南北戦争が始まった際には、南北双方とも最初の大規模な戦闘で勝負が決まると考えていた。しかし、現実には、戦争は4年間続き、両軍合わせて60万人の死者を出す、建国以来未曾有の流血となった。戦争が長期化するにつれ、両軍の指導者を悩ませた問題が、戦争捕虜の取扱いであった。南北戦争開始当初、リンカーン大統領は、捕虜の交換は南を政府として公認することとなるため、捕虜の交換を拒否したが、特にヴァージニア戦線で大量の北軍兵士が南軍の捕虜となるに至り、捕虜交換の声は大きくなり、1862年7月に、北軍
John Dix(ジョン・ディックス)将軍、南軍
Daniel Hill(ダニエル・ヒル)将軍の間で交渉が行われ、全ての捕虜は原則10日以内に交換もしくは従軍しないことを条件に仮釈放することや階級に応じた交換の比率などが決められた。しかし、このルールは1863年に北軍が黒人兵を投入して以降、機能しなくなった。南軍は拘束した黒人兵を捕虜と認めようとしなかったためである。1864年3月に北軍全体の司令官に昇格したグラント将軍は、優位に立つ北軍の兵力を背景に、南軍の捕虜は交換するとすぐに部隊に復帰するだけで、捕虜の交換は南軍の戦闘能力を維持するに等しいと判断し、捕虜交換の停止を打ち出した。これによって交換を前提とした従来の捕虜政策は、大幅に修正され、急増する捕虜に対応するため、収容施設の整備が喫緊の課題となった。この結果、南北双方で、戦闘地域から離れた場所にある砦が収容施設に転換された他、新たな収容施設が急ピッチで作られた。ジョージア州Andersonville(アンダーソンビル)に作られたFort Sumter(サムター砦)もその一つである。
収容所に設置された星型の砦
アンダーソンビルの捕虜収容所は、リッチモンド周辺の北軍捕虜を収容するために、1864年2月に急遽整備された収容所で、南部最大の捕虜収容所であった。16.5エーカー(6.6ha)の土地を柵で囲っただけの簡易な造りでスタートし、同年6月には26.5エーカー(10.6ha)に拡張されるが、急増する捕虜の数に追いつかず、1万人の収容定員に対して、最盛期の同年8月には3万2千人が収容され、南部で5番目に人口の多い町となる状況であった。
白い杭は当時の収容所の境界線
こうなれば、当然のことながら、収容スペースの不足に加え、ただでさえ南部では不足している食料、衣料、医療サービスも滞りがちとなり、劣悪な衛生環境のため赤痢などの伝染病もはやり、アンダーソンビルの捕虜収容所が死のキャンプに変わるのに時間を要しなかった。
当時の収容所の様子
1865年3月に閉鎖されるまでの14ヶ月で延べ4万5千人の捕虜がアンダーソンビルの収容所に収容されたが、このうち1万3千人が亡くなっており、その死亡率は3割近い高い率であった。戦争中、211,400人の北軍兵士が捕虜となり、30,208人(14%)が収容所で亡くなっており、462,000人の南軍兵士が捕虜となり、25,976人(6%)が収容所で犠牲になっていることと比べても、非常に高い率であった。北軍がアンダーソンビルの収容所を解放した際に撮影された写真で収容所の劣悪な環境が明らかとなり、センセーションを巻き起こした。この結果、収容所長であった
Henry Wirz(ヘンリー・ワーツ)大尉は、戦争犯罪人として逮捕され、絞首刑となった。南北戦争後、戦争犯罪で死刑となった兵士は、ワーツ1名のみであった。
アンダーソン国立墓地
1865年7-8月、
Clara Barton(クララ・バートン)やアンダーソンビルに収容されていたDorence Atwater(ドレンス・アットウォーター)らは、アンダーソンビルを訪れ、ここで亡くなった1万3千人の身元確認の作業を行った。彼らの努力のお陰で、身元がわからなかった460名を除きほとんどの身元が判明し、アンダーソンビル国立墓地に葬られた。アンダーソン国立墓地に立ち並ぶ白い墓石と記念碑が過酷な収容所生活を物語っている。
記念碑
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)