バージニア州のバージニア半島の先端に、Old Point Comfortと呼ばれる岬がある。ここは、バージニア州内陸部までの水運を提供する
ジェームズ川へのチェサピーク湾からの入り口に当たり、ヨーロッパ人が新大陸に現れた当初より戦略的に重要な場所として知られていた。この場所に築かれた
Fort Monroe(モンロー砦)は、19世紀から今世紀初頭まで200年にわたり軍事基地として機能し、2011年11月に大統領令によりFort Monroe National Monument(モンロー砦国立遺跡)として国立公園ユニットに加えられた。
この場所の戦略的重要性に最初に気がついたのは、1607年にイギリス初の新大陸植民地
Jamestown(ジェームズタウン)を築いた人々であった。彼らはチェサピーク湾からジェームズ川に入る入り口に位置するこの岬を発見時の穏やかな海面に因みCape Comfort(安らぎ岬)と名付けたが、この場所はジェームズタウンからの海への出入りをコントロールできる場所であるため、その戦略的重要性から1609年にはFort Algernourne(アルジャーノン砦)を築き、警備を駐屯させた。アルジャーノン砦は1612年に焼失してしまうが、その後もこの場所には、Old Point Comfort Fort(1632-1667)、Fort George(1728-1749)と軍事拠点が造られた。1619年には30名のアフリカ人を乗せたオランダ商船が現れ、物資と交換が行われた。このとき上陸したアフリカ人が新大陸イギリス領での奴隷の始まりと言われている。1802年には今も現存するOld Point Comfort Lighthouse(オールド・ポイント・コンフォート灯台)が建てられた。この灯台はチェサピーク湾で最も古い灯台となっている。
アルジャーノン砦があった場所
オールド・ポイント・コンフォート灯台
英米戦争により沿岸防衛の重要性を知らされた
James Monroe(ジェームズ・モンロー)大統領は、全国の沿岸部の戦略的重要地点に砦を築くことを決定した。Old Point Comfortもその対象に選ばれ、1819年に堅固な砦建設が着手された。ナポレオンの秘書官も務めたフランス人技師Simon Bernard(サイモン・バーナード)の設計によるこの砦は、15年の歳月をかけて1834年に完成した。砦は、モンロー大統領の名前をとってモンロー砦と名づけられた。この間には、1828年に後に怪奇小説家として名をはせる
Edgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポー)が陸軍砲兵曹長として駐屯している。また、後に南北戦争で南軍の総司令官を務める若き
Robert E. Lee(ロバート・E・リー)も1831年から1834年にかけて陸軍工兵隊の現地副官(陸軍少尉)として建設を指揮している。1833年には通称Black Hawk War(ブラック・ホーク戦争)と呼ばれるイリノイ州で起きた原住民の反乱の指導者であった
Black Hawk(黒鷹)酋長がここで収監されている。Black Hawkをモンロー砦までエスコートしたのは、後の南部の大統領となる
Jefferson Davis(ジェファーソン・デービス)少尉であった。
当時リー夫妻が住んだ家
モンロー砦が最も歴史の表舞台に躍り出るのは、南北戦争のときである。モンロー砦は、南部の首都リッチモンドからジェームズ川を通ってチェサピーク湾に出るルートの出口を押さえる重要拠点であった。ヴァージニア州が連邦から分離すると、リンカーン大統領は、モンロー砦の兵力を増強し、南軍の手に落ちないようにした。モンロー砦は、南北戦争を通じて連邦軍の手にあり、南部への海からの物資補給を断つとともに、連邦軍の南部攻略作戦の前線基地の役割を果たすこととなった。とりわけ1862年の
George McClellan(ジョージ・マクレラン)将軍による
リッチモンド攻略作戦の侵攻基地となった。モンロー砦は、連邦軍の気球偵察部隊が置かれた場所としても知られている。
1861年5月、バージニア民兵Charles Mallory(チャールズ・マロリー)大佐の奴隷3名は南軍のために砲台建設に従事していたが、夜陰に乗じてモンロー砦に逃げ込んだ。当時の連邦法では、所有者が要請した場合、脱走奴隷は所有者に返還しなければならない義務があったが、モンロー砦の司令官であった
Benjamin Butler(ベンジャミン・バトラー)少将は、南軍の兵站を奴隷が支えていることを認識し、バージニア州は既に連邦を離脱しているため、連邦法の適用はなく、逃亡奴隷は戦利品(contraband)として連邦軍のものとなるとして奴隷の返還を拒否した。この決定はバトラー少将の独断でなされたものであったが、逃亡奴隷受け入れの南軍弱体化に資する意義を認め、連邦政府、議会もこれを追認した。この結果、モンロー砦は、Freedom’s Fortress(事由の砦)と呼ばれるようになり、南北戦争終了までに1万人の奴隷が自由を求めて逃げ込んだという。
モンロー砦
戦後、南部の大統領であったジェファーソン・デービスは、リンカーン暗殺共謀容疑でモンロー砦に2年間身柄を拘束された。当初の5ヶ月は窓のない砲郭の一角の牢に収監され、過酷な生活を送った。保釈金の10万ドルは、奴隷解放運動家
Horace Greeley(ホーラス・グリーリー)、鉄道王
Cornelius Vanderbilt(コーネリウス・ヴァンダービルト)ら北部の人々によって用意されたという。
デービス収監の場所
1891年から1906年にかけて沿岸防衛強化のため、武器の近代化を踏まえ数々の砲台の整備が行われた。モンロー砦には、1907年から1946年まで陸軍のCoast Artillery School(沿岸砲術学校)が置かれ、1973年以降は陸軍のTraining and Doctrine Command(訓練教義司令部)が置かれたが、2005年に米軍基地再編の一環で廃止が決定された。
Gatewood(ゲートウッド)砲台
モンロー砦は400年の歴史が詰まった場所だが、国立公園ユニットとしての整備はまだこれからであり、今後の整備が期待される。
(国立公園局のHP)