ブッシュ大統領はよくイラク戦争を、トルーマン大統領時代の冷戦と比較する。
トルーマン大統領は、在籍時には支持率が低く、1951年11月には支持率が23%しかなく、ウォーターゲート事件で辞任したニクソン大統領の最低支持率の24%を下回るものであった。トルーマン大統領は、大統領の任期末期のときにこう言っている。"When history says that my term of office saw the beginning of the Cold War, it will also say that in those eight years we set the course that can win it.(歴史が私の任期中に冷戦が始まったと言えば、私達が冷戦に勝てるようにコースを定めたとも言うだろう。)"その後の歴史は、彼の予言どおりの展開をたどり、ソ連は崩壊し、自由の前に共産主義は敗れた。 東西冷戦という困難に直面し、自由の最終的勝利を信じ、難しい歴史の潮目の舵取りを行ったトルーマン大統領は、現在では歴史家から高く評価されているが、現職中は最も不人気な大統領であったというのは今となっては驚きだ。
トルーマンは、名門に生まれたわけでも、天才であったわけでもない。1884年5月8日、ミズーリー州のLamar(ラマー)で農家のJohn(ジョン)とMatha(マーサ)の2人目の子供として生まれた。彼のミドルネームはSだけで、これは両親の父親の名前がともにSで始まる名前を有していたためと言われている。1890年に家族はIndependence(インディペンデンス)に移り住み、以降インディペンデンスは、トルーマンの故郷となる。この年、6歳の彼は運命的な出会いをする。日曜学校で活発な美しい5歳の女の子に出会う。彼女の名前はBess Wallace(ベス・ワラス)。地元の名士の娘であった。後の
トルーマン夫人である。彼は少年時代に農場の仕事を手伝い勤労の尊さを学ぶ。
1901年高校を卒業するが、貧しかったトルーマンは進学できず、家計を助けるためカンサス・シティーで事務員や銀行員の仕事を行う。1906年には実家に戻り、再び農業を手伝う。1910年にベスと再会し、プロポーズをするが断られる。トルーマンはあきらめなかった。結婚するには資金が必要だということで、トルーマンはいくつかの投機事業に手を出すが、いずれも失敗に終わる。トルーマンは自分のことを落伍者だと思い始めていた。
第1次大戦が始まり、トルーマンも陸軍に入隊し、大尉してフランス戦線に従事する。彼の部隊は一人の犠牲者も出さず、戦争を終え、帰国後ベスと結婚する。彼女の実家で同居をはじめるが、この家が終生の住処となる。カンサス・シティーで紳士服屋を始めるが、倒産してしまう。
しかし、この後、トルーマンの運命は突如開ける。第1次大戦の戦友の叔父
Tom Pendergast(トム・ペンダガスト)がカンサス・シティーの政界のボスで、郡の裁判官の選挙に出ないかと誘われる。ペンダガストの支援を受け、彼は郡の裁判官に当選する。その後再選を重ね、1934年には上院に当選する。2期目の1941年に軍事歳出の浪費を追及し、一躍有名となり、1944年には副大統領に選ばれる。
1945年ルーズベルト大統領の死去に伴い、第33代大統領となった。カリスマにあふれ、任期絶頂の大統領の後を突然受けることになった心境をトルーマンは、「月と星と全ての天体が落ちてきたようだ」と語っている。周囲の期待も低い中、トルーマンは次々に重大な決断を迫られる。広島、長崎への原爆投下、第2次大戦の終結、国連創設、欧州復興(マーシャルプラン)、イスラエル承認、ベルリン封鎖・・・。東西対立では、トルーマン・ドクトリンを発表し、対共産主義封じ込め政策を推進した。外交上のチャレンジが続く一方で、内政面でも戦中景気が終了し、インフレが勃興し、鉄道全国ストライキが発生するなど困難を極めた。このような試練が続く中、彼は"The buck stops here."(責任は私にある。)と述べ、信念を貫いた。軍隊での白人・黒人の隔離政策を撤廃し、民主党南部諸州の支持を失った。
1948年の再選は不可能と誰もが終わった。トルーマンは、Whistlestop(ウィッスルストップ)キャンペーンと称し、全国鉄道遊説の旅に出て直接選挙民に再選を訴えた。シカゴ・トリビューン氏が早々に対立候補の
Thomas Dewey(トーマス・デューイー)の当選を報じたが、結果はトルーマンの奇跡勝利であった。2期目も多難は続く。台湾海峡封鎖、朝鮮戦争勃発、暗殺未遂・・・。朝鮮戦争では原爆使用を主張するマッカーサー将軍を解任する。支持率は低迷し、3選出馬断念に追い込まれる。
引退後は、インディペンデンスに戻り、ライブラリーの設立に尽力する。その飾らない人柄は終始変わらなかった。大統領時代も娘の
Margaret(マーガレット)の歌手デビューを酷評する新聞紙に抗議の手紙を書いたこともあった。インディペンデンスでは毎日近所の散歩を欠かさなかった。ライブラリー設立後は、そのオフィスに通い、事務員が来るまでの間、電話を自分でとることもたびたびあった。2人の朝食を自分で作ることもあった。
トルーマン大統領は評して、"Uncommon common man"(普通ではない普通の人)と言われている。ここインディペンデンスには、彼の少年時代の家、結婚後死ぬまですみ続けた家、ライブラリーなどトルーマンにちなんだ建物がいくつか点在している。これらを訪れると彼の飾らない人柄に触れることができる。
インディペンデンスの家
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。