ワシントンの中心部の近くにあるFord’s Theatre(フォード劇場)は、もともとは1833年に建てられたThe First Baptist Church(第1バプティスト教会)であった。1859年にこの教会が別の教会と合併したことから、この建物が不要となり、1861年にボルチモアの劇場経営で成功していたJohn T. Ford(ジョン・T・フォード)に売却された。フォードは、これを劇場に改造した。興行は当初から成功したが、1862年12月30日の火事で劇場が消失してしまった。フォードは、これに挫けず、劇場を再建し、翌年の夏から公演を再開した。劇場は、ワシントンの人々の人気を呼び、社交の場となった。この劇場で上演されていたコメディーOur American Cousinは人気を博し、1865年4月14日の夜にアメリカで最も有名な人物がこれを見に出かけた。リンカーン大統領は、妻のMary(メアリー)と、招待に応じたニューヨーク選出の上院議員
Ira Harris(アイラ・ハリス)の娘Clara Harris(クララ・ハリス)、その婚約者
Henry Reed Rathbone(ヘンリー・リード・ラスボーン)少佐とともに、ステージに向かって右側のボックスシートに座った。この夜がリンカーンの運命を変える夜になることを知らずに。夜9時ごろ、ステージの裏側からリンカーンの席に近づく者がいた。彼の名前は
John Wilkes Booth(ジョン・ウィルクス・ブース)。メリーランド出身の南部親派の役者でフォード劇場でも演じたことのある役者であった。彼にとっては、フォード劇場は自分の庭のようなものであった。運命のときが刻一刻と近づいていた。
フォード劇場
ブースは、1864年5月に窮地に立っていた南部を支援するために役者稼業を辞めた。ブースは、リンカーン大統領を誘拐し、大量の南軍兵士捕虜と交換する計画を立て、仲間を募った。彼の誘いに、
John Surratt(ジョン・サーラット)、母親の
Mary Surratt(メアリー・サーラット)、
Samuel Arnold(サミュエル・アーノルド)、
Michael O'Laughlen (マイケル・オロフレン)、
David Herold(デービッド・ヘロルド)、
George Atzerodt(ジョージ・アッツアロッド)、
Lewis Powell(ルイス・パウエル)らが応じた。謀議は、メアリー・サーロットの家で行われた。1865年3月17日、リンカーンが軍事病院で行われる芝居を見に行くとの情報を得て、その帰り道に待ち伏せしたが、リンカーンが計画を変更したため、誘拐は失敗に終わった。ジョン・サーロット、アーノルド、オロフレンはグループから抜けた。そのうちに南軍の最後の頼みの綱、リー将軍率いる北ヴァージニア軍も次第に追い詰められ、4月9日に
Appomattox(アポマトックス)でグラント将軍に降伏した。ブースは、当初の誘拐計画を放棄し、大統領、副大統領、国務長官の3人を暗殺すれば混乱が生じ、形勢の逆転は可能だと考え、暗殺計画に切り替えた。そして実行役として、本人、アッツアロッド、パウエルを選び、それぞれが大統領、副大統領、国務長官を暗殺することとした。実行はリンカーンがフォード劇場に芝居を見に行く、4月14日と決められた。
ブースは、リンカーンの席に近づくや否やデリンジャー銃を取り出し、
後頭部を撃った。リンカーンは、そのまま前のめりに倒れた。異変に気がついたラスボーン少佐がブースに飛び掛ったが、ブースは短剣でラスボーンを2度刺し、深い傷を負わせた。そして2階席からステージに飛び降りた。このとき足にボックスシートの幕を引っ掛けたため、バランスを崩し、足を骨折した。しかし、そのままステージから足を引きずりながら走り去り、ステージ裏で舞台係のEdman Spangler(エドマン・スパングラー)に待たせておいた馬で暗闇の中に消えた。
向かって右側のボックス席が犯行現場
同じ頃、ヘロルドの案内で、馬車の事故で自宅療養中であった
William Seward(ウィリアム・シウォード)国務長官に薬を持ってきたと偽ってパウエルは邸宅内に入り込むことに成功した。しかし、訪問客を怪しいと思った息子の
Frederick Seward(フレデリック・シウォード)国務次官補が引き止めようとしたところ、パウエルは拳銃を取り出し、フレデリックを撃とうとしたが、暴発してしまった。パウエルは拳銃でフレデリックを殴りつけ倒した。そしてシウォードの部屋に入り込み、シウォードにナイフで何度も切りつけた。騒ぎを聞きつけた家族が出てきて、間に割って入ったため、パウエルは、ナイフで切りつけながら、外に逃げ出した。騒ぎになった時点で、ヘロルドも怖くなり、逃走した。副大統領の
Andrew Johnson(アンドリュー・ジョンソン)は、実行犯のアッツアロッドが酒に酔って暗殺計画は実行に到らず、無事であった。
リンカーンは、劇場の向かいにある洋服屋のWilliam Petersen(ウィリアム・ピーターセン)邸の
奥の寝室に運び込まれた。ベッドは長身のリンカーンには短く、リンカーンは斜めに寝かせられた。しかし、当時の医療では、手の施しようがなかった。出血は止まらず、翌日午前7時22分、リンカーンはこの世を去った。最近では、現代の医学であれば、後遺症は残るものの、リンカーンの命をとりとめることは可能であるとの
見解が示されている。
ピーターセン邸
ブースはヘロルドと落ち合った。しかし、足の骨が折れていては、逃亡もままならない。このため、知り合いの
Samuel Mudd(サミュエル・マッド)医師のところへ行き、足を固定してもらった。そして、仲間にかくまってもらいながら、逃亡を続けた。しかし、26日に納屋に隠れているところを捜索中の北軍兵士に見つかった。投降を呼びかけられ、ヘロルドはこれに応じたが、ブースは拒否した。ブースをいぶりだすために、納屋に火がつけられた。ブースは抵抗をやめようとしなかったため、その場で射殺された。
間もなく関係者は全て逮捕され、5月10日に軍事裁判が始まった。7月5日判決は下され、実行犯のヘロルド、アッツアロッド、パウエルと謀議の場を提供したメアリー・サーラットは絞首刑となった。メアリー・サーラットは女性で初めての死刑囚となった。誘拐謀議に参加したアーノルドとオロフレン、ブースをかくまったマッド医師は終身刑となり、フロリダの
ジェファーソン砦に収容された。ブースの逃亡を幇助したスパングラーは懲役6年となった。なお、リンカー暗殺後、フォード劇場は閉鎖され、政府のビルとなった。
Ford’s Theatre National Historic Site(フォード劇場国立史跡)は、リンカーン暗殺の現場であるフォード劇場とリンカーンが亡くなったピーターセン邸を保存している。フォード劇場には、リンカーンがその日着ていたコートやブースが犯行に用いたデリンジャー銃やナイフなど、生々しい遺品が展示されている。
なお、余談であるが、アメリカではリンカーンとケネディーの暗殺の類似点がよく取り上げられ、History Repeats Itself(歴史は繰り返される)という歌まで作られ、ヒットしている。例えば、リンカーンは1860年に大統領に就任し、ケネディーは1960年に大統領に就任し、100年違いだが、副大統領の生まれた年、実行犯の生まれた年も100年違いである。暗殺後大統領に昇格した副大統領は、二人ともジョンソンで、ともに南部出身の民主党員である。暗殺の行われた日はともに金曜日で、ともにファーストレディーの眼前で、後頭部を銃で撃つ方法まで一致している。2人の大統領の名前の文字の数、2人の副大統領の名前の文字の数、2人の実行犯の名前の文字の数がそれぞれ同じである。これは偶然の一致なのだろうか。それとも・・・。
(国立公園局のHP)