

1862年9月17日。この日は南北戦争で最も血が流された日となった。南北戦争史上1日の死傷者が最大の戦いが行われた場所、それがAntietam(アンティータム)である。南北両政府のこの戦いにかける思いは殊のほか強かった。南部は、西部戦線でケンタッキーを北部から奪い、綿の禁輸措置に英、仏両国の経済は影響を受け、あと一つ決定的な勝利が南部にもたらされれば、英、仏が南部を独立国として承認する可能性が出てきていた。リンカーンは、南部独立承認の動きを封じ込めるため、秘策を練っていた。しかし、その秘策の効果を最大限発揮させるためには、北部の勝利が必要であった。
第2次マナサスの戦いに勝利したArmy of Northern Virginia(北ヴァージニア軍)の司令官Robert E. Lee(ロバート・E・リー)は、次の手を考えた。彼の戦略は、大胆にメリーランド、さらにはペンシルベニアの首都Harrisburg(ハリスバーグ)に兵を進め、北軍の背後を伺い、決定的な勝利を収めることにあった。当時主戦場となったヴァージニアは疲弊し、南軍は十分な調達ができずにいた。メリーランドに進軍すれば、メリーランドは南部への親派が多く、豊かな穀倉地帯であることから、兵力、食料、衣料などの調達が十分にできるとの計算も働いていた。しかし、南部の穀倉地帯である
Shenandoah Valley(シェナンドア・ヴァレー)とリーの軍の間に位置するHarper’s Ferry(ハーパーズ・フェリー)は北軍の支配下にあった。このため、さらに兵を進めるためには、ハーパーズ・フェリーもあわせて攻略する必要があった。9月4日にポトマック川を渡った北ヴァージニア軍は、Frederick(フレデリック)に進軍し、そこで兵を割き、主力部隊は北軍をかく乱させるためHagerstown(ヘーガーズタウン)に進軍する一方で、リーが一番信頼する
Thomas Stonewall Jackson(トーマス・ストーンウォール・ジャクソン)将軍率いる別働部隊はハーパーズ・フェリーへと向かった。
これらは極秘のうちに進められた。はずであった。これら一連のリーの指示が記載された特別指令191号のコピーがフレデリック近郊の
Monocacy(モノカシー)に残され、北軍司令官の
George McClellan(ジョージ・マクレラン)将軍の手に渡った。いつもは慎重で常に相手の兵力を過剰に見るマクレランも、このチャンスを逃さす、南軍を討とうとし、兵をフレデリックから西へ進めた。しかし、その動きは鈍く、南軍に再結集のチャンスを与えてしまった。情報が漏れたことはリーの知るところとなり、リーも急遽ヘーガーズタウンに向かう兵を呼び戻し、Sharpsburg(シャープスバーグ)に結集させた。ハーパーズ・フェリーを難なく落としたジャクソンも、
A.P. Hill(A.P. ヒル)の部隊をハーパーズ・フェリーに残し、踵を返してリーの軍に加わった。北軍75,000、南軍38,000がシャープスバーグのほとりのAntietam Creek(アンティータム・クリーク)に集結した。
早朝、北軍の
Joseph Hooker(ジョセフ・フッカー)の部隊がリーの左翼ジャクソンの部隊を襲った。両軍の間にある収穫前のトウモロコシ畑は激しい銃撃で何もかもが刈り取られてしまった。戦いは一進一退を繰り返し、両軍とも応援部隊をつぎ込み、死傷者がトウモロコシ畑を赤く染めただけであった。
続いて北軍は、9:30ごろ、左翼のジャクソンに応援部隊を出して手薄となった
James Longstreet(ジェームス・ロングストリート)将軍率いる部隊の構える中央を攻め始めた。しかし、ここはくぼ地にある道路(Sunken Road)が自然の塹壕となり南軍が待ち構えていた。このくぼ地の道路を巡り、ほぼ4時間の間、血みどろの攻防戦が繰り広げられ、この場所は後にBloody Lane(血みどろの道)と呼ばれるようになった。

血みどろの道
一方で、北軍
Ambrose Burnside(アンブローズ・バーンサイド)将軍率いる12,500名の部隊は、朝の9:30からアンティータム・クリークにかかる石橋を渡り、南軍の右翼を襲おうとしていた。ここにはジョージア州の狙撃兵400名が橋を見下ろす高台に陣取り、北軍が橋を渡ろうとするたびに、これを狙い撃ちにし、4回の突撃を跳ね返し、1:00ごろまで進軍を食い止めた。バーンサイドの軍は、ようやく1:00ごろこの関門を崩し始め、3:30ごろには橋を渡り、進軍の準備を整えた。この橋は後にBurnside Bridge(バーンサイドの橋)と呼ばれるようになった。南軍は、バーンサイドの部隊がこの先のシャープスバーグの街に進軍し、背後に回られると、退却路を断たれ、絶体絶命の危機を迎えるおそれがあった。そこにブルー(北軍)のユニフォームを着た部隊が突如現れた。南軍の司令官は、危機を悟り、身構えた。しかし、ブルーのユニフォームの部隊は、南軍を通り過ぎ、そのままバーンサイドの部隊を攻撃し始めた。それはハーパーズ・フェリーに残されたヒルの部隊であった。ユニフォームがぼろぼろの部隊がハーパーズ・フェリーで北軍のユニフォームを調達して応援に駆けつけたのであった。機を制せられたバーンサイドの部隊は橋に向けて押し戻された。

バーンサイドの橋
日が暮れ、1日の戦闘が終わってみると、両軍の配置は、北軍12,400、南軍10,300の死傷者を残し一進一退を繰り返しただけで、何ら変わっていなかった。翌日は双方にらみ合い、動かなかった。次の日夜が明けるとそこに南軍の姿はなかった。戦いは引き分けであったが、兵力の1/3を失った南軍にこれ以上の戦闘は無理であった。北軍にとっても激しい戦闘は想定の範囲を超え、マクレランはリーに追い討ちをかけることを躊躇した。マクレランは、直ちに南軍を追撃しなかったため、この後リンカーンに解任される。
しかし、この戦いによる政治的な影響は大きかった。南軍が北部侵攻に成功しなかったため、イギリスは南部独立承認を見送った。リンカーンは、これを勝利ととらえ、1862年10月22日、奴隷解放宣言を発した。1863年1月1日をもって南部諸州の奴隷は全て解放されると宣言した。これによって、南部の足腰を弱めるとともに、南北戦争の大義名分に、連邦の維持に加えて、奴隷解放を追加することを狙った政治的な戦略であった。これにより、従来から奴隷制度に否定的であったヨーロッパ諸国は事実上南部側に立って参戦することが困難となった。
また、アンティータムの戦いは、初めて写真で戦場の様子が伝えられた戦いであった。
Alexander Gardner(アレクサンダー・ガードナー)が写した
生々しい戦場の写真はニューヨークで公開され、戦争の悲惨さに多くの人々が衝撃を受けた。
リーは、アンティータムで手痛い打撃を蒙ったものの、これで終わったわけではなかった。北軍はこの後もリーの知胆に苦しめられることとなる。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)