ピーターズバーグから撤退した南軍は、食糧補給のため、Amelia Court House(アメリア・コートハウス)に向かった。1865年4月4日、アメリア・コートハウスで待っているはずの食糧はなかった。リーは、ここで休息をとることとし、食糧調達に付近に出向かせたが、得られる食糧はほとんどなかった。さらに西のFarmville(ファームビル)に食糧を手配するよう調整し、南軍はさらに西に向かった。しかし、翌6日には、Sayler's Creek(セイラー川)付近で
Richard Ewell(リチャード・イーウェル)中将らの部隊が北軍の
Philip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将率いる騎兵隊に追いつかれて本隊から引き離され、降伏を余儀なくされてしまった。さらに4月7日は、北軍の
Andrew Humphreys(アンドリュー・ハンフリーズ)少将の兵団が南軍のしんがり部隊に追いつき、戦闘状態となり、ファームビルで食糧を調達する機会を逸してしまい、南軍はさらに次に食糧の待つAppomattox Station(アポマトックス駅)に向けて西行を続けざるをえなかった。この夜、グラントからリーの許に降伏を勧める書状が届くが、リーは降伏を拒否しつつも降伏の条件を探る返事を返した。
しかし、アポマトックス駅の食糧は、8日、
George Armstrong Custer(ジョージ・アームストロング・カスター)少将の騎兵隊に焼かれてしまう。9日未明、リーは、アポマトックス駅よりさらに西のLynchburg(リンチバーグ)の食糧を目指すこととし、アポマトックスに展開する北軍の騎兵隊を突破するため、
John B. Gordon(ジョン・B・ゴードン)少将の部隊を派遣した。しかし、シェリダンの騎兵隊は、
Edward Ord(エドワード・オード)少将の兵団や
Charles Griffin(チャールズ・グリフィン)少将の兵団の支援を受け、ゴードンの部隊は返り討ちに遭ってしまう。また、北からもハンフリーズの兵団が南軍の
James Longstreet(ジェームズ・ロングストリート)中将の兵団に襲い掛かろうとしていた。西からも、北からも攻撃され、東からは北軍本隊が詰めより、三方を囲まれた南軍にとる選択肢は既になくなっていた。(この間の両軍の動きについては、
ここを参照。)
アポマトックス裁判所
リーは降伏を決意し、グラントと会うことを決心した。二人の面会の場所は、Wilmer Mclean(ウィルマー・マクリーン)の家と決められた。マクリーンの家にリーは正式の軍服を着てグラントを待った。グラントは一兵卒の服で現れた。二人は最初米墨戦争の思い出話しをかわし、リーに促されて、グラントは本題である降伏条件を切り出した。グラントの条件は、武器を放棄することを条件に、南軍の将校・兵士を拘束しないこととし、個人の馬は持ち帰ることを認めるという緩やかなものであった。リーは、グラントの寛容な条件が兵士によい影響を与え、双方の和解に寄与するだろうと述べた。また、リーが南軍兵士はここ数日ほとんど食糧を口にしていないことに触れると、グラントは南軍兵士への食糧の供給を約束した。二人の会談が終了し、リーが南軍部隊に去っていくと、北軍兵士から歓喜の声が上がったが、グラントは、南軍の転落を喜ぶべきではないとしてすぐさまこれを制したという。リーは生涯グラントが南軍降伏の際に示した寛容な態度を感謝し、グラントの批判をする者がいれば厳しく戒めたという。
マクリーンの家
リーの降伏の後、各地に残された南軍は続々と降伏した。リーのアポマトックスでの降伏は、4年の歳月にわたり、60万人以上の死者を出したアメリカ最大の戦争、南北戦争の事実上の終結となった。
降伏協議の行われた場所
ウィルマー・マクリーンは、アポマトックスに引っ越してくる前は、マナサスに住んでいた。マナサスの彼の自宅は、南軍の司令官
P.G.T. Beauregard(PGTブーリガード)将軍の本部に徴用された。
マナサスの戦いでの惨禍を目の当たりにして、戦争を避けるために、アポマトックスに引っ越してきたのであった。このため、南北戦争は、マクリーンの庭先で始まり、マクリーンの家で終わったと言われている。不思議な運命のめぐり合わせである。
Appomattox Court House National Historical Park(アポマトックス裁判所国立歴史公園)には、マクリーンの家や南軍兵士の仮釈放の証明書が発行されたClover Hill Tavern(クローバー・ヒル・タバーン)をはじめとして、南軍降伏当時の歴史的な建物が保存されている。南北戦争に興味のある方には、ここはゲチスバーグとともに、訪問を欠かせない場所である。
クローバー・ヒル・タバーン
(国立公園局のHP)