シャイロの戦いに勝利し、ミシシッピー州侵攻への取っ掛かりを作ったグラントの次なる目標はミシシッピー州中腹の都市Vicksburg(ヴィックスバーグ)であった。ヴィックスバーグは、ミシシッピー川が馬蹄形に湾曲して流れる高台にある厳重に砦を張り巡らせた要塞都市であった。この高台の要塞都市からミシシッピー川を航行する船舶を攻撃することは非常に容易く、南部がこの都市を押さえている限り、連邦政府はミシシッピー川の航行権を奪還することはできず、ミシシッピー川西のルイジアナ、アーカンソー、テキサス諸州と他の南部各州との連携を打ち切ることは不可能であった。この難攻不落の要塞都市は、「南軍のジブラルタル」と呼ばれ、南北戦争開始当初からこの都市が戦局を大きく左右する鍵と双方が見ていた。ヴィックスバーグには、
John C. Pemberton(ジョン・C・ペンバートン)中将以下15,000の兵であった。1862年5月と6月に、ニューオーリンズを陥落させた
David Farragut(デービッド・ファラガット)海軍少将は、ミシシッピー川からのヴィックスバーグ攻略を試みたが失敗に終わっている。
ヴィックスバーグの要塞から臨むミシシッピー川
グラントは、72,000の部隊を二手に分け、
シャーマン少将率いる部隊は
Yazoo River(ヤズー川)を下り、北東からヴィックスバーグを攻撃し、グラント率いる本隊は陸上側から攻撃を加える作戦を立てた。1862年12月末にシャーマンはヴィックスバーグを攻撃するが、厳重に防備を固めた南軍に行く手を阻まれ、失敗に終わった。次に運河の掘削や他の水路を用いたアプローチを模索するが、いずれの策も敵の攻撃を避けながら浅い水深の中を大量の兵士を乗せて運ぶことにはつながらず、いずれも失敗に終わった。しかし、ここで大胆かつ粘り強いグラントの本領が発揮される。グラントは、大胆にも、物資を積んだ艦船にヴィックスバーグの前を強行突破させてミシシッピー川の南に進ませる一方、陸軍はミシシッピー川の西側を進軍してヴィックスバーグの南に下り、物資補給を受けた後ミシシッピー川を渡り、兵站ラインを断ち切って敵地で食糧を調達しながら陸路大きく迂回してヴィックスバーグを東から攻撃するという作戦を立案した。
1863年3月31日、グラント率いる本隊45,000はミシシッピー川の西側のルートを通って南進を開始した。4月16日及び22日、
David Porter(デービッド・ポーター)海軍少将率いる艦船部隊の大半は、ヴィックスバーグをすり抜け、ミシシッピー川の南進に成功した。陸軍部隊が南進する間、グラントは、シャーマンにヴィックスバーグへの威嚇攻撃を行わせるとともに、
Benjamin Grierson(ベンジャミン・グリアーソン)大佐率いる騎兵隊にミシシッピー州中部を撹乱させ、ペンバートン率いる守備隊の注意をそちらに引きつけているうちに、本隊を南進させた。4月30日、グラント率いる本隊は、ミシシッピー川を渡り、Bruinsburg(ブルインズバーグ)に上陸した。この上陸作戦は、ノルマンジー上陸作戦が行われるまで米軍最大の上陸作戦に数えられていた。上陸した連邦軍は、5月1日、Port Gibson(ポート・ギブソン)の南軍守備隊を撃破した後、ヴィックスバーグに北進せず、南軍の補給経路を断ってヴィックスバーグを孤立化させるとともに、自軍の背後を固めるため、ミシシッピー州最大の都市Jackson(ジャクソン)を目指して東に兵を進めた。南軍はジャクソンに6,000の兵しか駐在させておらず、5月14日、ジャクソンに派遣された
Joseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)大将は圧倒的な北軍の兵力を前に成すすべなく退却を命ずるしかなかった。グラントは、ジャクソンに守備隊を置くとすぐさまヴィックスバーグに向けて踵を返した。グラントは、これを食い止めようとするペンバートン率いる南軍をChampion Hill(チャンピオン・ヒル)、Big Black River Bridge(ビッグ・ブラック・リバー・ブリッジ)で立て続けに撃破し、5月18日にはヴィックスバーグの入口に到達した。ペンバートン率いる南軍は要塞都市ヴィックスバーグの中に立て篭もった。(ここまでの経緯については、
ここを参照。)
イリノイ州記念碑
ヴィックスバーグに到着したグラントは、すかさず5月19日にStockade Redan(ストケード凸角堡)にシャーマン少将率いる兵団が攻撃をしかけ、22日にはストケード凸角堡からFort Garrot(ギャロット砦)に渡り幅広くシャーマン兵団に加えて、
James McPherson(ジェームズ・マクファーソン)少将と
John McClernand(ジョン・マクラーナンド)少将率いる兵団を投入し、正面攻撃をしかけるが、いずれも南軍の厚い防御壁に阻まれて撃退された。
ギャロット砦
正面攻撃で手痛い損害を被ったグラントは、作戦を包囲戦に切り替えた。北軍も高台を占める南軍の狙撃から身を守るため塹壕を掘って立て篭もりつつ、重火器で陸と川の双方から激しい爆撃を行った。南軍の狙撃は激しく、北軍兵士間では、塹壕からロッドで帽子を出して南軍狙撃兵から何発銃弾を受けるかを当てるゲームが流行ったという。包囲戦の間には6月25日に北軍が3rd Louisiana Redan(ルイジアナ第3歩兵隊凸角堡)下にトンネルを掘って爆破させ、奇襲をかけたものの、攻撃部隊が爆破跡に捕らわれ、失敗に終わっている。
ルイジアナ第3歩兵隊凸角堡
しかし、食糧補給路を断たれたヴィックスバーグでは兵士も住民もともに疲弊していった。崩壊は時間の問題であった。7月4日、46日間にわたる包囲戦の結果、ペンバートンは29,000の兵士とともにグラント率いる連邦軍に降伏した。独立記念日の降伏は、ヴィックスバーグ市民にとって屈辱の経験となり、以降市は81年間独立記念日を祝うことはなかったという。
記念アーチ
7月9日には、ミシシッピー川で最後の抵抗拠点として残ったPort Hudson(ポート・ハドソン)も、包囲戦の末、ヴィックスバーグ陥落の報を聞き、
Nathaniel Banks(ナザニエル・バンクス)少将率いるArmy of the Gulf(メキシコ湾軍)に降伏した。これによってミシシッピー川の航行権は北軍が完全に制覇することとなり、南部はルイジアナ、テキサス、アーカンソー各州は他の州と分断されることとなった。ヴィックスバーグでの北軍の勝利は、東部戦線の
ゲチスバーグでの勝利の1日後にもたらされ、この1863年7月を機に、南北戦争の戦局は大きく連邦政府有利に傾くこととなる。ヴィックスバーグ攻略の戦果を挙げたグラントは、北軍の戦局が不利な
チャタヌガに派遣される。
なお、Vicksburg National Military Park(ヴィックスバーグ国立軍事公園)には、16マイル(26km)のツアー用道路が整備されており、1,300以上と言われる記念碑やマーカー、20マイル(32km)にわたる防御土塁を見学することができる。1862年12月12日に、米国戦争史上、初めて機雷で沈められた
装甲艦Cairo(カイロ)が引き揚げられて展示されており、見逃せない。
装甲艦カイロ
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)