

ワシントンDCからインターステート66号線で南西に35マイル(56km)行ったところにManassas(マナサス)という町がある。今日ではワシントンDCのベッドタウンであるが、ここはワシントンDC、リッチモンド、シェナンドア・ヴァレーへの鉄道が交差する重要な交通の要であった。この交通の要を巡って、南北戦争中2度大きな戦いが繰り広げられた。Manassas National Battlefield Park(マナサス国立戦場跡公園)は、この2度のマナサスの戦いのあった場所を保存する公園である。
1.第1次マナサスの戦い(1861年7月16日)1861年4月の南軍によるサウスカロライナ州の
Fort Sumter(サムター砦)への攻撃によって南北戦争は幕を開けたとされるが、第1次マナサスの戦いは、南北戦争最初の本格的な戦いと言える。南部諸州が連邦を離脱し、アメリカ合衆国連合を結成したものの、多くの人々は、南北が一度大きな戦いを戦えば、その勝敗により、その後のアメリカの歴史は決せられると考えていた。北部(連邦政府)が勝てば、南部諸州は連邦に復帰せざるを得ないだろうし、南部が勝てば、連邦政府はアメリカ合衆国連合を独立国として承認せざるを得なくなるだろうというのが多くの味方であった。リンカーンが75,000の志願兵の3ヶ月間の招集を呼びかけたところ、世紀の決戦が参加する前に終わってはいけないと思い、大量の志願兵がたちまち集まった。
サムター砦への爆撃を指揮した
P.G.T. Beauregard(PGTブーリガード)准将は、来る北軍のヴァージニア侵攻に備えて、22,000の兵をヴァージニア州北部に進めた。リンカーンは、東部戦線を戦うArmy of Northeastern Virginia(北東ヴァージニア軍:後のArmy of the Potomac(ポトマック川軍))の司令官に
Irvin McDowell(アーヴィン・マクダウウェル)准将を選んだ。マクダウウェルは、酒もタバコもコーヒーも紅茶も飲まないまじめな将軍であった。マクダウウェルは、軍事教練もまともに受けていない志願兵の集団からなる軍を見て不安に思ったが、リンカーンからは「こちらも素人ならあちらも素人」と説得され、議会から迅速な攻撃を求められ、かつ、3ヶ月の徴兵期間も過ぎようとしていたことから、素人軍団を率いてブーリガードに対峙することとし、1861年7月16日に35,000の兵を率いてワシントンを出発した。ブーリガードは、マナサスのBull Run(ブル・ラン)と呼ばれる川のほとりで北軍の到来に備えるとともに、シェナンドア・ヴァレーで北軍に対峙する
Joseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)准将に10,000の援軍を求めた。ジョンストンは北軍を撹乱しながら、この援軍を鉄道で派遣した。
18日、マクダウェルは、マナサスから5マイル(8km)のところにあるCenterville(センタービル)に到着し、物資を運ぶワゴンが到着するのを待った。そして、ブル・ランに展開するブーリガードの南軍の状況を探った。20日には、ジョンストンの援軍が到着し、兵力は南北互角となった。マクダウウェル、ブーリガードともに、正面にフェイントの攻撃を仕掛け、同時に相手方の左翼に回りこみ、退路を断つ作戦を立てていた。しかし、この作戦が成功するためには、スピードが必要であったが、素人集団には無理であった。しかし、ワシントンからは多くの見物客が北軍の勝利を見にピクニックに来ていた。
21日夜明けに、北軍の作戦は開始した。中央の石橋を北軍の
Robert Schenck(ロバート・シェンク)准将率いる旅団が攻めるが、南軍守備隊の
Nathan Evans(ネイザン・エヴァンス)大佐は、この攻撃がフェイントであることを見抜き、一部の兵を残して、Matthew’s Hill(マシューの丘)の南軍左翼の応援に向かい、ここで北軍と激しい戦闘になった。これを見て
Barnard Bee(バーナード・ビー)准将と
Francis Bartow(フランシス・バートー)大佐の旅団が救援に向かったが、20,000の兵を擁する北軍の攻撃は激しく、南軍は崩れて敗走しはじめた。(両軍の兵の配置は
ここを参照。)しかし、その中で微動だにせず、北軍の攻撃を食い止める旅団があった。
Thomas Jackson(トーマス・ジャクソン)大佐率いる旅団であった。これを見て、ビー准将は、”There stands Jackson like a stone wall! Rally behind the Virginians”(そこにジャクソンが石壁(ストーンウォール)のように立っている。ヴァージニア軍のもとに参集せよ。)と敗走する兵士の再結集を呼びかけた。この直後、ビーは狙撃を受け、帰らぬ人となった。司令官のブーリガード、ジョンストンも駆けつけ、Henry’s Hill(ヘンリーの丘)で南軍の再結集を行った。南軍の敗走を食い止める防御を行ったジャクソンは、この後ストーンウォールと異名をとることとなる。(この時点での両軍の兵の配置は
ここを参照。)

ジャクソンの像
午後はこのヘンリーの丘を巡る攻防となったが、南軍がシェナンドア・ヴァリーから到着したばかりの
Jubal Early(ジュバル・アーリー)大佐と
Kirby Smith(カービー・スミス)准将の旅団を追加投入し、Chinn Ridge(シン・リッジ)の北軍の右翼を攻撃する(
ここを参照。)と、疲れきった北軍は持ちこたえられなくなり、退却を始めた。当初退却は整然と行われたが、次第に退却する兵士はパニック状態となり、武器もワゴンも捨ててワシントンを目指して逃げ帰った。さらにピクニックに来ていたワシントンからの観光客もこれに混じり、現場は大混乱となった。この混乱の中、ピクニックに来ていた下院議員Alfred Ely(アルフレッド・イーライ)は馬車と離れ離れになり、南軍兵士に捕らえられ、6ヶ月リッチモンドに抑留された。

ヘンリーの丘
戦闘が終わってみれば、北軍死傷者2,900、南軍死傷者2,000となり、あまりの死傷者の多さに世間は驚愕した。一方で、この戦いは、南北双方の指導者に、本格的な長期戦が訪れることを予感させた。リンカーンは、50万人の志願兵の3年間の招集に踏み切った。
Jefferson Davis(ジェファーソン・デービス)大統領(南部)も40万人の志願兵の募集を呼びかけた。そして人々は、マナサスでの驚きが、単なる序章に過ぎなかったことを知ることになる。連邦政府は、南部の首都リッチモンドを目指して大攻勢をかけることとなる。
2.第2次マナサスの戦い(1862年8月28日-30日)1862年6月のリッチモンド攻防戦で
George McClellan(ジョージ・マクレラン)少将率いるポトマック川軍をワシントンに追い払ったRobert E. Lee(ロバート・E・リー)には、次なる脅威が待ち構えていた。リンカーンは、同月、ヴァージニアに展開する4部隊、
John Fremont(ジョン・フレモント)少将率いるMountain Department (山地局)、アーヴィン・マクダウウェル少将率いるDepartment of the Rappahannock(ラパハノック川局)、
Nathaniel Banks(ナザニエル・バンクス)少将率いるDepartment of the Shenandoah(シェナンドア川局)、
Samuel Sturgis(サミュエル・スタージス)准将率いるワシントン守備隊の一旅団を統合して、Army of Virginia(ヴァージニア軍)を設立し、その司令官に西部戦線で功を挙げた
John Pope(ジョン・ポープ)少将を充てた。この人事にかつて大統領候補であった気位の高いフレモントは反発し、辞任した。ポープは、食料その他の調達はヴァージニアで行い、命令に逆らう南部の住民は容赦なく銃殺するとの方針を発表した。リーは、ポープの軍がマクレランの軍と合流する前にこれを叩く必要があると考え、ジャクソンを派遣して、ポープ軍を誘い出す作戦に出た。
ジャクソンは、8月9日、Cedar Mountain(シーダー・マウンテン)でナザニエル・バンクスの部隊を発見し、これを打ち破った。リーは、
James Longstreet(ジェームズ・ロングストリート)少将率いる部隊30,000をジャクソンの24,000の部隊に合流させた。そして、今度はマナサスにあるポープの補給基地を破壊するため、ジャクソンの部隊を大きく迂回させて、ラパハノック川付近に駐留するポープ軍の背後に回らせた。ジャクソンの部隊は、2日間で50マイル(80km)を走破し、8月25日、マナサスの補給基地を略奪し、焼き払った。この知らせを聞いたポープは、マナサスに兵を向け、ジャクソンの部隊を追った。ジャクソンは、マナサスのGroveton(グローブトン)の森に兵を移動させた。リーは、ロングストリートの部隊を急ぎ北上させた。
28日、ジャクソンは、ポープの軍が結集する前にグローブトンで攻撃を仕掛けた。そして夜のうちに兵を移動させ、その北にある未完成の鉄道勾配の背後に配備した。翌日、ポープは、ジャクソンの部隊を援軍が到着する前に叩くため、鉄道勾配の背後に構えるジャクソンの部隊に向けて63,000の軍勢で攻撃を仕掛けた。北軍は急勾配の傾斜地を登り、攻撃を仕掛けた。これに対して、ジャクソンの部隊は塹壕から銃弾を浴びせた。数で圧倒的に勝る北軍兵士は倒されても倒されても次々と坂を上がってきた。やがてロングストリートの応援部隊が到着し、ジャクソンの右に展開し、北軍の攻撃を制止した。

ポープの司令部が置かれた場所
30日、ポープは、再びジャクソンの部隊を総攻撃した。前日と同様に、激しい戦闘となり、ジャクソンの部隊も所によっては銃剣や投石で対抗する状況に追い込まれた。このために手薄となったポープ軍の左翼にロングストリートの部隊が怒涛の攻撃を仕掛けた。この攻撃によって、ポープ軍は大混乱に陥った。北軍は、西から東に追い込まれる中、辛うじてヘンリーの丘で踏みとどまり、総崩れになるのを免れた。その夜のうちにポープ軍は、ブル・ランを渡り、ワシントンへと撤退した。(戦いの様子については、
ここを参照。)北軍の死傷者は14,000、南軍の死傷者は9,000を数え、犠牲者の数は第1次マナサスの戦いの4倍以上となった。

ジャクソンの部隊が立て籠もった鉄道路線跡
リーは、このマナサスでの勝利に勢いを駆り、さらに大胆な作戦に打って出る。それは、ポトマック川を越えてメリーランドに侵攻するというものであった。両軍は、メリーランドの
Antietam(アンティータム)で激突することとなる。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)