アメリカ人に歴史上最も偉大な大統領を挙げよと聞くと最も多くの票を集めるのが第16代アブラハム・リンカーン大統領である。南部諸州の連邦離脱とこれに続く南北戦争という最も困難な時期にあって、類まれな指導力と判断力で合衆国の統一を保った大統領、ゲチスバーグ演説など数々の名演説で人々を鼓舞した大統領、奴隷解放を行った偉大な大統領などという評価であろう。
この偉大な大統領の質素な出自を記念するのが、ここAbraham Lincoln Birthplace National Historical Park(アブラハム・リンカーン生誕地国立歴史公園)である。国立公園局管理のユニットの中でも、この生誕地、少年時代の家、大統領になる前に住んでいたイリノイ州の住居、彼が暗殺されたワシントンDCの劇場と彼にちなんだ土地・建物が多く指定されている。
リンカーンの父トーマスは1778年ヴァージニア生まれで1780年代にケンタッキーに家族とともに移住してきたという。トーマスが10歳のときに、トーマスの父親は農場開拓中にトーマスの眼前で原住民の襲撃を受けて死去する。成人してからは大工として身を立てる。リンカーンの母ナンシーは現在のウェストヴァージニア州の生まれ。二人は1806年に結婚し、翌年ケンタッキー州に200ドルで348 エーカー (1.4 km²)を購入し、Sinking Spring Farm(シンキング・スプリング農場)を始める。リンカーンは、引越し前に生まれた長女サラに続き、2番目の子供として1809年2月12日にこの農場で生まれた。
農場の名前の由来となった泉(Sinking Spring)
開拓農民の農場は、質素な丸太小屋と泉があるだけであった。しかし、現在では、こんな立派なギリシャ神殿風の建物に丸太小屋が納められている。
このギリシャ神殿風の記念堂は、1909年から1911年にかけてLincoln Farm Association(リンカーン農場協会)が全国10万人から募金を募り、リンカーン大統領の生まれた丸太小屋を保存するのにふさわしい記念堂を建設し、連邦政府に寄付したものである。この全国からの募金には多くの子供たちも貯金箱の中から寄付を行ったと言われている。
記念堂に収められた丸太小屋
しかし、中に納められている丸太小屋は、どうやら本物ではないらしい。この丸太小屋は1894年にこの農場を購入したニューヨークのビジネスマンA.W. Denetteが近くにあった丸太小屋を泉のほとりに移し、その後解体してリンカーンの生家として全国で展示会を行ったものとのこと。しかし、神殿風の記念堂ができる頃には、一般的にはこれがリンカーンの生家だということになっていたため、リンカーン農場協会は、これを買取り、そのまま保存することにした。丸太小屋は4m×5m程度の小さな小屋で、リンカーン生家のオリジナルよりはやや小さいものの、当時の典型的な丸太小屋で、リンカーン生家を「象徴」するものとして、今に至っている。
リンカーンが2歳のときに、さらに肥沃なKnob Creek(ノブ・クリーク)に移り、そこで7歳まで過ごす。このときにリンカーンは、奴隷反対論者Caleb Hazel(カレブ・ヘイゼル)が教えるABCスクールに通う。また、奴隷が捕まえられ、南部に連れて行かれるのを目撃している。ノブ・クリークは2001年に国立公園局が獲得し、公開されている。農場には1931年にリンカーンの友人であった家(Gollaher家)から取得し、再現された丸太小屋が建っている。
ノブ・クリークの丸太小屋
リンカーン一家はこの地で生計を立てるものの、1816年農場の権利を巡る紛争で裁判に敗れ、この地を去らざるを得なくなる。この背景には、奴隷を巡る論争が関係していると言われる。(リンカーン一家は、奴隷反対論者で、反奴隷派の教会に所属していた。)
リンカーン一家は、新たな土地を求めて、インディアナ州に移り住むこととなる。それからの話は、
Lincoln Boyhood National Memorial(リンカーン少年期国立記念碑)のところで。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)