Charles Pinckney(チャールズ・ピンクニー)といっても、サウスカロライナ州の人以外には知っている人はほとんどいないだろう。ピンクニーは、独立当初のサウスカロライナを代表する政治家で、州議会議員、知事、連邦上下院議員などを歴任したほか、サウスカロライナ州を代表して
合衆国憲法案の審議に参画し、署名した人物である。サウスカロライナ州のチャールストンの郊外にピンクニーが所有した農園、Snee Farm(スニー農場)の跡がCharles Pinckney National Historic Site(チャールズ・ピンクニー国立史跡)として保存されている。
チャールズ・ピンクニーは、1757年10月26日に、チャールストンに生まれた。父親のチャールズは、農園主兼弁護士兼植民地議会議員兼民兵大佐という典型的な地方のエリートであった。チャールズは、当時の裕福な家庭と同等、家庭教師から教育を受けた。そして父親から法律を学び、1779年に弁護士となった。しかし、ときは独立戦争の真っ只中。ピンクニーも民兵に志願し、中尉に任命され、同年9月の失敗に終わったサバンナ奪還戦に参加した。1780年5月の
チャールストン陥落後も父親のチャールズと異なりイギリスに忠誠を誓わなかったことから、イギリス軍に捕らえられ、拘留される経験もした。(父親チャールズの転向は後に強く批判されるが、このためにスニー農場はイギリスに没収されなかった。)
ピンクニーは、1784年に州議会議員に選ばれると、すぐに大陸会議への代表に選ばれた。民兵としてイギリスと戦った経験から強い中央政府が必要であるとの信念に立ち、連邦政府の権限の強化を唱え、連合規約の改正を主張した。そして1787年にフィラデルフィアで開催された憲法会議でサウスカロライナを代表し、自ら新憲法の草案を提出するなど、新憲法の制定に向けて積極的に審議に参加した。とりわけ、民兵としての経験から、連邦軍の維持と文民統制に係る権限の議会と大統領との分配などに意を尽くした。1788年に憲法案が採択されるとこれに署名し、サウスカロライナの批准に尽力した。1789年にはサウスカロライナ州知事に選ばれ、最終的には合計で4期務めることとなる。1798年には連邦上院議員にも選ばれ、1800年の大統領選挙ではジェファーソンを支持し、翌年には論功でスペインに大使として赴任した。1804年に帰任後は、サウスカロライナ州の政治に復帰し、州議会議員、知事を務めた。1814年に一旦政界から引退したが、1818年には連邦下院議員に当選し、1821年までこれを務めた。
父親のチャールズが1754年に始めたスニー農場は、1782年にピンクニーに譲られた。ピンクニーは、チャールストンに住み、7つの農園を所有していたが、スニー農場が一番のお気に入りの農園であったという。1791年5月には、ここにワシントンを朝食に招いている。ここでは40-60人の奴隷が牛を育て、米、藍などの栽培に従事していたという。ピンクニー家は60年あまりこの農園を所有していたが、1818年に債務履行のためこの農園を手放した。現在敷地に建つ邸宅は1820年代のもので、残念ながらピンクニーが所有していたものではないが、ピンクニーの邸宅と同じ場所に建てられ、当時の典型的な南部沿岸地帯の別荘を体現しているという。
スニー農場の邸宅
独立宣言署名者が56名いたことは比較的知られているが、憲法案署名者はその数(39名)も含め、あまり知られていない。ここは忘れられた建国の父たちがいたことを思い起こさせる場所となっている。
(国立公園局のHP)