アメリカ・メイン州とカナダの国境に17世紀の幻の植民地跡がある。それがSaint Croix International Historic Site(セント・クロイ国際史跡)である。
Pierre Dugua(ピエール・デュグァ)は、1603年にフランス国王アンリ4世から北緯40-60度の北アメリカで植民地を経営し、毛皮貿易を行う特許を得て、植民地の知事に任じられた。デュグァは、翌年、地理学者
Samuel Champlain(サミュエル・シャンプラン)らを含む79名の探検隊を組織し、4月にフランスを出発した。1ヵ月後の5月に現在のカナダのノバスコシアのAnnapolis Royal(アナポリス・ロイヤル)に到着し、植民地に適した場所を探すこととした。6月にPassamaquoddy Bay(パッサマクウォディー湾)に入り、上流に船を進めたところ、川の中州に島を発見した。周囲の土地はよく肥え、レンガを作る土や水も豊富にあった。川はバスやニシンの一種である
alewife(エールワイフ)に満ちあふれていた。このため、この島を拠点として植民地を建設することとした。この川はセント・クロイ川、島はセント・クロイ島と名づけられた。
彼らは、島に砦、倉庫、住居を建て、畑をつくった。パッサマクウォディー族は、彼らの植民地を訪れ、毛皮と斧やナイフなどと交換を行った。全ては順調に進んでいるように見えた。しかし、冬が到来すると暮らしは一変した。フランスと同様の冬を想定していた一行は、厳しい北アメリカの冬に対する備えが不十分であった。植民者たちは島に閉じ込められ、食料も乏しく、寒さと飢えから35名が亡くなっていった。6月になりようやく救援船が到着し、一息をついたが、厳冬を経験したデュグァは、この植民地を放棄し、新しい場所に移動する決意を固めた。ケープ・コッドの方まで南下して探したが、結局は現在のアナポリス・ロイヤルに植民地を移すこととした。そしてこの島のことは忘れ去られてしまった。シャンプランは後に袂を分かち、1608年に後のケベックとなる場所に植民地を形成している。
独立戦争後、米国とカナダの国境は、セント・クロイ川と決められたが、どの川がセント・クロイ川か確かではなった。シャンプランの残した地図や記録を元に探索したところ、中州の島からフランス人の住居跡が発見され、セント・クロイ島の植民地が再発見された。
セント・クロイ島にはフェリーも開設されておらず、上陸することは難しい。また遺跡の保存状態もよくないため、上陸は控えるように国立公園局は呼びかけている。対岸にセント・クロイ島の歴史を記した説明版と銅像が建つが、島は対岸から眺めるしかない。
セント・クロイ島
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。