人気絶頂を誇るリーダーの後を継ぐことは、昨今の例を見るまでもなく、難しいことである。後任者は前任者ととかく比較される一方で、前任者の積み残しを処理する損な役回りを演じなければならない。
セオドア・ルーズベルト大統領の後継指名を受けて第27代大統領に就任した
William Howard Taft(ウィリアム・ハワード・タフト)もその一人である。タフトは、絶大なる人気を誇ったセオドア・ルーズベルト大統領の進歩的政策の継承を期待されたが、その期待はときとして厳格な憲法解釈をとる法律家としての信念と衝突することとなり、結果として前任者の期待に反する政策を遂行し、前任者のチャレンジを受けて再選を逃すという辛酸を舐めた。後に最高裁長官に選ばれ、その職責を心から歓迎したという。タフトは、一時は体重が350ポンド(160kg)を超え、アメリカ史上最も太った大統領という不名誉な称号を受けているが、アメリカで大統領と最高裁長官を経験した唯一の人物である。彼の実家がWilliam Howard Taft National Historic Site(ウィリアム・ハワード・タフト国立史跡)として、オハイオ州のシンシナティーに保存されている。
タフトは、1857年9月15日に、オハイオ州シンシナティーで、有力な弁護士の父
Alphonso(アルフォンソ)と母Louisa(ルイーザ)との間の3番目の子供として生れた。アルフォンスは、後にグラント政権下で戦争長官と司法長官を務め、さらにはオーストリア=ハンガリー帝国大使、ロシア帝国大使を歴任した人物である。タフトも、有能な法律家であった父親の背中を見て育ち、父親と同じく法律家を目指すようになる。父親と同じくエール大学に進学し、卒業後地元のシンシナティー大学のロースクールで法律を学び、オハイオ州の弁護士として登録された。オハイオ州のハミルトン郡の検察官を皮切りに、内国税徴収官、ハミルトン郡法務官、オハイオ州高裁判事など地元法曹界で活躍した。1900年には、33歳の若さで連邦訟務長官に任命され、1902年には連邦高裁判事に任命され、法律家として出世街道をまい進した。同じ頃、シンシナティー大学ロースクールの学長も務め、憲法を教授した。この頃から彼の夢は、いつの日か最高裁長官になることであった。
タフトの実家
その夢は途中寄り道をすることになる。1900年
マッキンリー大統領は、米西戦争の結果新たに米国領となったフィリピンの民生政権への移行準備委員会の委員長にタフトを任命した。タフトは、翌年、そのままフィリピン総督に就任した。タフトは、インフラ整備、近代的な法治国家の建設にまい進し、その努力はアメリカ、フィリピンの双方で高く評価された。1903年にセオドア・ルーズベルトから最高裁長官への打診があったが、タフトは、フィリピンでの国家建設が道半ばであるとして辞退している。1904年には、米国に戻り、セオドア・ルーズベルト政権下で戦争長官に任命された。1906年に当時アメリカ領であったキューバで反乱が起きた際には、キューバの臨時総督に任命され、1907年にはパナマ運河委員会の委員長に選ばれ、パナマ運河プロジェクトの初期段階の監督を行った。セオドア・ルーズベルト大統領のタフトの行政手腕に対する信頼は厚く、大統領が外遊中は事実上NO.2の役割を果たした。
1908年の大統領選挙では、セオドア・ルーズベルト大統領は不出馬を宣言し、タフトを後継に指名した。圧倒的な人気を誇る現職大統領の後押しで、タフトは、民主党の
William Jennings Bryan(ウィリアム・ジェニングス・ブライアン)候補を大差で破り、第27代大統領に就任した。タフトは、政府の力を用いて社会改革を実現していくセオドア・ルーズベルト大統領の進歩主義を支持することを自認していたが、彼の自認する進歩主義は、厳格に解釈された、法律で与えられた権限の範囲内でという限定付きのものであった。また、ルーズベルトの政治的な狡猾さは持ち合わせておらず、法律を素直に厳格に適用するため、多くの政敵を作ってしまった。80の独禁法訴訟の提起、州際取引委員会の鉄道運賃規制の権限強化、郵便貯金制度の創設、所得課税や上院議員の直接選挙を認める憲法改正など進歩的な実績を上げつつも、これらの政策は議会の進歩主義者からは十分でないと見られる一方で、保守派の反発を招いた。とりわけ、1909年の関税法を巡っては、大幅な関税の引き下げを目指したものの、途中で保守派と手を握ったため、中途半端な引き下げに終わり、関税が引き上げられたカテゴリーもあったことから、進歩派の反発を招いた。進歩派は、これをタフトの裏切りととらえ、1912年の大統領選挙では、再びセオドア・ルーズベルトを担ぎ出そうとした。ルーズベルトもタフトが進歩主義路線から外れているとみて出馬に意欲を示した。タフトは、共和党の保守派と結び、進歩派を追い出したため、ルーズベルトは、進歩派を結集して、第3の政党である進歩党を結成し、大統領選に出馬した。両者は激しく相手を批判し、共和党の票はタフトとルーズベルトに分かれた。この分裂劇は民主党候補であった
Woodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)に
勝利をもたらしただけであった。
失意のタフトは母校のエール大学に戻り、憲法の教授となった。タフトは、エール大学教授を8年間務めたが、この間、第1次戦争が勃発し、軍需産業と労働者間の紛争処理を行う委員会の委員長も務めた。仲裁を通じた紛争の解決を提唱し、後に国際連盟へと発展する前身ともいうべきLeague to Enforce Peaceの会長を務めた。そして再びタフトにも運が回ってくる。1921年共和党の
Warren Harding(ウォーレン・ハーディング)大統領は、タフトを最高裁長官に指名した。タフトは全会一致で上院の承認を得て、第10代最高裁長官に就任した。念願がかなったタフトは、後に最高裁長官時代が彼の人生の花であり、大統領であったことは覚えていないと語ったという。当時最高裁は、連邦法案件は何でも持ち込まれていたため、大量の未処理案件を抱えていた。タフトは、議会に働きかけ、最高裁に事案の重要性に鑑みて案件を選択できる権限を獲得した。また、最高裁と長官に連邦裁判所システム全体への監督権限を獲得し、3権目の柱として統制のとれた組織体制の確立を可能とした。現在の最高裁の建物は、タフト長官の時代に実現したものである。タフトは1930年まで最高裁長官を務め、健康上の理由から辞任後間もなく亡くなった。彼は、アーリントン墓地に葬られている。
タフトは最初から最高裁長官になった方がよかったのかもしれない。
(国立公園局のHP)