Ulysses S. Grant(ユリシーズ・S・グラント)、
Rutherford B. Hayes(ラザフォード・B・ヘイズ)、
James A. Garfield(ジェームズ・A・ガーフィールド)、
Benjamin Harrison(ベンジャミン・ハリソン)、
William McKinley(ウィリアム・マッキンリー)、
William H. Taft(ウィリアム・H・タフト)、
Warren G. Harding (ウォーレン・G・ハーディング)に共通することは何か。7人はいずれもオハイオ生まれの大統領である。これに大統領になる前にオハイオに住んでいた
William Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン)を加えると8人になり、オハイオ州は、アメリカで最も多くの数の大統領を輩出した州であると言われる。では彼らのファースト・レディーはと言われると、名前を挙げることのできる人はほとんどいないのではないだろうか。(答は、順に
Julia Grant(ジュリア・グラント)、
Lucy Hayes(ルーシー・ヘイズ)、
Lucretia Garfield(ルクレシア・ガーフィールド)、
Caroline Harrison(キャロライン・ハリソン)、
Ida McKinley(アイダ・マッキンリー)、
Helen Taft(ヘレン・タフト)、
Florence Harding(フロレンス・ハーディング)、
Anna Harrison(アンナ・ハリソン)である。)大統領の生家や記念碑は多く国立公園ユニットとして保存されているが、ファースト・レディーに焦点を当てたものはなかった。このため、ファースト・レディーたちに焦点を当てる国立公園ユニットがオハイオ州のCanton(キャントン)にある。ここはFirst Ladies National Historic Site(ファースト・レディーズ国立史跡)と呼ばれ、アイダ・マッキンリーの実家が保存され、ファースト・レディーの記念品が集められたちょっとした博物館となっている。
ファースト・レディーという呼び名は、1849年に
Zachary Taylor(ザッカリー・テイラー)大統領が
James Madison(ジェームズ・マディソン)大統領夫人の
Dolly Madison(ドーリー・マディソン)の葬儀の弔辞で彼女のことをファースト・レディーと呼んだのが始まりと言われている。それまではMrs. President、Presidentress、Ladyなどと呼ばれていた。ファースト・レディーは必ずしも大統領の配偶者に限られず、大統領が独身の場合には、大統領夫人が務めるべき役割を親戚の他の女性が担う例があり、そのような場合にはその役割を担った女性がファースト・レディーということになる。例えば、
James Buchanan(ジェームズ・ブキャナン)大統領は独身であったため、姪の
Harriet Lane(ハリエット・レーン)がファースト・レディーの役割を務めた。
Chester Arthur(チェスター・アーサー)大統領の場合、大統領の就任1年半前に夫人が急逝したため、ファースト・レディーの役割は妹の
Mary McElroy(メアリー・マクエルロイ)が務めたが、メアリーは結婚していたため、公式のファースト・レディーには数えられていない。ファースト・レディーの役割は、その女性の性格、大統領との関係などによって変わり、社交界のホステス、大統領の内助・相談相手、国民へのコミュニケーター、政治活動家など、様々な役回りを演じてきた。公式にファースト・レディーなる役職は米国政府には設けられていない。
ファースト・レディーズ国立史跡には、アイダ・マッキンリーの実家が保存されている。アイダは、銀行を経営する父James Saxton(ジェームズ・サクストン)と母Katherine(キャサリン)の長女として1847年6月8日に生まれた。アイダは、独立心の旺盛な女性で、Brooke Hall Female Seminary(ブルック・ホール女子神学校)に学び、日曜学校の教師をしていたが、ヨーロッパ留学後、その聡明さを買われ、父の経営するStark Country Bank(スターク・カウンティー銀行)で勤めるようになった。23歳のとき、南北戦争の退役軍人で検察官のウィリアム・マッキンリーと出会い、結婚した。アイダは、実家を結婚祝いに贈呈され、以後14年間、ここでマッキンリーと暮らした。二人には、相次いで二人の娘が生まれたが、いずれも病気で亡くしている。その後、アイダは健康を崩し、たびたび癲癇の発作に襲われるようになった。
サクストン・ハウス
夫のウィリアム・マッキンリーは、1843年1月29日に、父ウィリアムと母ナンシーの7番目の子供としてオハイオ州に生まれた。Allegheny College(アレゲニー大学)1年生のときに南北戦争が勃発し、オハイオ志願歩兵隊に一兵卒として志願兵した。上官のラザフォード・B・ヘイズに認められ、物品調達担当の軍曹に引き上げられた。アンティータムの戦いでは、敵の銃撃の中、物資配送を完遂した功で少尉に昇格した。南北戦争終了時には大尉で除隊した。終戦後ニューヨーク州のアルバニーで法律を学び、オハイオ州キャントンに戻り、検察官や弁護士を務めた。1877年に、ヘイズの支援を得て共和党から連邦下院議員に当選し、当選を重ねて歳入委員長などを務めた。1890年に担当した関税引上げ法の不人気がたたり、その年の選挙で落選したが、その翌年オハイオ州知事に当選し、2期務めた。そして1896年の大統領選挙では、産業・金融の振興を唱え、民主党の
William Jenning Bryan(ウィリアム・ジェニング・ブライアン)を破り、第25代大統領に当選した。マッキンリーは、強大となったアメリカの経済力を背景に、強いアメリカを推進し、1897年ハワイの編入、1898年の米西戦争の勝利によるグアム、フィリピン、プエルトリコの併合などを断行した。国内では関税の引上げによる産業保護、アラスカのゴールドラッシュによる好景気などにより、高い人気を誇った。1900年の大統領選挙は圧倒的人気で再選を果たした。
アイダは、健康状態が思わしくなかったため、副大統領夫人が大統領夫人の役割を兼務することが多かった。ホワイトハウスでの晩餐会でも、大統領が夫人の健康を気遣い、慣例に反して、自分の隣に座らせていたという。
悲劇は突然やってきた。マッキンリー大統領は、1901年9月6日、ニューヨーク州のバッファローで開催中のパン・アメリカ博覧会の会場で無政府主義者の Leon Frank Czolgosz(レオン・フランク・ツォルゴッズ)に銃撃され、命を落とした。大統領暗殺にアイダは大きなショックを受けた。国家葬終了後、アイダは、生まれ故郷のオハイオ州キャントンに戻った。自宅ではアメリカの国旗の上にマッキンリー大統領の写真を飾り、バラを欠かさず供えた。そして毎日のようにマッキンリー大統領の墓前を見舞い、マッキンリー大統領と天国で一緒になる日を待ちわびながら暮らしたという。アイダは、大統領暗殺から5年あまりの1907年5月 26日に59歳でこの世を去った。
(国立公園局のHP)
ファースト・レディーについては、
ここを参照。