アメリカは独立直後は国力も小さく、ヨーロッパの戦争に不介入の方針をとり、ナポレオン戦争に際しては中立の立場をとった。中立ということは、敵対するイギリス、フランスの双方と貿易を行うことを意味し、これを是認しないイギリスはアメリカの商船に攻撃を加え、船舶、乗組員を拿捕するとともに、原住民に武器を供給し、アメリカの背後から攻撃させた。このイギリスの対応に国民世論が沸騰し、アメリカは、1812年6月にイギリスに対して宣戦布告をする。いわゆる英米戦争(War of 1812)の始まりである。アメリカは、イギリスの力を過小評価し、これを機にあわよくばカナダを併合する皮算用を立てていた。
アパラチア山脈より西にミシシッピー川まで、オハイオ川から北に五大湖までの土地はNorthwest(北西部)と呼ばれ、独立戦争終了後にアメリカの領土であることが確認された。しかし、実態はアメリカ人の数は少なく、イギリスの毛皮商人が原住民と密接な交易関係を築いており、イギリスの影響が強く残り、アメリカが支配権を確立したとは言えない状況にあった。アメリカのカナダ侵攻はイギリス軍と原住民の連合軍に跳ね返され、敗退を重ね、1813年にはイギリスがミシガンを支配するまでに至った。アメリカ軍も
William Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン)将軍の下、立て直しを図り、オハイオ州北部を巡ってこう着状態になった。オハイオ州の北にはエリー湖がカナダまで広がっており、アメリカの態勢挽回のためにはエリー湖の支配権をイギリスから奪還することが重要となった。1813年9月10日にエリー湖の支配権を巡る戦いは行われた。
アメリカ艦隊を指揮するのは、若干27歳の
Oliver Hazard Perry(オリバー・ハザード・ペリー)。強力だが射程距離の短い砲弾を搭載し、風を帆に受けて接近戦を挑む作戦を企図した。Robert Barclay(ロバート・バークレー)大尉率いる当時世界最強のイギリス海軍の艦隊は、射程距離の長い砲弾でこれを迎え撃とうとした。11:45にイギリス軍の攻撃により戦いの火ぶたは切られた。ペリーは旗艦Lawrence(ローレンス)に乗り込み、6月の戦いで戦死したJames Lawrence(ジェームス・ローレンス)大尉の最後の言葉となった"Don't give up the ship!"の旗を掲げ、イギリス艦隊を目指して突進した。しかし、ローレンスはイギリス軍の2隻の大型帆船をとらえるが、激しい砲撃の中、8割の乗組員が死傷し、砲弾もつき、ペリーはローレンスを放棄せざるを得なくなる。
しかし、ペリーは、
小船で脱出し、もう1隻の大型帆船Niagara(ナイアガラ)に乗り換え、再びイギリス艦隊の2隻の大型帆船を目指して突撃した。ローレンスの砲撃により大きなダメージを受けていたイギリス軍の2隻の大型帆船は、これを迎え撃つため態勢を整えようとしたところ、団子状態となってしまい、制御不能となった。そこへナイアガラが到着し、2隻に集中砲火を浴びせたところ、イギリス艦隊は降伏を余儀なくされた。
ペリーは、ハリソン将軍に宛て、”We have met the enemy and they are ours.”(我らは敵に出会い、敵は我らのもの。)と勝利の報告を行った。この結果、イギリス軍はエリー湖の北のカナダ側に撤退を余儀なくされ、ハリソン将軍の軍が追い討ちをかけて再び破り、アメリカは北西部の支配権の確立に成功した。
このエリー湖でのペリー率いるアメリカ軍の勝利、この結果もたらされたアメリカとカナダとの事実上の国境画定とその後の平和を記念して、エリー湖に浮かぶ2マイル(3.2km)×4マイル(6.4km)の小さなSouth Bass Island(南バス島)に高さ352フィート(107m)の記念碑が建てられている。アメリカで4番目に高い記念碑となっている。
記念碑
この記念碑にはエレベーターで展望デッキまで登れ、天気のよい日には北西にエリー湖の戦場跡を眺めることができる。
エリー湖
(国立公園局のHP)