18世紀、北東アメリカの毛皮利権を巡ってはイギリスとフランスとが対立しており、イギリスにとって、五大湖から大西洋につながる水路は、毛皮取引を安定的に保つためにきわめて重要な水路であった。ニューヨーク中央部に1箇所ポーテッジ(陸路)が必要な場所があったがそれ以外は、水路で五大湖と大西洋は結ばれていた。この陸路は、やがては五大湖につながるWood Creek(ウッド・クリーク)とニューヨーク市を流れるハドソン川につながるMohawk(モホーク)川との間を結ぶ通路に当たり、Oneida Carry(オネイダ・キャリー)と呼ばれていた。1758年に、当時戦闘中(フレンチ・インディアン戦争)のフランスからこの陸路を守るため、イギリス軍のJohn Stanwix(ジョン・スタンウィックス)少将が砦を築いた。この砦は、Fort Stanwix(スタンウィックス砦)と呼ばれた。1863年のパリ条約によりフランスが現在のカナダから退いてからは、スタンウィクス砦も当初の目的を果たしたため、放棄された。
しかし、この戦略的な場所は、独立戦争の際に再び脚光を浴びる。独立戦争はアメリカにとって初めから苦難の連続であった。ワシントンが指揮する兵力のほとんどは戦闘経験のない民兵で、兵士というよりライフルの扱いに慣れた個人個人の集まりにすぎなかった。その上、州兵の兵役期間は短く、食料、弾薬、衣服、医薬品など何もかもが不足していた。イギリス兵は訓練されている上、装備も立派で、アメリカ軍は当初は連戦連敗であった。1777年までにはニューヨークはイギリスの手に落ちていた。イギリス軍の
John Burgoyne(ジョン・バーゴイン)将軍は、イギリスの勝利を決定的なものとするため、3方向からアメリカ軍の守備隊が置かれるニューヨーク州Albany(アルバニー)を目指し、アメリカ13州の北部を分断しようとした。バーゴイン将軍率いる第1グループはカナダから南下、
Barry St. Leger(バリー・セント・レジャー)将軍率いる第2グループはオンタリオ湖のほとりのOswego(オスウェゴ)からモホーク川を東進、総司令官
William Howe(ウィリアム・ハウ)将軍率いる第3グループはニューヨークからハドソン川を北上するという作戦であった。(ハウには、首都フィラデルフィアの攻略という別の目的があり、この作戦には参加しなかった。)
この作戦を察知したアメリカ軍は、1776年にスタンウィックス砦を再建し、翌年到着した
Peter Gansevoort(ピーター・ガンスブーアト)大佐の指揮の下、敵の来襲に備えた。セント・レジャー将軍率いる部隊は、イギリス軍とモホーク族らから成る1,700名規模の混成部隊で、1777年8月3日にスタンウィックス砦の包囲を開始した。この動きを事前察知したアメリカ軍のNicholas Herkimer(ニコラス・ハーキマー)将軍は、900名の民兵を引き連れ、スタンウィックス砦の応援に向かった。しかし、その途中のOriskany(オリスカニー)で、セント・レジャーの別働隊に待ち伏せされ、打ち破られてしまう。一方でガンスブーアトも
Marinus Willett(マリナス・ウィレット)大佐の下、かく乱部隊を組織し、イギリス側キャンプを襲わせた。
East Barracks(東兵舎)
アメリカ軍は、アルバニーの守備隊から兵力を裂き、
Benedict Arnold(ベネディクト・アーノルド)少将率いる救援部隊を派遣した。この増派の情報とウィレットの襲撃でモホーク族は戦意を喪失し、兵を引き上げたため、セント・レジャーの部隊は瓦解してしまい、セント・レジャーは8月22日に包囲を解き、カナダに撤退した。
また、スタンウィックス砦は、1768年にイギリスとIroquois(イロコイ)連邦が境界画定交渉を行い、イロコイ連邦がケンタッキーを事実上イギリスに譲ることが取り決められた場所や、独立戦争後の1784年に連邦政府とイロコイ連邦が和平条約を交渉した場所としても知られている。イロコイ連邦は、Seneca(セネカ)、Cayuga(カユガ)、Onondaga(オノンダガ)、Tuscarora(タスカローラ)、Oneida(オネイダ)、モホークの6部族からなる原住民の
連邦国家で、ニューヨーク州を拠点としていた。アメリカの連邦制度は、イロコイ連邦を参考にしたとも言われている。独立戦争中、オネイダ族、タスカロラ族以外の4部族はイギリス側につき、モホーク族の
Joseph Brant(ジョセフ・ブラント)を中心に開拓者への襲撃を繰り返した。独立戦争終了後、ワシントンは
John Sullivan(ジョン・サリバン)将軍率いる部隊を派遣し、イロコイ連邦の抵抗を抑えた。この結果、ジョセフ・ブラントらはカナダへ亡命し、イロコイ連邦は大部分の土地を連邦政府に譲渡することとなった。
跳ね橋
現在では、スタンウィックス砦は、1777年当時の様子に再現されている。砦は、四角形の均整のとれた星型の形をしており、五稜郭ならぬ四稜郭とでもいえる雰囲気をたたえている。
南東稜堡
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)