Sagamore Hill National Historic Site(サガモア・ヒル国立史跡)は、その名前からはよくわからないかもしれないが、ニューヨーク州のLong Island(ロング・アイランド)にある第26代大統領セオドア・ルーズベルトの邸宅を保存する国立公園ユニットである。
ルーズベルト邸宅のあるロングアイランドのOyster Bay(オイスター・ベイ)地区は、もともと彼の父親が別荘を立て、ルーズベルト自身も15歳のときから毎年夏を過ごしていた風光明媚なお馴染みの土地であった。1880年に婚約者の
Alice Hathaway Lee(アリス・ハザウェイ・リー)とオイスター・ベイにある納屋が建つ丘を購入し、そこに新居を建てる計画を立てた。しかし、
セオドア・ルーズベルト国立公園のところでふれたとおり、1884年に最愛の妻アリスと母マーサを同時に亡くしてしまう悲劇に見舞われる。計画はご破算かと思われたが、生れたばかりの娘アリスのために計画通り家を建てることを決意した。しかし、ルーズベルト自身は、ノースダコタで傷心を癒す生活を送り、アリスは叔母のアンナとともに新居で暮らすこととなった。1886年にルーズベルトは幼馴染のEdith Carow(エディス・キャロウ)と再婚してからは、この新居に住み、以後ルーズベルトは1919年になくなるまで、この家を終生の住居とした。ルーズベルトは、この家をサガモア・ヒルと名付けた。サガモアは、もともとこの土地を持っていた原住民の酋長の名前にちなんだものである。
サガモア・ヒル
新居に転居してから大統領に就任するまでの彼の半生については、
Theodore Roosevelt Inaugural National Historic Site(セオドア・ルーズベルト大統領就任国立史跡)のところを参照していただきたい。彼が1901年に大統領になってからは、家族はホワイトハウスに転居することになるが、毎年夏にはサガモア・ヒルに帰省し、ここから国政の指揮をとっていたため、サガモア・ヒルはSummer White House(サマー・ホワイトハウス)と呼ばれていた。また、セオドア・ルーズベルトは、日露戦争終結の仲介の労をとった功績で後にノーベル平和賞を受賞するが、平和交渉が行われたポーツマス会議の事前会議がこのサガモア・ヒルで行われている。ルーズベルトは、サガモア・ヒルで小村寿太郎やセルゲイ・ウィッテと会い、両国交渉団をオイスター・ベイに浮かぶヨットでひき合わせている。外交面では、コロンビアからパナマを独立させ、パナマ運河建設の権益を確保するなど、中南米への関与を強めた。
内政面では、科学的手法を用いて政府が社会的問題を解決すべきとの考えに立つ進歩主義を信奉した政策を展開した。とりわけSquare Deal(まっとうな取引)と称して、経済的支配力や汚職の排除に力を注いだ。ルーズベルト政権下では44の独禁訴訟が提起され、スタンダード石油の解体などが実行された。鉄道規制にも取組み、リベートの禁止、州際取引委員会による上限運賃規制、財務諸表の報告などが実現された。食品や薬品の表示や衛生規制の導入も実施した。さらに自然保護に努め、多くの国立公園、国定公園を指定したほか、林野庁を設立し、国有林の保護に当たらせた。大企業を相手にし、一般市民や労働者のために戦うリベラルなイメージは国民の人気を高めた。
多くの国民が3選を望む中、ルーズベルトは
William Howard Taft(ウィリアム・ハワード・タフト)を後継に指名して2期で大統領を引退し、元大統領としては異例の引退生活を送ることとなる。ルーズベルトは、ワシントンDCのスミソニアン協会とニューヨークのアメリカ自然史博物館のために
アフリカ探検隊を組織して自らも参加し、多くの動植物の標本を採取し、寄贈した。ヨーロッパ・ツアー後、後継に指名したタフト大統領が自分の意に沿わない政策を実施していることを知ると、1912年の大統領選挙にはタフトの対抗馬として共和党予備選挙に出馬し、共和党大会での指名が難しいことを知ると、新たな政党Progressive Party(進歩党)を組織し、大統領選挙に第3の候補者として出馬した。ルーズベルトはタフトを上回る票を獲得したが、この結果、共和党の票が割れ、タフトは落選し、民主党の
Woodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)が当選することとなった。大統領選挙に敗れたルーズベルトは、今度は
アマゾン探検に乗り出す。探検隊が新たに発見したアマゾン川の支流は、
Rio Teodoro(セオドア川)と名付けられる。しかし、ルーズベルトはこのときにマラリアと足の炎症から命を落としかける。帰国後は、さすがに未開地の探検のような無理はきかなくなり、著述活動、講演活動などに専念し、歴史、西部、自伝などの著作を残している。第1次大戦時には、早期からヨーロッパ戦線への介入を唱え、ウィルソン大統領と激しく対立した。米国参戦が決まると、自ら歩兵団を組織しようとするが、ウィルソン大統領に阻まれる一幕もあった。一方では、第1次大戦では、ルーズベルトが最も可愛がった末っ子のQuentin(クウェンティン)を失っている。晩年は、ボーイスカウト活動の発展に熱心であったという。
ルーズベルトは、探検家、歴史家、作家、ハンター、自然保護活動家、鳥類学者、軍人、カウボーイ、そして政治家でもあり大統領でもあった、多面な才能にあふれた、一言では言い表せないスケールの大きな人物である。サガモア・ヒルに残る6,000冊の蔵書は、彼の多様な側面を物語っている。
(国立公園局のHP)