キングス・マウンテンの戦いにて王党派の民兵は一掃したものの、1780年12月2日に新たに南部戦線の司令官に就任した
Nathanael Green(ナザニエル・グリーン)には、本丸であるイギリス軍にどう対抗するかという大きな問題が残っていた。
Lord Cornwallis(コーンウェリス卿)率いるイギリス軍は訓練された実力のある部隊であり、本隊同士を正面衝突させることは相当の打撃を被る危険があった。グリーンは、別働隊を派遣し、後方を撹乱し、兵站を脅かすことで、本隊の勢力を割かせ、じわじわとその勢力を削いでいく作戦を立てた。そこで
サラトガの戦いで活躍した
Daniel Morgan(ダニエル・モーガン)准将率いる別働隊を派遣し、イギリス軍の兵站を襲わせた。コーンウェリスは、
Banastre Tarleton(バナスター・タールトン)中佐率いる騎兵隊、軽歩兵を中心とする機動部隊を派遣し、モーガンを追い払おうとした。
タールトンは、1781年1月12日、モーガン部隊がPacolet River(パコレット川)付近にいるとの情報を得て、急行したが、モーガン部隊はさらに北のThicketty Creek(シッケティー川)に移動した後であった。これをさらにタールトンはパコレット川を渡り追いかけた。モーガンはこれを聞き、朝食もそのままにして、さらに北へ逃げた。しかし、雨で溢れるBroad River(ブロード川)を背にして、牧草地として知られていたCowpens(カウペンス)でタールトンを迎え撃つ決心をした。
カウペンス
モーガンは、作戦を考えた。アメリカ軍の武器はライフル銃が主で、イギリス軍は銃剣付きマスケット銃をもつ歩兵と騎兵が中心であった。このため、接近戦は得策ではなく、距離を保ちながら、イギリス軍を攻撃する方策を考える必要があった。モーガンは、キングス・マウンテンの戦いで活躍した
Andrew Pickens(アンドリュー・ピケンス)率いるヴァージニア、サウスカロライナ、ジョージアなどの南部の民兵からなる狙撃兵を前線に配置し、できるだけイギリス軍の進行を食い止めさせ、第2線としてJohn Eager Howard(ジョン・イーガー・ハワード)中佐率いるメリーランド、デラウェア出身の大陸軍兵士の部隊を配置し、第2の壁として攻撃を行わせ、イギリス軍の騎兵隊を牽制するため、William Washington(ウィリアム・ワシントン)中佐率いる騎兵隊に彼らをサポートさせることとした。
1781年1月17日夜明けどき、イギリス軍は姿を現した。イギリス軍は、アメリカ軍の姿を見るや否や、直ちに攻撃体勢に入った。アメリカ軍の狙撃兵が先制攻撃を加え、後方に退いた。狙撃兵を追って、イギリス軍騎兵が猛然とダッシュしてきた。これを
アメリカ軍騎兵が蹴散らした。イギリス軍はスコットランド部隊に攻撃命令を下した。アメリカ軍は一旦引き下がって射撃する命令を出すが、混乱の中、退却命令と勘違いし、一斉に退却し始めた。これをスコットランド部隊とイギリス騎兵隊が追跡した。モーガンは、退却兵の後ろに回りこみ、反転、一斉射撃の命令を下した。虚を突かれたイギリス軍は混乱し、これにアメリカ軍騎兵隊が攻撃を加えると、イギリス軍は総崩れとなった。イギリス軍の死傷者は390名、捕虜が500名に対して、アメリカ軍の死傷者は128名であった。(
地図(PDF)参照)
カウペンスの戦い記念碑
タールトンの部隊を壊滅させたモーガンは、グリーンの本隊に戻った。カウペンスで勝利を上げたものの、なおもコーンウェリスのイギリス軍は強大である。ノースカロライナに侵攻するイギリス軍をどう阻止するか、グリーンの試練はなお続いた。(この続きは、
Guilford Courthouse National Military Park(ギルフォード・コートハウス国立軍事公園)にて。)
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)