美しい町並みと古き良き南部の伝統が色濃く残るサウスカロライナ州チャールストン。サザン・ホスピタリティーを味わえる観光の町として知られるこの町の沖合いに浮かぶFort Sumter(サムター砦)は、アメリカ史上最大の惨事、南北戦争が勃発した場所として知られている。1861年4月12日の連邦軍兵士85名が立て篭もるこの砦への攻撃が、その後4年余り続き、60万人以上の犠牲を払う大惨事の始まりになるとは誰が予想したであろうか。Fort Sumter National Monument(フォート・サムター国立遺跡)では、サムター砦とその北側の対岸にあるFort Moultrie(ムールトリー砦)を保存している。
1.サムター砦
サムター砦は、英米戦争後に、沿岸域防衛のため、米国沿岸に建設された一連の砦の一つである。チャールストン港沖合いの砂州に1829年に建設が始まり、650人の兵力と130基の大砲を備える計画であったが、完成に至らないうちに歴史の荒波に放り出されることとなった。砦の名前は、独立戦争時のサウスカロライナの指導者の一人であったThomas Sumter(トーマス・サムター)に由来する。
アメリカでは奴隷問題が建国当初から南北が大きく対立する政治問題であった。南部では、奴隷は農場経営のため不可欠の労働力であり、これに対する連邦政府の介入は州の固有の権利と個人の財産権を脅かす問題であると主張され、倫理上の観点から、あるいは工業化が進展する北部での将来の働き手としての期待から、北部の諸州は奴隷制度に反対してきた。このため、アメリカの国境が西に広がるたびに新たな州の奴隷問題に関する位置づけを巡って、国を二分する問題となった。1860年の奴隷制度への反対を公然と唱えるリンカーンの大統領への当選は、この対立を修復不能なまで決定的なものとし、1860年12月24日にサウスカロライナ州が真っ先に連邦離脱を決議し、これにミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナの各州が続き、これら7州は1861年2月9日にConfederate States of America(アメリカ合衆国連合)を結成し、初代大統領に
Franklin Pierce(フランクリン・ピアース)政権で戦争長官を務めた
Jefferson Davis(ジェファーソン・デービス)を選出した。3月には、テキサスがこれに加わった。そして南部諸州は、領域内にある連邦政府施設を次々と接収し始めた。
サウスカロライナ州が連邦を離脱した際に、チャールストン港には4つの軍事拠点があったが、ムールトリー砦にのみ連邦軍兵士が実質的に駐留していた。ムールトリー砦の司令官
Robert Anderson(ロバート・アンダーソン)少佐は、より堅固なサムター砦の方がサウスカロライナ州の接収行動を防衛しやすいと判断し、1860年12月26日、85名の兵士とともに密かにサムター砦に移動した。翌日、サウスカロライナの志願兵は、ムールトリー砦を含む3つの軍事拠点を接収した。サウスカロライナ州は、アンダーソンの動きを敵対行動と非難し、連邦政府に明け渡しを要求した。
James Buchanan(ジェームズ・ブキャナン)大統領はこれを拒否し、サムター砦に補給船を派遣するが、サウスカロライナはこれに威嚇攻撃を加えて追い返した。3月14日に大統領に就任したリンカーンは、連邦離脱は違法であると指摘しつつ、連邦政府に攻撃が加えられない限り南部諸州を攻撃する意図はないとして連邦への復帰を呼びかけたが、南部は独立承認を迫り、リンカーンはその交渉を行うことを拒否した。この時点で、サムター砦は南部諸州に残された連邦軍の拠点の2つのうちの1つで、リンカーンはこれを守るため、護衛艦つきの補給船を派遣しようとした。
南部諸州は、このリンカーンの動きを軍事行動とみなし、チャールストン司令官に任命された
P.G.T. Beauregard(P.G.T.ビューリガード)准将に、サムター砦に明け渡しを要求し、拒否された場合には軍事行動に出るよう命令した。ビューリガードは、4月11日、アンダーソンに降伏を要求したが、アンダーソンはこれを拒否した。4月12日、4時30分、強硬連邦離脱論者であった
Edmundo Ruffin(エドマンド・ラフィン)による第1砲が轟くと、ビューリガード准将指揮の下、サムター砦に対して周りの軍事拠点から一斉に砲撃が浴びせられた。アンダーソン少佐は、ビューリガードのウェスト・ポイント時代の砲撃の教官であったという巡り合わせであった。サムター砦には60基の大砲しかなく、そのほとんどが相手方の攻撃にさらされる3F部分に位置したため、アンダーソンは兵力の消耗を避けるために、7時まで攻撃を控え、攻撃も1F部分の大砲からに限定した。連邦軍側の攻撃の口火を切ったのは、
Abner Doubleday(アブナー・ダブルデイ)大尉、野球の創始者と言われる人物である。しかし、多勢に無勢、南軍の砲撃は激しく、側壁は損傷し、士官用兵舎は焼け落ち、弾薬庫が脅かされるに至った。アンダーソン少佐は、4月13日14時に停戦を受け容れたが、34時間持ちこたえた。この34時間の砲撃の中、奇跡的に死者は一人も出なかった。このためアメリカ史上最も流血惨事となった戦争が流血なく始まったと言われている。
サムター砦
連邦政府は、南部を経済的に疲弊させるため、海上封鎖を行ったが、チャールストン港は南軍が占拠していたため、海上封鎖の抜け道となっていた。このため、サムター砦の奪還は、連邦軍の優先事項の一つとなった。南軍は、サムター砦を修復し、さらに強固にした上で、100基ほどの重火器を配備した。1863年4月7日、ワシントンDCのデュポン・サークルに名前を残す
Samuel Du Pont(サミュエル・デュポン)海軍少将率いる9隻の鋼鉄船の艦隊がサムター砦を攻撃したが、周りの砲撃拠点からも集中砲火を浴び、5隻が使用不能となった。デュポン少将は更迭され、
John Dahlgren(ジョン・ダールグレン)海軍少将が新たにサムター砦攻撃の司令官に任命された。ダールグレンは、サムター砦に最も近いMorris Island(モリス島)を奪還し、そこからサムター砦を攻める作戦を考案した。この島にあるFort Wagner(ワグナー砦)を巡る攻防が次の焦点となった。
Quincy Gillmore(クインシー・ギルモア)准将率いる連邦軍は、7月11日の攻撃に失敗した後、7月18日に、黒人兵からなるマサチューセッツ第54歩兵連隊を先陣とする正面攻撃を仕掛けるが、1,000名を超える死傷者を出して失敗に終わった。このため、ギルモアは、包囲戦に切り替え、60日間砲撃に曝し、南軍にこれを放棄させた。しかし、ワグナー砦を押さえても、チャールストン湾の防備は固く、サムター砦に年末まで砲撃を続けても、南軍駐留兵は降伏を拒否し、持ちこたえ続けた。1864年に入り、その年の夏に司令官が
John Foster(ジョン・フォスター)少将に代わり、再度サムター砦攻略を試みるが、サムター砦は瓦礫の山のようになろうとも落ちる気配はなかった。こうして20ヶ月間にわたり、サムター砦は連邦軍の攻撃に耐え続けたが、シャーマン将軍の部隊がサバンナからチャールストンに北上し、南軍がチャールストンを放棄するに至り、1865年2月17日に南軍駐留兵はサムター砦を放棄した。
連邦軍の攻撃の跡
戦後、サムター砦は沿岸防衛体制の一翼をなす砦として修復がなされるが、時代は既に砦の時代ではなく、1876年から1897年までは灯台施設として利用されただけであった。米西戦争に際して、防衛強化のため、Battery Huger(ヒューガー砲台)が築かれ、現在もサムター砦の中に残されている。
2.ムールトリー砦
ムールトリー砦の歴史は独立戦争まで遡る。この砦は、イギリス軍の攻撃からチャールストンを防衛するために、1776年にWilliam Moultrie(ウィリアム・ムールトリー)が建造したのが始まりである。やしの木で造られた砦は、
Peter Parker(ピーター・パーカー)提督率いる9隻の艦隊による攻撃をしのぎ、チャールストン防衛に一役を買った。このため、サウスカロライナ州は
やしの木を模った州旗となっている。
独立直後、フランスやイギリスとの緊張が高まる中、大西洋岸防衛のために1798年に旧ムールトリー砦の跡に新たな砦が建てられた。1804年にハリケーンで破壊された後、レンガ造りの第3次ムールトリー砦が建設された。アンダーソン少佐らがサムター砦に移る前に駐留していたのが、この砦である。
南北戦争での経験を踏まえて、1870年代には、旋条式大砲を備え、コンクリートで固めた砦に改造された。1880年代にはクリーブランド政権下で
William Endicott(ウィリアム・エンディコット)戦争長官が委員長を務める沿岸部に設置された砦の近代化を審議する委員会の勧告に従い、コンクリートと鉄筋を用いた強固な砲台がムールトリー砦内に設置された。第2次大戦時には、空と潜水艦への脅威に備えるため、対空射撃砲や機雷管理センターが設置された。現在、ムールトリー砦は、最初のやしの木でできた砦の跡から第2次世界大戦時の対空射撃砲まで時代を経て変遷してきた港湾防衛の姿を見せてくれている。
ムールトリー砦
(国立公園局のHP)