Colonial National Historical Park(コロニアル国立歴史公園)は、アメリカの植民地時代の歴史的な2つの場所を保存する歴史公園である。1つはJamestown(ジェームズタウン)、アメリカ大陸で初めて成功したイギリス植民地である。2つ目は、Yorktown(ヨークタウン)、独立戦争でイギリス軍が降伏した場所である。この歴史的な2つの場所は、ともにヴァージニア州のヴァージニア半島にあり、13マイル(21km)のColonial Parkway(コロニアル・パークウェイ)で結ばれている。
1.ジェームズタウン
1606年にロンドンで設立されたVirginia Company(ヴァージニア会社)は、新大陸での植民地の設立の特許を国王ジェームズ1世から得た。同年の終わりに、3隻の船、Susan Constant(スーザン・コンスタント号)、Discovery(ディスカバリー号)、Godspeed(ゴッドスピード号)は、総勢104名を乗せて、Christopher Newport(クリストファー・ニューポート)キャプテンの指揮の下、ロンドンを出航し、新大陸を目指した。5ヶ月にわたる航海の後、現在のヴァージニア州Cape Henry(ヘンリー岬)と呼ばれる岬に到達した。より定住に向いた土地を探して、現在のヴァージニア半島やチェサピーク湾を探検した後、1607年5月14日、植民地の運営委員会の会長に選ばれたEdward Wingfield(エドワード・ウィングフィールド)大尉が大西洋から40マイルほど内側に入ったジェームズ川に浮かぶJames Island(ジェームズ島)を新しい植民地の場所に定めた。この島は、蚊の繁殖した小さな沼地の島で、ジェームズ川の水は半分海水という厳しい条件であったが、原住民が近くに住んでいないため、この島が選ばれた。新しい植民地は、ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと名付けられた。
乗組員の中には、John Smith(ジョン・スミス)大尉がいた。スミスは、航海中に問題を起こし、あやうく処刑になりそうになるが、ヴァージニア会社からの指示により、植民地のリーダーに指名されたため、あやうくこれを免れた。その年の12月に食料を探してChickahomny(チカホミニー)川の付近を歩いていたところ、Powhatan(ポーハタン)族に捕らえられ、Wahunsonacock(ワフンソナコック)酋長の前に引き出された。スミスによれば、ワフンソナコックはスミスの処刑を命じたところ、酋長の娘が身を挺してスミスの命を救ったという。酋長の娘の名前は、Pocahontas(ポカホンタス)といった。ポカホンタスのおかげで、植民者のイギリス人と原住民との間に平和が保たれたが、やがて土地が侵略されることを警戒する原住民たちは、ジェームズタウンのリーダーたちを招いて暗殺しようとした。ポカホンタスは、この計画を事前にスミスに知らせて警戒させ、彼の命を2度も救ったと言われている。
ジョン・スミス
スミスは、1608年9月には植民地運営委員会の会長に選ばれ、スミスは"He who does not work, will not eat."(働かざる者食うべからず)の方針を堅持し、植民地建設を指揮した。翌年の補給船で到着した新しい植民者の中にガラス職人が含まれており、彼らはジェームズタウンにガラス工場を建設した。現在その当時の工場を再現したものが建てられ、職人がガラス作りのデモンストレーションを行っている。しかしながら、食料は不足し、生活環境は厳しく、多くの植民者たちが命を落とした。その上、原住民との関係も悪化し、植民者とポーハタン族との戦争に発展した。スミスは、1609年に火薬の暴発の怪我で本国への帰還を余儀なくされた。
ガラス工場
1609年から1610年にかけて食糧不足ため、植民者の8割が亡くなったとされている。6月にLord De La Warr(デ・ラ・ワー卿)の率いる補給船が到着し、新しい植民者とともに多くの物資が補給され、一息をついた。彼らの航海も大変であった。前年にイギリスを出航したものの、バミューダで遭難し、そこで再び船を建造して、物資を積み込み、ヴァージニアにようやく到着したのであった。船の乗客には、John Rolfe(ジョン・ロルフ)という人物が含まれていた。彼は、航海の途中で、航海中に生れた子供と妻をなくし、失意のうちにあった。彼がバミューダで手に入れた種は、ヴァージニアの土地で芽吹き、ヴァージニアにまた新たな産業をもたらした。タバコである。この頃、ポカホンタスは、植民者たちに誘拐され、ポーハタン族に捕らえられたイギリス人の交換材料にされようとした。しかし、捕虜交換は行われなかった。ポカホンタスがイギリス人との共存を望んだためである。ポカホンタスは改宗し、レベッカの名前をもらった。このポカホンタス(レベッカ)と出会い、ロルフは恋に落ちてしまう。1614年に二人は結婚し、これが原因で植民地とポーハタン族との関係は改善され、再び平和のときが訪れた。1619年にはアメリカ最初の議会がジェームズタウンに誕生している。
ポカホンタス
ヴァージニア会社は、植民地への入植者が一向に増えないことから、植民地キャンペーンを行うことを思い立ち、1616年にロルフとポカホンタスらをイギリスに招いた。二人は、生れたばかりのThomas(トーマス)を連れてイギリスに向かった。イギリスでポカホンタスは国王や貴族にもてなされた。また、スミスとの再会も果たした。1617年3月、ポカホンタスらはヴァージニアに帰る船に乗ってすぐ、まだテムズ川の上で、ポカホンタスは病気になり、Gravesend(グレーブセンド)で亡くなった。なお、トーマスは、母の死後、イギリスにとどまってイギリスで教育を受け、1635年にヴァージニアに戻り、部族のリーダーとなったという。現在もアメリカにはトーマスの子孫が多く暮らしているらしい。
平和は長く続かず、1622年には、Opchanacanough(オプチャナカナフ)の下、ポーハタン族が蜂起し、当時の人口の1/3に当たる300人以上の植民者が犠牲となった。1624年にジェームズ1世はヴァージニア会社に与えた特許を剥奪し、ヴァージニア植民地を国王直轄地とした。1644年に再びオプチャナカナフの下、大規模なポーハタン族の蜂起が起きるが、今度はオプチャナカナフは捕らえられ、拘留中に殺された。この結果、ポーハタン族の組織的抵抗は終了した。イギリス人がジェームズタウンを建てる前に、ポーハタン族のシャーマンはポーは端族が東から来る人々によって滅ぼされることを予言していたが、果たしてそのとおりとなった。
ジェームズタウンはオリジナルの場所の東側に発展を続けるが、1676年の
Nathaniel Bacon(ナザニエル・ベーコン)の反乱で焼け落ちてしまい、その後復興する。この頃建てられた教会の跡が今も残っている。しかし、1698年の火事で再び議会が焼け落ちてしまったことから、これを建て直すことなく、1699年に首都は近隣のWilliamsburg(ウィリアムズバーグ)に移された。やがてジェームズタウンは寂れていった。
教会跡
オリジナルのジェームズタウンは、長年の地形の変化により、ジェームズ川に水没してしまったと考えられていたが、1994年に始まった考古学調査の結果、1996年にオリジナルのジェームズタウンの場所が特定された。今年は、ジェームズタウン設立400周年記念に当たり、エリザベス女王を初めとして多くの人々がジェームズタウンを訪れている。オリジナルのジェームズタウンは今も発掘が続けられている。
発掘現場
(国立公園局のHP:ジェームズタウン)
2.ヨークタウン
Guilford Court House(ギルフォード・コートハウス)の戦いでアメリカ軍に勝利を収めたイギリス軍であったが、兵の1/4を消耗してしまった。このため、
Lord Cornwails(コーンウェリス卿)は、
Nathanael Greene(ナザニエル・グリーン)率いるアメリカ軍を追うのをあきらめ、ノースカロライナのWilmington(ウィルミントン)に引き揚げ、兵と兵站の補充を行った。ここでコーンウェリスは、グリーンへの支援がヴァージニアからもたらされていることから、ヴァージニアがイギリス軍に落ちていない限り、両カロライナやジョージアの占領は保てないと考え、ヴァージニア侵攻を決意する。イギリス軍は、ヴァージニアに侵攻し、馬を途中で調達し、奴隷を解放しながら進んだ。そして物資と増兵を待つため、8,000の兵とともにヨークタウンに駐留することとした。コーンウェリスは、ネルソン邸に本部を構えた。
ネルソン邸
ワシントンは、この情報を聞きつけ、フランス軍の
Rochambeau(ロシャンボー)将軍と相談し、ニューヨークを占領する将軍とHenry Clinton(ヘンリー・クリントン)総司令官率いるイギリス軍本隊を釘付けにするのに十分な兵以外は、ヴァージニアに兵を向けることとした。フランス軍は、西インド諸島から
De Grasse提督率いる海軍を急遽チェサピーク湾に北上させることとした。
De Grasse提督は、1781年9月5日、Thomas Graves(トーマス・グレーブス)提督率いるイギリス海軍をチェサピーク湾で撃退し、コーンウェリスは外部からの支援の望みを断たれた。コーンウェリスは、クリントンに応援部隊の派遣を要請する一方で、陸上からの攻撃に備えるため、砦や砲台を次々と建設した。
イギリス軍砲台
9月28日に、ワシントンとロシンボー率いる米仏連合軍16,000がヨークタウンに到着し、イギリス軍を包囲し、イギリス軍から800m離れた場所に塹壕を築いて、10月9日には大砲による攻撃準備をとった。米仏連合軍は、連日イギリス軍に対して大砲による攻撃を加えた。このとき愛国者で知られたヴァージニア民兵部隊を率いるThomas Nelson Jr. (トーマス・ネルソン・ジュニア)准将は、コーンウェリスの本部となっている自宅を砲撃するよう進言したと言われている。この攻撃でイギリス軍の大砲の多くが使用不能となった。米仏連合軍は、さらに近づき、イギリス軍から400m離れた場所に第2次塹壕の建設にとりかかった。このためにはイギリス軍の前線の砦が邪魔となったため、10月14日、米仏連合軍は、イギリス軍砦9と10を急襲して制圧した。クリントンからの援軍は遅れるとの連絡があった一方で、食料・弾薬はどんどん尽きていった。10月16日には、イギリス軍は、フランス軍砲台を破壊するため、攻撃を仕掛けるが失敗に終わり、脱出作戦も悪天候のため阻まれた。
アメリカ軍砲台
万策尽きたコーンウェリスは、10月17日に休戦を申し出、翌日Moore’s House(ムーア邸)で降伏の条件が協議された。10月19日、降伏のセレモニーが行われた。コーンウェリスは病気を理由に出席を拒否し、序列が次のCharles O'Hara(チャールズ・オハラ)准将が降伏の剣をもたらしたため、この剣は、ワシントンではなく、
Benjamin Lincoln(ベンジャミン・リンカーン)少将に渡された。イギリス軍は、アメリカ軍とフランス軍が並ぶ間をヨークタウンから
隊列を組んで歩き出て、武器を置いた。その日クリントンからの支援部隊がニューヨークを出発していたとは知る由もなかった。
ムーア邸
ヨークタウンでのイギリス軍降伏のニュースは瞬く間にアメリカ、イギリスに広まり、1782年3月、イギリス首相の
ノース卿は辞任してウィッグ党の新政権が成立し、アメリカとの平和条約の交渉に入った。5月には、ヨークタウンでの失敗の責任をとらされ、クリントン将軍は司令官を解任された。この結果、実質的なイギリス軍によるアメリカでの戦闘は終結した。1783年にはパリ条約が結ばれ、アメリカの独立はここに確立された。
ヨークタウン戦勝記念碑
(国立公園局のHP:ヨークタウン)
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)