19世紀に入り、アメリカの産業の担い手として、セーラムなどの貿易町にとって代わったのは、本日ご紹介するLowell(ローウェル)のような繊維産業を中心とする工業都市であった。ローウェルは、アメリカ産業革命のゆりかごと呼ばれる都市である。
Francis Cabot Lowell(フランシス・カボット・ローウェル)は、もともとニューベリーポートの貿易商であったが、英米戦争の影響により貿易業が不振となり、イギリス滞在中に覚えた繊維工場をマサチューセッツに設立することを思いついた。機械工のPaul Moody(ポール・ムーディー)の協力により、イギリスの機械のコピーを製作し、投資家を募ってThe Boston Associates(ボストン・アソシエート)を設立し、ボストン郊外のWaltham(ウォールサム)で繊維工場を始めた。事業は成功したが、チャールズ川の水力は大規模なオペレーションに不向きで、1817年に亡くなったローウェルの後を継いだボストン・アソシエートの経営陣は新工場の場所を探す必要に迫られた。
彼らが目をつけたのがローウェルであった。ローウェルを流れる
Merrimack River(メリマック川)には1マイルで32フィート(10m)の落差があるPawtucket Falls(ポータケット滝)があり、パワフルな川の流れは水車による水力の活用に適した場所であった。加えて、1803年にはボストンとメリマック川を結ぶ水路
Middlesex Cannal(ミドルセックス運河)が完成しており、ボストンへのアクセスも便利であった。
ボストン・アソシエートは、アイルランド人労働者を雇い、この急流の迂回ルートとしてつくられたPawtucket Cannal(ポータケット運河)を買い取って改良を加えるとともに、ポータケット滝にダムを建設して、新たに掘ったNorthern Cannal(ノーザン運河)に豊かな水を流し込んだ。これらの運河網によって豊富に供給される水の力を活用して繊維工場を建設した。繊維工場には、ニューイングランド地方全土の農村から若い女性が労働力として集められ、彼女達は寄宿舎に住んで、一日12-14時間糸を紡いだ。わずか250名程度の寒村地帯は、1823年に最初の繊維工場が操業を開始してから、あっという間に大きな工業都市に生まれ変わり、1850年までには人口33,000人を数えるマサチューセッツ第2の都市に成長した。水車はやがてタービンにとって代わられ、水力に蒸気の力が加わるようになった。
ポータケット運河
工場の賃金は比較的良かったが、長時間労働と衛生的とはいえない工場・生活環境に女性労働者の不満は募り、ストライキもしばしばあったという。アメリカ版女性工哀史である。1840年代に入り、労働力不足から移民の労働力が導入されるようになり、最初はアイルランド人労働者が使用され、南北戦争後にはフランス系カナダ人、ギリシャ人、ポーランド人、ポルトガル人、ユダヤ系ロシア人、アルメニア人などに広がっていった。彼らは、ローウェルの街の一区画に集団で暮らし、さながらローウェルの街は世界の縮図のような街となった。
このように繁栄したローウェルの街も19世紀末には落日を迎えることとなる。最新の設備をもったより効率的な北部の繊維工場が出現し、老朽化したローウェルの工場は競争上厳しい立場に立たされ、その後綿花の供給地であった南部に繊維工場の立地が始まると、古い設備に高い賃金を支払うローウェルの繊維産業は立ち行かなくなり、1920-30年代には工場は次々と閉鎖されていった。
Lowell National Historical Park(ローウェル国立歴史公園)には、昔の紡績工場(博物館)、紡績工場を支えた運河システムなどが残されている。
Boott Mills(ブート紡績工場)
昔の紡績工場の中に入ると所狭しと紡績機械が並び、当時の工場の様子を窺うことができる。
ブート紡績工場の内部
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。