サンタフェから25マイル(40km)南東に下りたところに、Pecos National Historical Park(ペコス国立歴史公園)と呼ばれる国立公園ユニットがある。ここは、ペコスのアナサジ族の末裔と植民地支配を狙うスペインが出会った場所である。
ペコスには、800年ごろから竪穴式住居の跡が確認されている。1100年ごろには、
プエブロ式住居が建てられ始めた。1450年ごろには、ペコスの小さな集落は、5階建てのプエブロ式住居が建つ、人口2,000人の都市に生まれ変わった。その理由には、農業の振興に必要な農地を生み出すために集落を集中させたという説や遊牧民である他の部族からの攻撃に対抗するために集合したという説などがあるが、よくわかっていない。ペコスに集まった人々は、Glorieta Creek(グロリエタ川)の水を活かして、とうもろこし、豆類、スカッシュなどを栽培した。遊牧の民とは、緊張関係にあったが、交易の主要なパートナーでもあった。ペコスの民は、アパッチ族などと穀物、衣料、土器などをバッファローの毛皮、石器、奴隷などと交換した。遊牧の民から手に入れた品は、他のプエブロの民などと、土器、オウムの羽、トルコ石などと交換された。
スペイン人との接触は、1541年の
コロナド探検隊との出会いに遡る。ペコスの民は、黄金境を求めて探検を続けるコロナドたちを音楽とプレゼントでもてなしたという。コロナドは、ここに捕われていたプレーリーの原住民から東に豊かな町があると聞き、東に向けて出発したという記録が残っている。その後もスペインの探検家がニューメキシコを訪れるが、この場所では金も銀も発見されなかった。やがて、スペイン人たちは、貴金属の探索をやめ、この土地を植民地として経営し、そこに住む原住民をキリスト教に改宗させることを目的とするようになった。1598年に
Don Juan de Onate(ドン・ファン・デ・オニャーテ)は、国王フェリペ2世からリオ・グランデ川上流域の植民地化を命ぜられ、400名の植民者、7,000頭の家畜、10名のフランシスコ派修道士とともにメキシコから北上し、リオ・グランデ川上流のニューメキシコをスペイン領と宣言した。彼は、ペコスにフランスコ派の修道士を派遣した。しかし、自然崇拝を行う原住民をキリスト教に改宗させることは容易ではなく、修道士は、原住民が崇拝の対象としていた偶像を破壊したため、緊張が高まった。
事態を憂慮したフランシスコ修道院は、1621年にベテラン宣教師Andres Juarez(アンドレス・フアレス)を派遣した。彼が原住民の病気を治癒して信頼を得ると、キリスト教の布教もスムーズとなり、1625年に教会を建てるまでになった。しかし、一部では、強制労働、貢物や忠誠を求めるスペインに対して反感が募り、それが1680年に原住民の大反乱となって噴出した。このとき僧侶らは殺害され、教会は破壊され、スペイン人はニューメキシコから追い出された。また、キリスト教への反感から、修道院敷地内に巨大なキバが設置された。
1692年に
Diego de Vargas(ディエゴ・デ・ヴァルガス)は、部隊を引き連れ、失地の回復のためニューメキシコに帰ってきた。一部では戦闘となったが、ペコスは、スペインの部隊を平和裏に受け容れ、戦闘にはならなかった。フランシスコ派の宣教師たちも戻ってきたが、貢物は廃止し、穏健的に改宗を勧める方策をとった。1717年に教会は、同じ場所に再建されたが、キバはそのままにされた。ペコスは平和を取り戻したかに見えたが、1780年代にはコマンチ族の襲撃や疫病の流行などで、ペコスの人口は300に満たないまでに激減した。スペイン人の入植が進むと、ペコスの交易の中心地としての機能も衰え、
サンタフェ・トレールが開通したころには、かつての隆盛は見る影も無くなっていた。1838年には最後の住人もペコスを去り、ペコスは廃墟と化してしまった。
ペコス国立歴史公園には、ペコス族の14世紀の
プエブロ式住居があった場所のほか、スペイン人ミッションが建てた教会の跡、そのそばに残る
キバの跡などが残されている。この他、公園では、一部で西部のゲチスバーグと呼ばれる南北戦争の戦いの一つ1862年3月のBattle of Glorietta Pass(グロリエッタ峠の戦い)の跡や1925年に開設されたForked Lighting Ranch(フォークド・ライティング牧場)の跡も敷地内に含まれている。
教会の跡
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)