1834年に毛皮商人William Sublette(ウィリアム・サブレット)は、現在のワイオミング州南東部のLaramie(ララミー)川とPlatte(プラット)川の合流地点の近くに取引所(フォート・ウィリアム)を設け、近くに住むスー族、シャイアン族とバッファローの毛皮の取引を開始した。1836年には、この地方の毛皮取引に従事する
アメリカン毛皮会社がこの取引所を買取り、一大取引所となった。独占は長く続かず、1841年には近くにフォート・プラットが開設されるに至り、危機感を覚えたアメリカン毛皮会社は、取引所の大改装を行い、フォート・ジョンと名付けた。しかし、この取引所のことを誰もが地名にちなみフォート・ララミーと呼んだ。この辺りの経緯は、個人商店を大手スーパーが買取り、近くにライバルが参入してきたとたんに、旧商店に大幅リノベーションを行い、新装開店するのと違わない。当時の西部にも競争原理は働いていた。
フォート・ジョン跡
同じ頃、Thomas Fitzpatrick(トーマス・フィッツパトリック)が案内するオレゴンへ向かう団体がフォート・ララミーを通りかかった。オレゴンへと向かう開拓者は年々増加し、さらに宗教の自由を求めるモルモン教の人々が加わり、さらに金の夢を見て西へと向かう探鉱者が加わり、最盛期には年間5万人以上がこのオレゴンへと向かう道(
オレゴン・トレール)を利用した。旅程を考えれば、家畜への牧草の供給を考えなければならないし、かといって夏をまって出発するとロッキー山脈越えが秋になり、雪に行く手を阻まれてしまうため、フォート・ララミー付近は初夏に混雑することとなる。この結果、毛皮取引所の機能に加えて、休憩所・商店としての旅行者へのサービスの提供が重要な役割を占めることとなる。
しかし、西部に向かう人々が増えることにより、このルートを伝統的な狩場とする原住民との衝突が増えていく。原住民の兵士のうち血気盛んな若者は、幌馬車を襲い、通行料を求めるようになった。このため、西部開拓者の旅行の安全を確保することが必要となり、1849年には、陸軍がフォート・ララミーを買収し、軍事拠点に転換した。軍事的な衝突は、双方が必ずしも望むものではなく、1851年にはフィッツ・パトリックの仲介により、1万人のスー族、シャイアン族、アラパホ族ほかの原住民が会し、1851年ララミー砦の条約が成立した。これにより、原住民側が幌馬車隊を襲わないことを約束する代わりに、合衆国がそれぞれ決められた原住民の領土を保障し、50年間、年$50,000の補償を支払うことが決められた。
Old Bedlam:当時の独身士官用宿舎(1849年)
これにより平和は保たれるかと思われたが、そうは行かなかった。原住民側の代表は、部族全てを代表する権限が与えられているわけではなく、何人かのリーダーの一人に過ぎない。このため、旅行の安全が完全に保たれたわけではなく、連邦政府側も一方的に原住民への補償金の歳出期間を削減するなど、双方の信頼関係は長続きしなかった。1854年にはJohn Grattan(ジョン・グラッタン)少尉率いる28名のパトロール隊が幌馬車からの牛泥棒の容疑でスー族の村に犯人の引渡しを要求し、金銭解決を求めた原住民側が拒否すると、発砲し、パトロール隊が返り討ちにあり全滅するという事件が起きた。これに対して、翌年、
William Harney(ウィリアム・ハーニー)准将率いる部隊がネブラスカのAsh Hollow(アッシュ・ホロー)で宿営中の原住民を襲撃し、86名を殺害し、70名を人質に奪い去り、ララミー砦にスー族を集め、トレールの安全が保たれない限り、さらなる軍事行動をとると威圧した。これらの事件を機に、連邦政府とスー族との関係は決定的に悪化した。そして1863年に、モンタナ州で金が発見されると、さらに多くの人が押し寄せるようになり、かつ原住民の伝統的な狩り場がさらに侵されるようになると、対立は決定的となった。
当初、連邦政府は、力により原住民をねじ伏せる方針をとり、ユタ地区の司令官であった
Patrick Conner(パトリック・コナー)准将を派遣し、原住民掃討に当たらせた。コナーの軍は、1865年8月にワイオミング北のTongue River(タング川)付近でアラパホ族をとらえ、襲撃し、勝利を収めたが、これ以上に戦果を上げることができなかった。1866年にララミー砦でスー族との和平交渉に臨んだが、交渉がまとまる前に、合衆国は増兵を行い、続いてモンタナの金鉱へのルートであった
Bozeman Trail(ボーズマン・トレール)を守るためのFort Phil Kearny(フィル・カーニー砦)やFort C. F. Smith(C.F.スミス砦)の建設にとりかかったため、交渉は決裂し、
Red Cloud(レッド・クラウド)酋長率いるスー族を中心とする原住民は新しくできた砦への攻撃をしかけるなど、武力闘争は続いた。中でもWilliam Fetterman(ウィリアム・フェエターマン)大尉率いる81名を誘き出し、返り討ちにあわせた事件は、連邦政府の政策を和平へと転換させる契機となった。レッド・クラウド酋長は、米国政府の真意を見極めるため、和平交渉につく条件として新しく建設した砦からの兵の引き揚げ及び砦の放棄を要求した。米国政府もこれを飲み、結果、新たな条約がララミー砦で結ばれることとなった。この条約は、1868年ララミー砦条約と呼ばれ、ボーズマン・トレールを閉鎖し、スー族らのサウスダコタ西部の居住区を保障するとともに、彼らのワイオミング州北東部、モンタナ州南東部の一帯での狩猟に保障を与えた。
当時の歩兵宿舎跡(1867年)
しかし、この条約もブラックヒルで金が発見されるに至り事実上反故にされ、再び戦闘状態に入る。このときもララミー砦が合衆国軍の前線基地として使用された。(これ以降の経緯は、
リトル・ビッグホーン戦場跡国定公園をご覧下さい。)スー族らとの戦闘が終結するに至り、ララミー砦もその必要性が低下し、1890年には放棄されることとなる。
当時の騎兵隊宿舎(1874年)
1890年の放棄後は多くの建物が西部開拓者にオークションで払い下げられた。このため、多くの建物が残り、在りし日の姿にリノベーションされている。
(国立公園局のHP)