少し古い話になるが、1976年にアメリカは建国200周年を迎えたが、これとタイミングを合わせて当時のヒットメーカーElton Johnが放ったヒット曲にPhiladelphia Freedomという曲がある。フィラデルフィアはアメリカ誕生の地であり、自由を象徴する都市である。それは、フィラデルフィアで独立宣言が起草・採択され、ここで合衆国憲法が制定されたからである。Independence National Historical Park(インディペンデンス国立歴史公園)は、フィラデルフィアの歴史的建造物を保存している。
イギリス本国がフランスとの7年戦争の債務返済のため植民地に一方的に次々と課した税金は、植民地側の大きな反発を招いた。1774年の耐え難き条例と呼ばれた立法措置は、イギリス本国と植民地間の緊張を高め、ボストンでは一触即発の状況となった。事態を重く見た植民地諸州は、対応を検討するため、植民地諸州の南北の中心に当たるフィラデルフィアに集まった。呼びかけに応じ、13州のうちジョージア以外の12州の代表55名がCarpenter’s Hall(カーペンターズ・ホール)に参集した。この第1回大陸会議は、ヴァージニアの
Peyton Randolph(ペイトン・ランドルフ)議長の下、1774年9月5日から10月26日まで開催され、Articles of Association(連帯決議)を採択し、耐え難き条例が撤回されなければ、イギリス製品のボイコット、イギリスへの禁輸措置を連帯して実施すること、第2回目の大陸会議を招集することを決定した。このときには独立の声は少数派にとどまっていた。
カーペンターズ・ホール
しかし、イギリス本国は何ら改善措置を講じなかったため、植民地諸州は、1775年5月10日に第2回大陸会議をPennsylvania State House(ペンシルベニア州議会:現在はIndependence Hall(インディペンデンス・ホール)と呼ばれている。)に召集し、対応策を検討することとした。第2回大陸会議開催の準備を進めるうちに、ボストン郊外で植民地民兵とイギリス軍の
武力衝突が生じ、事態は深刻な展開を見せた。このため、同年6月14日には大陸軍を組織し、ジョージ・ワシントンを総司令官に選出した。第2回大陸会議は国王ジョージ3世宛てにオリーブの枝請願を出して和解策を模索するが、国王がこれを拒否すると、日増しに独立を求める世論が高まり、1776年6月にはヴァージニア代表
Richard Henry Lee(リチャード・ヘンリー・リー)が植民地諸州の独立と連合を宣言する決議案を提案するに到った。大陸会議は、5人からなる独立宣言の起草委員会を立ち上げ、トーマス・ジェファーソンが原案を作成した。これに
ジョン・アダムズとベンジャミン・フランクリンが少し手を加えて、
提案となった。大陸会議は、マサチューセッツの
ジョン・ハンコック議長の下、7月2日にリーの独立決議案を採択し、7月4日に独立宣言を採択した。
独立宣言には8月2日に正式に署名が行われた。これに続き、各州の連合の検討に入り、1年もの討議を経て
Articles of Confederation(連合規約)を1777年11月15日に採択し、連合規約は1781年3月1日に発効した。しかし、連合規約では、Congress of the Confederation(連合会議)が外交、国防、通貨などの権限は持つが、課税権、通商規制権限、常備軍を持たないなど、連邦政府の力は脆弱なものにとどまった。独立後、
シェイズの反乱に対して連邦政府が無力であったことなど、次第にその不備が明らかとなると、1787年にフィラデルフィアで連合規約の改正のための会議がペンシルベニア州議会に招集された。しかし、改正と批准の手続きが煩雑であることから、新たな憲法を起草する方向に議論が向かい、
James Madison(ジェームズ・マディソン)が起草したヴァージニア憲法を下敷きにしたヴァージニア提案が基礎となり、議論が進み、1787年9月17日に
憲法が
採択された。
インディペンデンス・ホール
独立宣言と合衆国憲法が審議・署名された部屋
新たな憲法の下で連邦政府が発足し、新首都を建設するまでの間、フィラデルフィアを臨時の首都とすることが決められた。この際、ペンシルベニア州議会の両翼に別館が付設され、西側のCounty Courthouse(郡裁判所)では連邦議会、東側の
City Hall(市役所)では連邦最高裁判所がその活動を行った。1790年から1800年までの間、フィラデルフィアはアメリカの首都として機能し、この間、権利の章典が合衆国憲法に追加され、最初の造幣局や中央銀行(第1合衆国銀行)が開設され、ヴァーモント、ケンタッキー、テネシーが連邦に加わるなど、連邦国家としての体制が整えられていった。こうした新しい国の枠組みが生まれるのを見守ってきたペンシルベニア州議会の鐘は、後に奴隷反対運動家からLiberty Bell(自由の鐘)と呼ばれるようになり、自由の国アメリカの象徴として人々に愛されるようになった。この鐘は、1751年にペンシルベニア州議会のために製作されたが、最初のものはひびが入っていたため、作り直した。しかし、作り直したものも、ひびが入り、一旦修復したものの、1846年2月22日のワシントン誕生日に鳴らしていたところ、ひびが広がり、使用不能となってしまった。1852年に尖塔より取り外されて以降、自由の鐘は、ひび入りのままで展示されている。
自由の鐘
インディペンデンス国立歴史公園には、これらの他、1783年に建設されたクウェーカー教徒の集会所である
Free Quaker Meeting House(フリー・クウェーカー集会所)、ベンジャミン・フランクリンの住居であったFranklin Court(フランクリン・コート)、トーマス・ジェファーソンが独立宣言案を作成した
Declaration House(デクラレーション・ハウス)、1834年に建てられた株式などの取引所であった
Merchants’ Exchange(商人の取引所)、政治論議のサロンとなった
City Tavern(シティー・ターバン)、後にジェームズ・マディソン夫人となる
Dolley Payne(ドリー・ペイン)が弁護士の夫John Todd(ジョン・トッド)と結婚生活を送っていた
Todd House(トッド邸)、初期の中央銀行である第1合衆国銀行と
第2合衆国銀行など、数多くの由緒ある建物が残り、アメリカ初期の歴史を物語っている。
フランクリン・コートにあるMarket Street House(マーケット通りの家)
第1合衆国銀行
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)