ヴァージニア州Richmond(リッチモンド)は、南部の首都であったため、南北戦争の当初からここを攻め落とすことは、北軍の1つの目標であった。南北戦争においては、大きく分けて2度、リッチモンドを包囲する戦いが行われた。Richmond National Battlefield Park(リッチモンド国立戦場跡公園)は、これらの戦いの跡を残すとともに、公園には南軍の軍事行動を背後で支えた製鉄所や当時の医療に関する博物館が含まれている。
1.Seven Days War(7日間戦争)
(1)Peninsular Campaign(半島作戦)
第1次マナサスの戦いの結果、連邦政府には、相当本腰を入れてかからない限り、戦争を早期に終わらせることは不可能であることがわかった。そのためには志願兵だらけの軍隊を訓練して戦う組織に変える必要があった。リンカーンは、Army of the Potomac(ポトマック川軍)の司令官に、ウェスト・バージニアでの小競り合いで勝利を収めて名を上げた
George McClellan(ジョージ・マクレラン)少将を任命した。Young Napoleon(若きナポレオン)と称された35歳の若き司令官は、軍隊を鍛え、督励し、検閲し、兵士たちのモラルは揚がった。1861年11月1日には、連邦軍の最高司令官に任命された。しかし、マクレランには大きな問題があった。南軍の勢力を常に過剰評価し、それを上回る兵力を求め、常に慎重に過ぎる判断を下すことであった。兵の訓練を続ける中、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬がやって来た。リンカーンは業を煮やし、マクレランに南軍攻略計画の提出を求めた。マクレランの作戦は、北ヴァージニアに駐留する南軍を迂回し、大量の兵士をヴァージニア半島に上陸させ、そこから一気に西に兵を進め、リッチモンドを攻略するというものであった。しかし、さらなる準備が必要として一向に動く気配がなかったため、リンカーンは2月22日までに軍事行動を起こし、北ヴァージニアの南軍を討つ命令を下した。ここに至り、マクレランはようやく腰を上げ、ヴァージニア半島からの上陸開始をポトマック川軍に命令した。北軍10万5千の大軍は、3月17日、ヴァージニア半島のFort Monroe(フォート・モンロー)に上陸を開始し、ゆっくりと注意深くHampton Road(ハンプトン道)を西に進んだ。
南軍のArmy of Northern Virginia(北ヴァージニア軍)を率いる
Joseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)大将は、Yorktown(ヨークタウン)に
John B. Magruder(ジョン・B・マグルーダー)少将率いる1万余りの兵団に3重の防御線を張らせ、時間を稼ぐように命じた。4月5日、これに出くわしたマクレランは驚き、ヨークタウンの包囲を命じた。マグルーダーは、前線で大きな音を立てさせ、大軍がいるかのようにマクレランに思い込ませた。マクレランはさらに慎重になり、重火器のさらなる調達を行った。5月5日に重火器で総攻撃をかけようとしたところ、南軍はWilliamburgs(ウィリアムズバーグに)退き、もぬけの殻となっていた。ウィリアムズバーグには3万2千の南軍が防御線を張っていた。これにマクレランの前進部隊4万1千が衝突したが、夜には南軍はさらに西へと撤退した。マクレランは、南軍の防御をかい潜るため、一部部隊にヨーク川を遡らせ、West Point(ウェスト・ポイント)から上陸させようとするが、5月7日、ジョンストンの派遣した
G.W. Smith(G.W.スミス)少将の兵団に止められた。5月15日には、海軍が5隻の軍艦でJames River(ジェームズ川)を遡り、リッチモンドに近づくが、Drewry's Bluff(ドゥリューリーの崖)に築かれた砲台による反撃を受け、退却を余儀なくされた。迂回ルートを阻まれたマクレランは、仕方なく陸路慎重に西へ兵を進めた。5月末にはマクレラン軍10万5千はリッチモンド北の郊外を流れるChickahominy River(チッカホミニー川)に到達した。川を越えた南には、ジョンストン率いる南軍6万が待ち構えていた。5月31日、ジョンストン率いる南軍は、マクレランの軍の左翼と中央・右翼が川を挟んで股割きになっているところ、Seven Pines(セブン・パインズ)に取り残されたマクレランの左翼(2兵団3万)を襲った。しかし、ジョンストンの作戦は複雑で、部隊間の連携がうまく行かず、次々に戦場に兵を逐次投入する結果となったため、南軍の攻撃は
Erasmus Keyes(エラスムス・キーズ)准将 の兵団は駆逐したものの、
Samuel Heintzelman (サミュエル・ヘイツルマン)准将 の兵団と応援にかけつけた
John Sedgwick(ジョン・セドウィック)准将の師団を圧倒することができなかった。しかし、このときジョンストンは被弾し、戦線から離れてしまう。翌日、南軍は攻撃を再開するが、さらに北軍の応援が到着し、攻撃は功を奏しなかった。南軍では、負傷したジョンストンに代わり、G.W.スミスが一時司令官となるが、デービス大統領は自分の軍事顧問を司令官に送り込んだ。Robert E. Lee(ロバート・E・リー)将軍である。マクレランは、激しい南軍の抵抗を見て、一旦進軍を中止し、増派を要請した。この時間を利用して、リーは、リッチモンドの周囲に多数の砦を築き、防御をさらに強化するとともに、シェナンドア・ヴァレーで徹底的に北軍を撹乱し、撃破した
Thomas Jackson(トーマス・ジャクソン)少将を呼び戻した。(これまでの両軍の動きについては、
ここを参照。)
(2)7日間戦争(1862年6月25日-7月1日)
北軍はチッカホミニー川の北に3万、南に6万に分かれていた。リーは、慎重なマクレランの性格を見抜き、少ない手勢を大胆に2つに分け、南の北軍を牽制しながら、北の3万に兵力を集中させて、これを撃破する作戦を立てた。しかし、この作戦は複雑で、成功するためには多くの部隊間の連携を必要とした。南軍が攻撃を開始する前に、北軍がリッチモンド侵攻に有利となるように、6月25日に重火器を南に移動させようとしたことから、小競り合いが生じたことが戦いの幕開けとなった。翌26日、南軍の作戦が開始された。チッカホミニー川北の
Fitz Porter(フィッツ・ポーター)准将の兵団をジャクソンの兵団が右翼から襲い、塹壕から出てきたところを、左翼から
A.P. Hill(A.P.ヒル)少将の師団が攻撃する手はずであったが、ジャクソンの師団の動きは鈍く、これを待ちきれなくなったヒルは先に正面の
George McCall(ジョージ・マッコール)准将の師団に攻撃を開始した。マッコールの師団は後退を余儀なくされたが、ポーターは、すぐに他の師団を派遣し、Beaver Dam Creek(ビーバー・ダム川)付近に兵力を集中させ、一気に反撃し、度重なるヒルの攻撃を跳ね返した。一方で、チッカホミニー川南の撹乱は功を奏し、マクレランは南軍の大軍がいると思い込み、南東に兵を引いてしまった。
ビーバー・ダム川
翌日、リーは、ジャクソン、A.P.ヒル、
James Longstreet(ジェームズ・ロングストリート)少将、
D.H. Hill(D.H.ヒル)少将の師団にGaine’s Mill(ゲインズ・ミル)付近に後退したポーターの兵団の総攻撃を命じた。しかし、この日もジャクソン師団の動きは鈍く、夕方になり戦線に到着する始末であった。部隊間の連携が今一つ悪く、戦線の隙間を作ってしまったため、その隙をポーターに反撃され、ポーターの兵団を圧倒することができなかった。翌日、早朝、ポーターは、チッカホミニー川南に退却した。(ここまでの両軍の兵の動きは、
ここを参照。)
ゲインズ・ミル付近
この時点でマクレランは、もはやリッチモンド攻略をあきらめ、撤退を開始した。南東に後退する北軍を南軍が追跡した。6月29日、マグルーダー師団がリッチモンド=ヨーク川鉄道のSavage’s Station(サベージ駅)付近で北軍に追いつき、これを攻撃したが、援軍に来るはずのジャクソン師団の到着がまたしても遅れ、マグルーダー師団は北軍の反攻に跳ね返された。(ジャクソン師団は、シェナンドア・ヴァレーでの戦闘、その後の強行軍によるリッチモンド防衛戦参加のため、極度に疲労していた。)しかし、北軍の退却も連携がとれていないため、30日、Glendale(グレンデール)のボトルネックにぶつかり、渋滞を生じてしまった。この機会をとらえ、リーは、ここに南軍の軍勢を終結させ、一気に北軍を攻撃しようとしたが、部隊間の連携は悪く、A.P. ヒルとロングストリートの師団しか攻撃をしかけることができず、しかもその攻撃も逐次の兵の投入となり、北軍の反攻に跳ね返された。(ここまでの両軍の動きは、
ここを参照。)
サベージ駅
北軍は、さらに下がり、Malvern Hill(マルヴァーン丘)を占拠し、撤退を防御するため、ここに重火器を設置した。7月1日、南軍も重火器で応戦し、その後歩兵隊による攻撃を行うが、高台に設置された北軍の重火器攻撃の威力に負け、かつ、南軍の攻撃も連携がとれず、その勢力の半数しか投入できず、北軍の反攻に跳ね返された。北軍はHarrison's Landing(ハリソンズ・ランディング)からジェームズ川に撤退した。(ここまでの両軍の動きは、
ここを参照。)
マルヴァーン丘
南軍の勝利は、リーの評価を一気に高める一方で、マクレランの評価は地に落ち、北軍最高司令官の任は解かれ、
John Pope(ジョン・ポープ)少将率いるArmy of Virgnia(ヴァージニア軍)の補強に回るよう、リンカーンに命じられた。リー、ポープと司令官は代わったが、南北両軍は再び
マナサスの地で見えることとなる。
2.The Battle of Cold Harbor(コールド・ハーバーの戦い:1864年5月31日-6月12日)
スポッツィルベニア裁判所の戦いの後も攻撃の手を緩めようとしないグラント率いる北軍は、リーの後ろに回り込もうとし、リーはそれをさせまいと南に兵を交代させ、北軍を迎え撃つ、この動きが繰り返されて、とうとう両軍は、リッチモンド北郊外で相対することとなった。1864年5月31日、
Philip sheridan(フィリップ・シェリダン)少将率いる騎兵隊は、重要な交差路であるOld Cold Harbor(オールド・コールド・ハーバー)を南軍より奪還した。グラントは、ここに北軍の勢力を結集させ、南軍に対峙しようとしたためである。6月1日にリーは、ここを取り戻そうとするが、現場には
Richard Anderson(リチャード・アンダーソン)少将の部隊しか到着せず、アンダーソンの攻撃はカービン銃による激しい射撃にあい、失敗に終わる。その後、北軍の
Horatio Wright(ホレーシオ・ライト)少将の兵団、
William Smith(ウィリアム・スミス)少将の兵団が到着し、北軍の軍勢は膨れ上がった。(ここまでの両軍の動きは、
ここを参照。)グラントは、早く攻撃を仕掛けたかったが、北軍の兵士は揃わず、早く着いた
Winfield Hancock(ウィンフィールド・ハンコック)少将の兵団の兵士たちも強行軍で衰弱していたことから、攻撃の開始を6月3日まで待った。この間に、リーは、ヒルの兵団をアンダーソンの兵団に加え、塹壕を築き、重火器を配備し、迎撃体制を整えた。新たに到着した北軍の
G.K. Warren(G.K. ウォレン)少将と
Ambrose Burnside(アンブローズ・バーンサイド)少将の兵団には、
Jubal Early(ジュバル・アーリー)中将の兵団を当てた。7マイル(11km)にわたり塹壕で固められた前線は、準備万端であった。
南軍の塹壕
6月3日、北軍10万1千は南軍6万2千に対して正面から総攻撃を仕掛けた。兵力の差にも関わらず、結果は火を見るより明らかであった。攻撃開始からわずか1時間で厚い防備の南軍の陣営から発せられる銃弾の嵐に北軍7,000人がなぎ倒された。グラントは攻撃の続行を指示しようとしたが、各兵団長から諌められた。グラントは後に、この攻撃は最大の失敗の一つであったと語っている。
南軍の重火器
6月4日から12日まで9日間、両軍は塹壕に立てこもったままにらみ合いが続いた。この間も重火器や狙撃兵による応戦が続いた。リッチモンドの戦いは、長期戦の様子を呈してきた。リーは、南軍やリッチモンドへの圧力を弱めるために、アーリー中将に命じて、シェナンドア・ヴァレーを撹乱し、あわよくば
ワシントンの背後を脅かすため、部隊を割いた。
グラントは考えた。これまでのようにリーの後背に回り込もうとしても、チッカホミニー川周辺の沼地が迅速な行動を邪魔する。しかし、退却はありえない。包囲戦を試みるとしても、リッチモンドの周囲には多数の砦や砲台が築かれ、簡単には攻められない上、南のPetersburg(ピーターズバーグ)の街から鉄道が走り、補給も可能であった。そこで気が付いた。リッチモンドを落とすためには、ピーターズバーグを落とす必要があると。グラントは、次の標的を
ピーターズバーグに定めた。リーは、グラントの次の手が何か、読めなかった。グラントの軍がジェームズ川に向かっているとの情報に接したとき、リーは焦った。ピーターズバーグには僅かの守備隊しか残っていないからだ。リーは急いで兵を割いてピーターズバーグに向かわせた。
3.The Battle of Chaffin’s Farm(1864年9月29日-30日)
ピーターズバーグ包囲戦のときに、グラントが仕掛けたリッチモンド、ピーターズバーグ同時攻撃のリッチモンドでの戦場跡も保存されている。1864年9月29日、
Benjamin Butler(ベンジャミン・バトラー)将軍率いる部隊は、ジェームズ川北の高台New Market Heights(ニュー・マーケット・ハイツ)を奪取した。この戦いでは北軍の黒人連隊が投入され、活躍した。また、
Edward Ord(エドワード・オード)率いる別働隊がリッチモンド郊外南部の南軍守備隊の残るFort Harrison(ハリソン砦)を急襲し、これを奪った。しかし、その周囲のFort Gregg(グレッグ砦)、Fort Gilmer(ギルモア砦)、Fort Johnson(ジョンソン砦)は奪うことができなかった。また、Fort Hoke(ホウク砦)は南軍から奪ったものの、援軍がなく、放棄せざるを得なかった。北軍は、奪ったハリソン砦の名前をFort Burnham(バーンハム砦)に改名した。バーンハムは、29日の戦いで死亡した北軍の将校の名前である。翌30日、南軍はハリソン(バーンハム)砦の奪還を試みるが、失敗に終わった。その後、両軍は、にらみ合いを続けることとなる。
ハリソン(バーンハム)砦
4.その他
この他、リッチモンド市街には、Tredegar Iron Works(トレドガー製鉄所)の跡が保存されている他、Chimborazo Hospital(チンボラゾ病院)のあった場所に医療博物館が公開されている。トレドガー製鉄所は、南北戦争が始まる以前の、1836年に設立されたもので、戦前にはリッチモンドを有数の製鉄の町にのし上げ、戦中は南軍の鉄需要をまかない、破壊を免れたため、戦後はリッチモンド復興の助けとなった。チンボラゾ病院は、1861年10月に開設された南部で最も大きな病院で、3,200人の患者が収容可能であった。南北戦争中は総勢で76,000人がここで治療を受けた。当時としては最新鋭の病院であったが、病原菌の知識、外科手術の消毒、抗生物質もなかった時代であるため、入院患者の10人に2人は亡くなったと言われている。
トレドガー製鉄所跡
この他、国立公園ユニットではないが、リッチモンドには、南部の大統領邸宅や博物館などもあり、南北戦争に興味がある人はぜひとも訪れるべき場所であろう。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)