アパラチア山脈から西のミシシッピー川に到る地域は、18世紀、イギリスとフランスがビーバーの毛皮を巡り、覇権を争った地である。フランス人探検家La Salle(ラサール)は五大湖付近とミシシッピー川流域を探検し、1682年にミシシッピー川流域をその支流も含めフランス領であることを宣言した。一方で、イギリスのVirginia Company(ヴァージニア会社)は、イギリス国王ジェームス1世から植民地開拓の特許を得たが、その範囲は、北は現在のカナダとの国境で南はノースカロライナとの境までと決められていたが、西限は定められていなかったため、イギリスは、アパラチア山脈より西の地域も当然に自らの領土と主張した。そこで1748年にOhio Company(オハイオ会社)を組織し、植民地開発に乗り出した。
このため、1749年にフランスのNew France(ニューフランス)の知事は、Pierre-Joseph Céloronにオハイオ地域に派遣し、原住民のフランス忠誠確保とイギリスの影響排除に乗り出した。しかし、原住民(マイアミ族)からは、オハイオ地域は自らの土地であり、イギリスとの毛皮取引は中止する意向のないことが伝えられた。このため、1752年にニューフランス知事は兵士を派遣し、マイアミ族を討った。続いて、1753年にPaul Marin率いる2,000人の部隊を派遣し、イギリスの影響を排除するために、現在のペンシルベニア州Erie(エリー)にFort Presque Isle(プレスク・アイル砦)、現在の同州Waterford(ウォーターフォード)にFort Le Boeuf(ル・ブフ砦)と、
要所に砦を建設していった。
これに危機感を覚えたヴァージニア知事の
Robert Dinwiddie(ロバート・ディンウィディ)は、当時21歳のGeorge Washington(ジョージ・ワシントン)以下8名をル・ブフ砦に派遣し、フランス軍に撤退を要求したが、フランスはこれを拒否した。このため、ディンウィディは、翌年1月、現在のピッツバーグ付近に兵士を派遣し、拠点の建設をさせようとするが、フランス兵がこれを追い返し、ここにFort Duquesne(デュケーヌ砦)を建設した。ヴァージニア兵の支援に出発したワシントンの軍は、フランスが砦を建設したことを知り、兵を進め、追加指示を待った。近くでフランスの部隊を見かけたとの情報に接し、40名で付近を捜索していたところ、Jumonville Glen(ジュモンヴィル・グレン)で30名余りのフランスの部隊を発見し、これを壊滅させた。
ジュモンヴィル・グレン
フランス軍の報復を恐れたワシントンは、Great Meadows(グレート・メドーズ)と呼ばれていたその地に防御のための砦を築き、援軍と物資補給を待った。砦は、必要に迫られた造ったものであるため、Fort Necessity(ネセシティー砦)と名付けられた。応援部隊を得て、ワシントンの部隊は400名程度に膨らんだ。7月3日、600名のフランス軍と100名の原住民の連合軍が現れ、戦闘となった。兵力に劣るイギリス軍は苦戦を強いられ、ワシントンは休戦・降伏を受け入れざるを得なかった。イギリス軍退去後、ネセシティー砦はフランス軍に接収され、焼却された。ワシントンは、デビュー戦を飾ることができなかったが、降伏したのは生涯でこれ一度だけであり、独立戦争では強靭な粘りを見せることとなる。
ネセシティー砦
イギリスは再び体勢を整え、1755年にEdward Braddock(エドワード・ブラドック)少将率いる2,400名の部隊を派遣し、デュケーヌ砦攻略に乗り出した。ワシントンもこれに志願して参加した。7月9日に、ブラッドクの軍は、デュケーヌ砦郊外でフランス軍600名の部隊と衝突した。兵力では圧倒的に劣るフランス軍は、巧みに林を利用して銃撃戦を展開した。アメリカでの戦闘経験がないブラドックは、まともに隊列を組んで、戦闘に当たったため、イギリス軍は手痛い打撃を被り、ブラッドクも戦死した。ワシントンは、激しい銃撃の中、残った兵士を集め、退却の指揮をとった。
Fort Necessity National Battlefield(ネセシティー砦国立戦場跡)は、ネセシティー砦があった場所で行われたフレンチ・インディアン戦争の戦場跡を保存する公園である。公園には、再建されたネセシティー砦のほか、ジュモンヴィル・グレンやブラッドク少将の墓石が見られる。
また、この地はアメリカで最初の連邦政府が資金を拠出して建設された道路であるNational Road(ナショナル・ロード)が通った場所でもある。
ナショナル・ロードは、1811年以降、メリーランド州のCumberland(カンバーランド)からイリノイ州のVandalia(ヴァンダリア)まで順次開通し、1850年代まで主要な幹線道路として使用された。ナショナル・ロードは、現在のUS40号線のもととなっている。
今日のナショナル・ロード
ネセシティー砦の近くには、かつてワシントンが所有していた土地にNathaniel Ewing(ナザニエル・イウィング)判事が1827-8年ごろに建てたMount Washington Tavern(マウント・ワシントン・ターバン)が今でも残されている。マウント・ワシントン・ターバンは、ナショナル・ロードの宿場として使用され、繁盛した。
マウント・ワシントン・ターバン
(国立公園局のHP)