ニューメキシコ州の北東部、コロラド州との州境の近くに、原住民の築いた一大都市の遺跡が残されている。この遺跡の名前はAztec Ruins(アズテック(アステカ)遺跡)と呼ばれているが、メキシコのアステカ族が築いたものではなく、かつてコロラド、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコの接するFour Corner(フォー・コーナー)と呼ばれる地域に暮らしていた
アナサジ族の一大遺跡である。この地に移住してきたヨーロッパ人がメキシコのアステカ族が築いたに違いないと思い込んだため、この名前がついている。アナサジ族の遺跡と言えば、断崖住居跡が多いが、ここは断崖住居ではなく、平地の上に、いくつもの集合住居と宗教儀式に用いられた円形のキバからなる大きな集落で都市とも言うべき規模を備えている。衛星写真でこの遺跡を見ると、周到な計画の上に造られた街であることがよくわかる。
この遺跡は、San Juan River(サン・ファン川)の支流であるAnimas River(アニマス川)の流域という地の利を生かして、農業により生計を立てていた大規模な集団が築いたものと考えられている。建設は、11世紀の終わりに始まり、約200年程度かけて、綿密な計画の下に進められ、13世紀の終わりをもって終了している。建築様式やこの遺跡から発見された土器が55マイル(88km)ほど南にある
Chaco Canyon(チャコ峡谷)の巨大遺跡の影響を明らかに受けていることから、チャコ文化との関係が指摘されているが、チャコ文化の衛星都市として始まったのか、チャコ文化の流れを引き継いで独自に建設された都市なのか、諸説は尽きない。
North Ruins(北遺跡)と呼ばれる小さなアドビから始まったが、最大の集落であるWest Ruins(西遺跡)の建設は、1109年頃に始まり、1130年頃に完成したと考えられている。3階建ての500もの部屋といくつかのキバからなる集合住居が中央の広場の半径40フィート(12m)の巨大なキバを取り囲むように立ち並び、非常に豊かで活気のある集落であったことが想像される。建物から広場に通じるいくつかのドアはT字型をしており、その形が議論を呼んでいる。アメリカの原住民というと小さなテントが集まって暮らしていたというイメージがあるが、この遺跡を見れば、そのようなステレオ・タイプは吹き飛んでしまう。アナサジの人々は西遺跡の建設が終わると、その東にあるEast Ruin(東遺跡)を150年かけて徐々に形成していった。そして、1300年頃までには、周辺の他の遺跡と同様に、生活の跡が消えて無くなっている。
西遺跡
集合住居内のキバ
Aztec Ruins National Monument(アステカ遺跡国立遺跡)では、西遺跡が公開されており、トレールを歩くと、遺跡の大きさが実感できる。広場の中央に築かれた巨大なキバ(Great Kiva)は、再建され、当時の様子の再現が試みられている。ビジターセンターにはこの遺跡から発掘された土器などが展示されている。これらを見ると、かつてこの地には高度な文化をもった集団が生活していたことが分かる。
中央キバ
内部の様子
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)