Alexander Hamilton(アレクサンダー・ハミルトン)は、日本ではあまり多くの人に知られていないが、ワシントン大統領を支える初代財務長官として、輸入品への関税等による歳入の確保、独立戦争時の連邦・州の債務の処理、国立銀行の創設等、国家財政の基礎を築いた人物であり、またアメリカ初の政党であるFederalist Party(フェデラリスト党)を組織し、強い連邦政府の下、米国経済の工業化を図ろうとした。一方で、その強い個性は、多くの同時代のリーダー、ジョン・アダムズやトーマス・ジェファーソンらとぶつかり、遠ざけられる原因となり、最後は政敵
Aaron Burr(アーロン・バー)との決闘で命を落とすことになる。しかし、その時代に先駆けた彼のヴィジョンは、後に再評価されることとなり、現在では
10ドル札の顔となっている。
ハミルトンは、その生い立ちは決して恵まれたものではなかった。ハミルトンは、カリブ海の小島Nevis(ネヴィス)で私生児として生れた。1765年に父親の仕事の関係で
セント・クロイ島に移り住むが、直後に父親が家族を捨て去り、母親に育てられるが、母親も1768年に亡くなり、孤児となった。ハミルトンは貿易事務所の事務員として勤務していたが、彼の後見人のNicholas Cruger(ニコラス・クルーガー)らはその才覚に気付き、さらなる教育を積ませるためにハミルトンをアメリカ本土に留学に送り出した。しかし、ハミルトンを待っていたのは、アメリカ独立戦争の渦であり、ハミルトンは再びセント・クロイ島を訪れることはなかった。
ハミルトンは、ニューヨークのKing’s College(キングズ・カレッジ、後のコロンビア大学)に入学した。独立戦争が始まると直ちにニューヨークの民兵団に入隊し、ニューヨーク市を巡るイギリスとの攻防の際にワシントンの目に留まり、1777年にワシントンのスタッフとして採用された。ワシントンのスタッフとして4年を勤め、ワシントンの信頼を勝ち得た後、戦場に転じて、終戦を迎えた。この間1780年に
Philip Schuyler(フィリップ・シュイラー)将軍の娘の
Elizabeth(エリザベス)と結婚した。独立戦争終了後は、2年ほど連合会議の議員を務めた後、ニューヨークに戻り弁護士事務所を開いた。1787年にはニューヨーク州議会議員に選ばれ、憲法会議での合衆国憲法案の審議に参加した。彼の強い中央集権国家を創るべきとの考えとは必ずしも相容れなかったが、合衆国憲法が採択されると、その強力な支持者となり、The Federalist Paper(フェデラリスト論集)を執筆し、憲法の擁護を行った。フェデラリスト論集は、憲法提案当時の考え方を知る文書として、現在でも重要視されている。
ワシントン政権では財務大臣に任命され、ハミルトンは矢継ぎ早に革新的な提案を議会に行った。ハミルトンは、強い連邦国家が工業化を推進していくべきとの国家像を持ち、州の権限を重んじ、農業国家として成長していくヴィジョンを持っていたトーマス・ジェファーソンと激しく対立した。ハミルトンは、彼のヴィジョンに賛同する同志を募り、フェデラリスト党を組織した。これに対抗するジェファーソンらは、民主共和党を組織し、アメリカの2大政党制の幕開けとなった。ハミルトンは、独立戦争時の州債務の連邦政府への引継ぎ、独立戦争時の債務の償還、関税と物品税を中心とする国家歳入の確立、造幣局、国立銀行の設置による連邦政府を中心とした信用秩序の確立、コーストガードの創立などの中央主権的政策を実現した。しかし、ハミルトンの情事がスキャンダルとなり、ハミルトンは財務長官辞任を余儀なくされた。
財務長官辞任後は、弁護士に戻ったが、陰に陽に政治的影響力を行使した。ワシントン引退後の選挙では、そりの合わないアダムズとジェファーソンのどちらをも大統領に当選させないよう工作を図り、ニューヨーク知事選では当時副大統領アーロン・バーの対立候補を支援し、バーがニューヨーク知事になることを阻止した。その後、ハミルトンがバーについて「さらに卑劣な意見を述べることもできる」と述べた旨報道されるに至り、バーから決闘を申し込まれた。1804年7月11日の早朝
決闘は行われ、ハミルトンはその時の傷がもとで翌日この世を去った。このときハミルトンは空中に向けて銃を撃ったといわれている。
アッパーマンハッタンのニューヨーク市立大学の近くにハミルトンがその生涯で唯一所有した邸宅が国立公園ユニットとして保存されている。この家はスコットランドにあったハミルトンの祖父の家にちなんでGrange(グランジ)と呼ばれた。彼はこの邸宅の建設を"Sweet Project"と呼んで非常に楽しみにしていた。グランジはNY市庁舎などを手がけた
John McComb Jr.(ジョン・マッコムJr.)により設計され、フェデラル調の様式で建てられた。だが、ハミルトンが愛したこの邸宅に自身は2年しか住むことができなかった。
応接間
ハミルトンの死後、グランジは1833年に遺族によって売却された。グランジはその後2度移転をしている。最初は、West 143rd Street建設に伴う土地の買収のため、オリジナルの地点から2ブロックほど離れた地点に移転した。このときに表と裏のポーチが取り外されている。グランジは1962年に国立公園局の所有となるが、ハミルトンが住んでいるときの景観の場所に再移転することがその条件であった。その条件は2008年にようやくかなえられた。グランジは、かつての敷地の一部であった St. Nicholas Parkに再移転され、ようやく流浪の歴史に終止符を打つこととなった。
グランジ
(国立公園局のHP)