ニューメキシコ州最大の都市アルバカーキーから南東の山中にひっそりと17世紀の廃墟が佇んでいる。廃墟は3箇所に点在しているが、いずれも17世紀のスペインのフランシスコ派修道院による原住民への伝道拠点の跡である。乾燥した大地で古来より塩(スペイン語でSalinas)が採れることで知られた土地(Salinas Valley(サリナス盆地))に因んで、これら3箇所の伝道拠点は、総称してSalinas Pueblo Missions(サリナス・プエブロ・ミッション)と呼ばれ、国立公園局が保存を行っている。
ニューメキシコ中央部は、
アナサジ文化とMogollon(モゴロン)文化双方の影響を受けた地域である。後にフランシスコ派による伝道の対象となったTompiro(トムピロ族)、Tiwa(ティワ族)の人々も双方の影響を受けた人々であった。10世紀までには、この地方にはモゴロンの人々の集落が建設され、人々は狩猟採取を中心とした生活を簡易農業で補いながら生活していた。赤や茶色のシンプルな土器を生産し、最初は竪穴式住居に、後には簡易なプエブロ式住居に住むようになった。12世紀後半には、アナサジ文化の影響を受け、銃葬式の本格的なプエブロ式住居が建設されるようになった。周囲との交易も盛んに行われ、乾燥気候に適したメーズ、ナッツ、豆類、スカッシュそして塩などがバッファローの肉と皮、火打石や貝殻などと交換された。17世紀には人口は1万人程度に達していたものと推測されている。
このような繁栄の中、現れたのがスペイン人である。金銀で装飾された伝説の都市Quivira(クイビラ)を求めて、1540年
Coronado(コロナド)らがこの地方を訪れ、ティワ族と衝突した。1598年には
Don Juan de Onate(ドン・ファン・デ・オニャーテ)らがこの地を訪れ、スペインへの忠誠を誓わせた。オニャーテは、この地方に豊富な塩に驚くも、金銀を発見することはできなかった。スペインは、金銀をあきらめ、原住民を強制労働に使用して農業で成果を挙げることを試みるが、乾燥した気候の下では思ったほどの成果は挙がらず、ニューメキシコでの植民地経営は半ばあきらめ、フランシスコ派の修道士による伝道活動が中心となった。サリナス盆地でも伝道拠点が建設された。そのうち、Abo(アボ)、Quarai(クアライ)、Gran Quivira(グラン・クイビラ)の3つが今日に残されている。伝道拠点は、他のフランシスコ派の伝道拠点と同様に、教会を中心に、自給自足の生活共同体として形成された。伝道活動に当たっては、原住民の伝統的なKachina(カチーナ)の踊りやKiva(キバ)での宗教儀式が問題となった。一方でこれらを完全に禁止することは困難であったことから、カチーナの踊りやキバでの宗教儀式を巡っては寛容と厳正の両極間を揺れ動くこととなった。
アボでの伝道活動は、1622年に始められ、1629年にアボに配属されたFrancisco de Acevedo(フランシスコ・デ・アシビド)修道士によって最初の教会が建てられた。その後、現在遺跡として残る赤壁の教会が建設された。
アボ
また、1630年にEstevan de Perea(エステバン・デ・ペレア)修道士によってクアライに赤壁の教会が建てられた。サリナス盆地の伝道拠点の本部は、クアライに置かれ、異端審判もここで行われた。
クアライ
サリナス盆地最大の伝道拠点が伝説の黄金都市クイビラの名前を冠したグラン・クイビラである。1627年にAlonso de Benavides(アロンソ・デ・ベナビデス)修道士がこの地で伝道を開始した。最初の教会は、1636年にアボのアシビド修道士によって建てられた。2つ目の教会は1659年にDiego de Santander(ディエゴ・デ・サンタンダー)修道士によって建設が始められたが完成することはなかった。
グラン・クイビラ
1660年代に入るとサリナス盆地の伝道拠点に危機が訪れた。旱魃が度々この地域を襲い、人々は飢え、これに水疱瘡などの伝染病の流行が追い討ちをかけた。グランド・クイビラでは一冬に480名以上が犠牲になった年もあった。これらに加えて、アパッチ族の襲撃に悩まされるようになった。グランド・クイビラでは500名程度に人口が減り、食うに食えず、1670年には住民はアボへ移住を開始し、1672年にはグランド・クイビラは完全に放棄された。状況は他の伝道拠点でも同様であり、やがてクアライも1670年ごろには脱出し始め、1674年にはクアライは放棄された。アボからも1672年から1678年にかけて人々は流出し、さらに北のリオ・グランデ川流域の集落に吸収されていった。アボ、クアライ、グランド・クイビラなどの伝道拠点は二度と復活することはなかった。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)