ボストンを撤退したハウ将軍率いるイギリス軍は、植民地反乱鎮圧をあきらめたわけではなかった。カナダで兵を整え、次は第1の商業都市ニューヨークに照準を定めた。この動きを知ったワシントンは、ニューヨークの防備を固めに回った。イギリスは反撃に転じ、1776年8月22日、イギリス軍2万はロングアイランドに上陸し、防備するアメリカ軍の背後に回りこみながら、兵を進めた。アメリカ軍は防戦に追われ、9月12日にはマンハッタン島での孤立を避けるためニューヨークを明け渡さざるを得なくなる。大陸軍はニューヨーク市北のWhite Plains(ホワイト・プレーンズ)に退くが、イギリス軍はこれを追い、ワシントンはニュージャージーに退き、なおもイギリス軍はこれを追い、ワシントンの軍は12月11日に冬のデラウェア川を越えて、ペンシルベニアに退き、イギリス軍を振り切った。ハウ将軍はニュージャージーの5都市に守備隊を残し、大半の兵士をニューヨークに引き揚げた。ワシントンは、このすきをつくため、冬は戦闘をしないという当時の慣例を打ち破り、再び
デラウェア川を渡り、12月26日、このうちの一つTrenton(トレントン)を奇襲し、これを落とした。この知らせを聞いたハウ将軍は、ニューヨークから
Charles Cornwallis(チャールズ・コーンウェリス)将軍率いる部隊を派遣した。ワシントンは軍をプリンストン大学のあるPrinceton(プリンストン)に下げ、1777年1月3日にプリンストンで両軍は激突した。アメリカ軍は、
Hugh Mercer(ヒュー・マーサー)将軍を
失うも、イギリス軍の攻撃を打ち破った。ワシントンは、1777年1月6日にその北東にあるMorristown(モーリスタウン)に兵を進め、そこで冬を越すこととした。
当時は、冬季は戦闘をせず、兵を休ませ、新たに兵を補充し、訓練し、雪解け後の戦闘に備える慣習があった。モリソンタウンは、ニューヨークから30マイル(48km)しか離れておらず、ニューヨークのイギリス軍ににらみが利く一方で、町の東にそびえるWatchung Mountains(ウォッチャング山地)がニューヨークのイギリス軍との間の天然の緩衝地帯となり、越冬キャンプを張るのに最適の場所であった。しかし、モーリスタウンは小さな町であったので、ワシントンの2,500の兵は、集会所、民家、納屋、テントなどに、宿泊できる場所は宿泊所とした。ここでワシントンは大きな試練に出会う。厳しい冬と乏しい食料と衣服のため兵の脱走が相次ぐ一方で、応募兵は任期が来ると直ちに故郷に帰り、新たに補充される兵は地元の民兵や新米兵で軍隊の規律を知らないものばかりであった。その上水疱瘡が流行し、ワシントンの軍は規模も士気が下がる一方であった。ワシントンは、米国史上初めての大規模な予防接種に踏み切り、水疱瘡による兵の減耗を食い止めようとした。1777年の春の到来と共に、再び戦闘が始まることとなる。同年5月にワシントンはモーリスタウンを兵站基地にすることとし、その防備の観点から町を見下ろす丘の上に砦を築かせるが、砦は暇な兵士を忙しくするだけのために造らせたとの噂が広まり、この砦は後にFort Nonsense(ナンセンス砦)と呼ばれることとなる。しかし、ここでの訓練と規律は、様々な職業人の寄せ集めの集団を真の軍隊に変えていった。
フォート・ナンセンス
1779年の冬にアメリカ軍は再びモーリスタウンで冬季キャンプを張ることになる。ワシントンは、Jacob Ford(ジェイコブ・フォード)の未亡人の家を借り、ここを本部とし、1万にのぼる兵士たちは、町から少し離れたJockey Hollow(ジョッキー・ホロー)と呼ばれる土地にバラック<を建て、そこを住処とした。しかし、1779年から1780年にかけての冬は特に厳しく、28日もブリザードが吹き荒れた。食料は乏しく、衣服もぼろぼろのままで、みるみるうちに兵士の士気は下がっていった。しかも、ワシントンの再三の要請にもかかわらず、大陸会議は全く食料と衣服の手当てができない状況であった。しかも、インフレのため日に日に日用品の価格は高騰していった。たまりかねたワシントンは、周辺の知事に緊急の食料・衣料の調達を懇願した。これにニュージャージー州が直ちに応じ、アメリカ軍は壊滅を免れた。壊滅は免れたものの、食料に事欠く状況は続き、1780年5月には第1コネチカット旅団が反乱を起こしかけるまでに到った。冬季のワシントンの最も重要な仕事は、フランスとの連携作戦の立案に加えて、食料・衣料調達のための資金確保のためのロビイングであった。フォード邸には、ワシントンが使用した
オフィスや
寝室が残されている。
フォード邸
ジョッキー・ホロー・バラック
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)