Lewis(ウィリアム・ルイス)、John Allen(ジョン・アレン)両大佐率いる600の兵を派遣し、1813年1月18日、フレンチタウンを奪取した。1月20日、ウィンチェスター准将と250の兵は、フレンチタウンに合流した。アメリカ軍の勝利に気をよくしたウィンチェスター准将は、旧フレンチタウンに500の兵を宿営させ、さらにその東のオープンな広場に400の歩兵隊を展開させ、自らはレーズン川の対岸に居を構えた。

レーズン川
しかし、イギリス軍の動きは早かった。Henry Proctor(ヘンリー・プロクター)大佐は、600のイギリス軍と800の原住民からなる部隊を編成し、1月21日の夜にはフレンチタウン北5マイル(8km)の所までたどり着いた。ウィンチェスターの下にはイギリス軍の目撃情報がもたらされ、無防備に置かれた歩兵隊からは不安の声が寄せられたが、ウィンチェスターはこれらを一蹴した。
1月22日、夜明けとともに、イギリス・原住民軍の攻撃は一斉に始まった。これに対し、無防備に置かれた歩兵隊は格好の餌食となり、ものの20分で総崩れとなった。200の兵が命を落とし、147名が捕虜となった。ウィンチェスター准将も捕らえられた。フレンチタウンに宿営する500の部隊は、町を囲む柵を利用してライフル銃で応戦してこの侵攻を食い止めようと激しく抵抗した。そこへイギリス・原住民軍からの使者が訪れ、一通の手紙を置いていった。それはウィンチェスター准将からの降伏を勧める手紙であった。フレンチタウンの部隊も投降せざるを得なかった。ハリソン将軍からの応援部隊の到着を予期するイギリス・原住民軍は、長居することなく、多くの負傷したアメリカ兵を残してフレンチタウンから撤収した。

歩兵隊の置かれた場所
しかし、悲劇は翌朝起こった。200の原住民がフレンチタウンに現れ、フレンチタウンは略奪され、燃やされ、負傷して残されたアメリカ兵は虐殺された。レーズン川の戦いから無事に生還したアメリカ兵はわずか33名に過ぎなかったという。この屈辱的な敗戦と残酷な虐殺はアメリカ兵の脳裏に刻まれ、"Remember the Raisin"(レーズン川を忘れるな)の合言葉の下に復讐を誓ったという。

フレンチタウン跡
しかし、この戦いには謎も多く残っている。ウィンチェスターはなぜ斯くも油断をしていたのか、なぜ翌朝原住民はフレンチタウンに戻ったのか、負傷兵を虐殺した動機は何だったのか等々、さらなる研究が待たれる。
(国立公園局のHP)
11月1日、オバマ大統領は、1906年Antiquities Law(遺跡保存法)に基づき、バージニア州にある
Fort Monroe(モンロー砦)をNaional Monumentに指定しました。モンロー砦は、英米戦争の反省で戦後に海岸線防衛のために全国に建設が進められた砦の一つです。1819年から1834年にかけて建造が行われました。後に南北戦争で南軍の司令官を務めた
Robert E. Lee(ロバート・E・リー)も若き日に駐屯した場所で、戦後には南部連合の大統領であった
Jefferson Davis(ジェファーソン・デービス)を収監した場所ともなりました。この砦は南北戦争時に一度も南軍の手に落ちることがなく、1861年にここの司令官となった
Benjamin Butler(ベンジャミン・バトラー)少将は、逃亡奴隷を戦利禁制品として所有者に返還することを拒否したため、多くの奴隷がこの砦を通じて自由の身分を得ることとなりました。その後も海軍基地、陸軍訓練施設として使用されてきましたが、2005年に施設の閉鎖が決定され、この歴史的な施設の行く末が案じられていたときに大統領の決定が下りました。また訪れる場所が増えました。
8月28日、ワシントンDCに誕生した新たな記念碑、Martin Luther King, Jr. National Memorial(マーチン・ルーサー・キングJr.国立記念碑)が第395番目の国立公園ユニットとして追加されました。この日は、
キング牧師が人種差別の撤廃を求めてワシントンDCにある
リンカーン記念碑から行った"I Have A Dream"の演説から48年目に当たる日でした。当日予定されていた竣工式には、オバマ大統領の参加も予定されていましたが、残念ながら、東海岸を襲ったハリケーン・アイリーンのために延期されてしまいました。1996年に議会が建立を認めてから15年、多くの人々の寄付により、黒人初の大統領の下で、黒人初の国立記念碑が完成しました。この国の歴史に新しいページが刻まれた、そう思う人も多いのではないでしょうか。


ギリシア神話に登場するメドゥーサはその目を見た者を石に変える力を持っていると言われる。まるでそのメドゥーサによって空にかかる虹が石に変えられてしまったかのような完全なアーチ状の石の橋がユタ州南部、パウエル湖の畔、ナバホ族が聖なる山と崇めるNavajo Mountain(ナバホ山)の麓に立っている。その名をRainbow Bridge(レインボー・ブリッジ)と呼ばれるこの石の橋は、ナバホ族やパイユート族などにとって神聖な場所であり、今日では国定公園として保護を受けている。
岩石に穴が空き、橋状になったものはアーチと呼ばれ、
アーチズ国立公園ではその多くを見ることができるが、レインボー・ブリッジを含むブリッジは、アーチの中でも水の浸食作用により穴が形成されたものを言う。高さは290フィート(88m)で、自由の女神がすっぽりその下に入る高さだ。幅は277フィート(84m)、頂点部分は厚さ42フィート(13m)、幅33フィート(10m)で、かつては観光客がその上を歩いたと言う。その規模は知られている天然の橋の中で世界最大と言われる。

レインボー・ブリッジ
レインボー・ブリッジがある地帯は、2億年より前に内海で蓄積された赤土によって形成されたカイエンタ砂岩をベースに、その後に続いた非常に乾燥した気候の下で形成された砂丘により組成されたナバホ砂岩が堆積した。これらの砂岩がその後の堆積により強く固められた後、5,500万年ほど前にこの地域一帯が大きく隆起し、これに伴い山岳、急流の河川が形成された。急流の力を得た河川は峡谷を刻みながら、蛇行してコロラド川に注ぎ込んだ。レインボー・ブリッジが形成された場所は、かつては川が大きく湾曲する部分であった。長年の水の浸食作用により、岩石中の柔らかいナバホ砂岩が削り取られ、ついには穴があき、その穴を流れる川の水によってさらに穴が拡大してブリッジが形成された。現在でも川底が水の浸食作用により削られており、レインボー・ブリッジはどんどん高くなっているという。
レインボー・ブリッジは、長らくの間、幻の石の橋であった。1909年にユタ大学学長Byron Cummings氏率いる探検隊とW.B. Douglas連邦政府測量技師率いる探検隊が同時に伝説的な石の橋を目指した。いずれが先に到達したかは現在でも争いがあるが、その話が広まるや否や翌年の1910年に
タフツ大統領によって国定公園に指定された。その後、この伝説の石の橋を一目見たいと観光客が訪れたが、彼らは何日もの長い間かけて荒涼とした岩山を乗り越える必要があった。そのような苦難の上、ここを訪れた人々の中には、セオドア・ルーズベルト前大統領も含まれていた。1963年に
グレン峡谷ダムが完成してからは、コロラド川が刻んだ深い峡谷を水が満たし、レインボー・ブリッジのあるBridge Canyon(ブリッジ峡谷)にもパウエル湖よりアクセスすることが可能となった。現在レインボー・ブリッジにアクセスするにはPage(ページ)の町からツアーをとることとなる。

ブリッジ峡谷と船着き場
しかし、なおこの石の橋は、原住民にとって神聖な場所であり、石の下をくぐることや石の上に乗ることはこの神聖さを汚す行為であるとされているのでくれぐれも慎みたい。
(国立公園局のHP)


コロラド州、ニューメキシコ州、ユタ州、アリゾナ州の4州が接する場所、Four Corner(フォー・コーナー)の近くに私有地の敷地の一角に隠れた原住民の遺跡がある。ビジターセンターもなければ、国立公園局が設置する道標もない。地主が立てた標がわずかにここに遺跡が眠っていることを知らせてくれる。この近くを訪れる観光客はおろか、近くの住民さえも多くはその存在を知らないだろう。Yucca House National Monument(ユッカ・ハウス国立遺跡)は、国立公園局ユニットの中でも最も知られざるユニットの一つである。

それもそのはず、この原住民の住居跡は発見されて以来、まだ発掘もされていない。いわばタイム・カプセルに埋められたままの状態となっている。この遺跡は、地元のユート族、ナバホ族にはその存在を知られていたが、初めて記録に残されたのは、1877年、William Holmes(ウィリアム・ホルムズ)の手による。ホルムズはその場の崩れ落ちた壁や散乱する石からこの遺跡の間取りを推定した。ホルムズは、この遺跡はUpper House(Western Complex)と呼ばれる盛り土の下に埋もれた広範な地区とそれと少し離れた場所に位置するLower Houseと呼ばれる2つの地区に分けられると考えたが、この両者の地区の関係は必ずしも明らかではない。

Upper House(Western Complex)
この地に移住してきた開拓者たちは、
Aztec Ruins National Monument(アステカ遺跡国立遺跡)と同様に、この遺跡はメキシコのアステカ文明の担い手が残したものと考えていたが、同じくアナサジ族が残したものと考えられている。フォー・コーナーの周辺には、1150年から1300年ごろにかけてとうもろこし、豆類、瓜類を栽培する民族が暮らしていた。このグループに属する人々がここユッカ・ハウスでも生活していたものと考えられている。この地に住んでいた人々は、他の遺跡と同様、1300年ごろには姿を消し、他の地に去っていった。
ユッカ・ハウスの名前は、ユッカ・ハウスの背景にそびえるSleeping Ute Mountain(スリーピング・ユート山)が原住民たちから
ユッカの生える山と呼ばれていることに由来する。このユッカ・ハウスも、現在では、わずかにLower Houseの北東の壁の一部だけが露出し、遺跡があることを知らせてくれる。まだ発掘されていないこの遺跡の前に立つと、考古学者が目にする発掘前の遺跡の様子が見てとれ、考古学者の気持ちが分かるかもしれない。

Lower House
(国立公園局のHP)