アリゾナ州の南東部、メキシコとの国境近くにAppache Pass(アパッチ峠)と呼ばれる場所がある。アパッチ峠の近くには、Appache Spring(アパッチ泉)と呼ばれる貴重な泉がある。この付近は、伝統的にChiricahua Appache(チリカウア・アパッチ)と呼ばれる部族の住む地域であったが、アパッチ峠のルートとアパッチ泉はアメリカの開拓者や兵士にとっても貴重なルート・水資源であったため、両者が衝突するのは必然であった。アパッチ峠のルートとアパッチ泉をチリカウア・アパッチ族の襲来から守るために設置されたのが、Fort Bowie(ボウイ砦)であった。ボウイ砦は、連邦軍の拠点として、西部劇で有名なアパッチ族とアメリカ政府との対立に重要な役割を果たした。
アメリカがこの土地の領有権を獲得したのは、1846年の米墨戦争での勝利によるものであった。伝統的にメキシコとアパッチ族とは不安定な緊張関係にあったため、アパッチ族はメキシコを下したアメリカを好意的に見て、両者の間には平和条約が結ばれ、アメリカ人によるアパッチ峠の通行の安全は保証された。これを利用して、1858年9月15日に、John Butterfield(ジョン・バターフィールド)は、連邦政府から郵便配送の仕事を請け負った。セント・ルイス又はメンフィスから、テキサス、アパッチ峠を通って、カリフォルニア向かうルートを開設した。このルート(
ここ(PDF)を参照)は、週に2度の郵便ワゴンに使用され、南北戦争の勃発により途絶えるまで3年間使用されたが、アパッチ族の襲撃を受けたのは1度のみであった。
しかし、その平和もある事件を機に一気に崩れてしまう。1861年1月27日、アパッチ族の者がJohn Ward(ジョン・ワード)の牧場を襲い、家畜と12歳の息子を奪い去った。ワードは、Cochise(コチシュ)酋長率いるチリカウア・アパッチ族の仕業とにらみ、軍に助けを求めた。連邦軍は、George Bascom(ジョージ・バスコム)中尉以下54名の兵士を派遣した。2月3日、バスコムは、コチシュを呼び出し、武力で威嚇してコチシュに家畜と息子の返還を迫った。しかし、この事件はコチシュとは無関係であった。コチシュはその場を逃げ出した。バスコムは、コチシュの家族を捕え、コチシュの家族と引き換えに、ワードの家畜と息子の返還を迫った。コチシュは無関係を訴えるが、信じてもらえず、アメリカ人の開拓者を捕まえ、彼らとコチシュの家族との交換を提案した。バスコムはこれを拒否し、コチシュの家族を殺害した。コチシュは、復讐を誓い、アメリカ人人質を殺害し、2月7日にはバスコムの部下を襲った。これが引き金となり、その後25年間、アメリカ軍とチリカウア・アパッチ族とは戦争状態となった。
1862年7月には、アリゾナ、ニューメキシコの南軍と対峙するため、アパッチ峠を移動中であったJames Carleton(ジェームズ・カールトン)准将率いる部隊がチリカウア・アパッチ族の奇襲を受ける事件(アパッチ峠の戦い)が発生した。連邦軍は、この事件に危機を募らせ、アパッチ峠のルートの安全を確保するため、George Washington Bowie(ジョージ・ワシントン・ボウイ)大佐のカリフォルニア第5歩兵連隊に砦を建設させた。これがボウイ砦の始まりである。この後、ボウイ砦は、コチシュ率いるチリカウア・アパッチ族の襲撃に対抗する部隊の基地として機能した。この間、1868年に最初のボウイ砦から300mほど南東側により強固な砦が新築され、その機能が強化されている。コチシュのゲリラ闘争は、10年余り続いたが、1871年に
George Crook(ジョージ・クルック)中佐はアパッチ族を通じてコチシュを説得して、コチシュは伝統的な領土を含むチリカウワ山地の居留区に移動することに合意し、いったんチリカウア・アパッチ族の闘争は休止した。
コチシュの死後、1876年に連邦政府は突如方針を変更し、チリカウア居留区から離れてより条件の悪いSan Carlos(サン・カルロス)居留区に移動するよう命令した。しかし、祖国の地を離れて移住することに不満を覚えた人々は、
Geronimo(ジェロニモ)をリーダーとしてメキシコに逃亡し、徹底抗戦を行う決意をした。ジェロニモらは、メキシコから国境周辺の開拓民を襲撃した。1877年にジェロニモはいったん捕まるが、1881年に再び逃げ出し、闘争を続けた。1883年にクルック准将はメキシコに渡り、ジェロニモを説得してサン・カルロス居留区に引き戻すことに成功するが、ジェロニモは1885年に再び逃亡してしまう。1886年に新たに
Nelson Miles(ネルソン・マイルズ)准将がアリゾナ領の司令官に指名されると、マイルズは、5,000名の部隊からなる大掛かりな追跡隊を組織してジェロニモの後を追った。9月4日、ジェロニモはマイルズに投降し、ここにアパッチ族の抵抗は終焉した。アパッチ族の抵抗の終焉とともに、ボウイ砦は事実上その役割を終え、1894年には放棄された。
ボウイ砦跡
Fort Bowie National Historic Site(ボウイ砦国立史跡)には、1868年に建設された第2次ボウイ砦の跡が残されている。ここに至るには、未舗装の山道を10マイル前後登った上で、そこから往復3マイル(4.8km)のトレールを歩かなければならない。48州では最もアクセスがしにくい国立公園ユニットの一つである。トレールの途中にはバターフィールドの駅馬車の駅の跡、ボウイ砦の兵士たちの墓、アパッチ泉、アパッチ峠の戦いの跡、再現したアパッチ族の住居などがある。この辺りは乾燥気候で気温が高くなる上、高度が5,000フィート(1,500m)と高いため、ボウイ砦は西部の歴史好きな体力のある人向けの場所であろう。
アパッチ泉
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)