America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~ usnp.exblog.jp
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私がこれまでに訪れたアメリカの国立公園ユニット390+αを少しずつ紹介します。
by shiraok4563

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カテゴリ:Massachusetts
  • Boston Harbor Islands National Recreation Area
    [ 2007-11-19 11:19 ]
  • John F. Kennedy National Historic Site
    [ 2007-11-18 03:47 ]
  • New Bedford Whaling National Historical Park
    [ 2007-10-23 06:07 ]
  • Longfellow National Historic Site
    [ 2007-09-24 07:21 ]
  • Boston African American National Historic site
    [ 2007-07-02 05:27 ]
  • Boston National Historical Park
    [ 2007-07-01 09:33 ]
  • Adams National Historical Park
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  • Minute Man National Historical Park
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  • Lowell National Historical Park
    [ 2007-06-22 00:28 ]
  • Salem Maritime National Historic Site
    [ 2007-06-21 08:59 ]
Boston Harbor Islands National Recreation Area

ボストン湾に浮かぶ小さな島々やボストン湾に突き出した半島(これもアイランドと呼ばれる。)、大小合わせて34のアイランドは、Boston Harbor Islands National Recreation Area(ボストン・ハーバー・アイランド国立レクリエーション地域)に指定され、ボストン周辺の市民の憩いの場所となっている。

このうち訪れやすいのは、夏季にフェリーが出ているGeorges Island(ジョージズ島)とLittle Brewster Island(リトル・ブリュースター島)であろう。ジョージズ島には、ボストン湾防衛強化の一環として1833年から砦の建設が開始されたが、完成までに30年近くを要した。1861年に完成したこの砦は、独立戦争初期のボストンの指導者でバンカーヒルの戦いで戦死したDr. Joseph Warren(ジョセフ・ウォーレン医師)からとって、 Fort Warren(ウォーレン砦)と名付けられた。砦は、ロッドマン砲により守りが固められたが、戦闘を見ることなく、南北戦争中や直後は南軍の捕虜収容所、兵士の訓練所として使用された。ここには、合計で2,200名の南軍の捕虜が収容されたが、その中には、南部で副大統領を務めたAlexander Stephens(アレクサンダー・スティーブンス)や東部戦線に従事したRichard Ewell(リチャード・イーウェル)将軍やFort Donelson(ドネルソン砦)の戦いでグラントに無条件降伏したSimon Buckner(サイモン・バックナー)将軍なども含まれている。捕虜収容所とはいえ、囚人の待遇は比較的よく、収容中に死亡した者は少なかった。米西戦争の頃には装備が近代化され、第1次世界大戦の折には、ボストン湾の機雷操作場として機能した。第2次世界大戦時には、沿岸防備のための砲兵隊が配備された。この砦は、黒いローブを着た女性の幽霊が出たという記録が残されている。この女性は、ここに収容中の夫を救出しようとして失敗し、絞首刑となった女性であると言われている。
ウォーレン砦

リトル・ブリュースター島は、そこに立つBoston Light(ボストン灯台)で有名である。この灯台は、もともと1716年に航海の安全のために建てられたものであるが、1776年にボストンから撤退するイギリス軍によって破壊され、1783年に再建された。それ以来、現在も現役で働いている貴重な歴史的灯台である。1859年に14フィート(4m)継ぎ足され、現在の102フィート(31m)の高さとなっている。

Thompson Island(トンプソン島)やSpectacle Island(スペクタクル島)にも夏場は、フェリーサービスがある。トンプソン島は、かつて1626年にDavid Thompson(デービッド・トンプソン)が取引所を開いた場所で、1833年には孤児のための教育施設が建てられた歴史もあるが、今はサマーキャンプの場所となっている。スペクタクル島には、1717年にボストンに伝染病が発生したときの隔離施設が設けられたほか、1840年にリゾート・ホテルが建てられたものの、違法ギャンブルで摘発されたなどの歴史が残っている。1920年代から1959年までのごみの埋め立てにより、島には30エーカー(12ha)以上の面積が加えられている。

このほかに、Bumpkin Island(バンプキン島)、Grape Island(グレープ島)、Peddocks Island(ペドックス島)、Lovells Island(ラベルズ島)には、キャンプ施設が整備されており、ボーイスカウトなどがキャンプを行っている。バンプキン島は、かつて障害児のための病院や海軍の訓練施設が置かれた島である。ラベルズ島は、フランス海軍の軍艦 Magnifique など多くの船が難破した場所として知られており、第1次世界大戦前後に使用されたFort Standish(スタンディシュ基地)の跡が残されている。ペドックス島には、独立戦争時にボストンから撤退したイギリス軍の再来に備えるため600名の民兵が配備された場所で、1904年に建てられたFort Andrews(アンドリュース基地)の跡が残されている。

また、Deer Island(ディヤー島)、Nut Island(ナット島)、Worlds End(ワールズ・エンド:この世の果て)は、本土とつながった半島になっている。ディヤー島は、かつては島であったが、1938年のハリケーンで本土とつながってしまった。この島には、フィリップ王戦争の際に原住民の捕虜収容所として使用されたほか、1800年代にはアイルランドからの移民の上陸地点として使用され、近年では汚水処理場に使用されている。ワールズ・エンドは、かつて住宅造成計画があり、Frederick Law Olmsted(フレデリック・ロー・オルムステッド)が施した造園が残されている。本土と道路でつながっているLong Island(ロング島)へのアクセスは制限されているが、島の先端に位置する1819年に建てられた灯台は、フェリーから眺めることができる。
ロング島の灯台

晴れた日にフェリーや島から眺めるボストンの町も、いつもと違った角度で新鮮かもしれない。

(国立公園局のHP)

Tags:#海・海岸 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-19 11:19 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
John F. Kennedy National Historic Site

大統領就任式の演説で"Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country."(国家が何をしてくれるかではなく、国家のために何ができるかを問おう。)と国民に呼びかけた43歳の若き大統領John F. Kennedy(ジョン・F・ケネディー)。華やかさと悲劇とが混じり合わさったケネディー家は、今も多くの人の注目を集める。ケネディーゆかりの地としては、ボストン郊外の記念ライブラリーやアーリントン墓地の墓が有名であるが、ボストン郊外の町Brookline(ブルックライン)にケネディー大統領の生家が国立公園ユニットとして保存されている。ケネディー家は、この家に1914年から1920年まで6年間暮らし、ケネディー家9人の子供のうち4人がここで生まれた。

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディーは、1917年5月29日に父Joseph P. Kennedy(ジョセフ・P・ケネディー)、母Rose Fitzgerald(ローズ・フィッツジェラルド)の次男として現在、国立公園ユニットとして保存されている生家で誕生した。彼の愛称は、Jack(ジャック)であった。ケネディーが生まれたとき、父のジョセフは、Columbia Trust Bank(コロンビア・トラスト銀行)の頭取を務めていた。ジョセフの父親Patrick Kennedy(パトリック・ケネディー)は、マサチューセッツ州の上下両院議員を務めた政治家であった。ジョセフは、パトリックが過半を握っていたコロンビア・トラスト銀行がのっとられそうになったところを買い戻し、25歳にして同銀行の頭取に就任したのであった。後に、株式取引、映画・不動産などへの投資で財をなし、フランクリン・ルーズベルトの大統領選挙を応援し、証券取引委員会の委員長に任命され、その後にはイギリス大使となる。母のローズの父John F. Fitzgerald(ジョン・F・フィッツジェラルド)は、マサチューセッツ州下院議員、ボストン市長、連邦下院議員などを歴任したマサチューセッツの大物政治家であった。父方、母方ともに政治家の家系に生まれたケネディーは、生まれながらにしてその人生のレールが敷かれていたとも言える。
ケネディー生家

ケネディーは、小学校3年生の途中までは地元の公立学校に通い、3年生の途中から4年生まで私立男子校のDexter School(デクスター校)に通った。ケネディーはスポーツに秀で、フットボールチームのクウォーターバックとキャプテンを務めている。父親の転職により一家はニューヨークに引越し、ケネディーは私立のRiverdale Country School(リバーデール・カントリー校)に通うかたわら、ボーイ・スカウト活動に熱中したという。8年生のときから全寮制のCanterbury School(カンタベリー校)に通うが、盲腸になり、ここを止め、全寮制のChoate Schoolに移った。しかし、その後は病気を繰り返し、高校卒業後のイギリス留学もすぐに帰国せざるを得なくなる。1936年にハーバード大学に進学し、父親が英国大使のときには、欧州遊学も行っている。

第2次世界大戦が始まると、ケネディーは陸軍に志願するが、背中の古傷のために失格となった。次に海軍に志願すると海軍はケネディーを受け入れた。1943年には中尉に昇格し、パトロール魚雷艇の艇長に任命された。1943年8月2日にソロモン諸島で日本の駆逐艦と接触し、海に放り出されるという事件に遭った。このとき負傷者を救い、小さな島にたどり着いて救助された。この件で、メダルを受賞したものの、古傷が悪化し、名誉除隊となった。

戦後、ケネディーはジャーナリストになるつもりであったが、兄のジョセフ・ジュニアの戦死により、政治家となる運命が回ってきた。1946年に連邦下院議員James Curley(ジェームズ・カーレー)がボストン市長選に出るため、連邦下院議員の席が空き、ケネディーは民主党から立候補し、父の提供する豊富な選挙資金に支えられ、当選した。そして1952年には上院議員選に立ち、現職のHenry Lodge Jr.(ヘンリー・ロッジ・ジュニア)を破り、当選を果たした。そしてその翌年にはJacqueline Lee Bouvier(ジャクリーン・リー・ブーヴォア)と結婚した。背中の傷の悪化で、一時上院議員の職を休むことを余儀なくされたが、そのときに信念に基づき行動したかつての上院議員を描いたProfiles in Courge(勇気ある人々)を執筆し、これが1957年のピューリッツア賞伝記部門を受賞した。1958年には上院再選を果たし、2年後の1960年の大統領選挙に出馬し、共和党のRichard Nixon(リチャード・ニクソン)候補を世紀のディベートの末、接戦で破り、第35代大統領に就任した。カトリック教徒初の大統領でもあった。後は、歴史が語るとおりである。


ブルックラインの生家を訪ねると、母ローズの肉声の録音で、部屋ごとにケネディーの幼少の頃や家族の思い出を話しかけてくれる。2Fの赤ちゃん部屋(Nursery)はケネディーが生まれとき寝かされていた部屋で、Guest Room(ゲスト・ルーム)は妹が生まれたときに子供部屋になり、ケネディーはここで過ごした。夏の間(5月~10月まで)しか、ツアーが行われていないので注意が必要だ。

(国立公園局のHP)

Tags:#大統領 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-18 03:47 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
New Bedford Whaling National Historical Park

ボストンから南に車で45分程度行ったところにNew Bedford(ニュー・ベッドフォード)という町がある。ここは、かつてアメリカの捕鯨基地であった町で、今もその当時の町並みが残されている。19世紀中ごろ、アメリカは世界の捕鯨大国で、世界の捕鯨船の半分以上は、このニュー・ベッドフォードの港から出航していたという。現在では、ここはNew Bedford Whaling National Historical Park(ニュー・ベッドフォード捕鯨国立歴史公園)に指定され、全米唯一の捕鯨をテーマとした国立公園ユニットとなっている。

ニュー・ベッドフォードの町は、1699年にクウェーカー教徒が教会を建てたのが町の始まりだが、ここが捕鯨基地として発展するきっかけを作ったのは、Joseph Russell(ジョセフ・ラッセル)という人物である。1761年に彼がManufacture(マニュファクチュア)という捕鯨船を出航させたのが始まりである。そこにJoseph Rotch(ジョセフ・ロッチ)というナンタケット島出身の捕鯨商が加わった。その頃までこの町はAcushnet(アクシュネット)と呼ばれていたが、ラッセルと同じ苗字のベッドフォード公爵にちなんで、ベッドフォードと変えようとしたが、マサチューセッツ州には他にベッドフォードという町があったため、ニュー・ベッドフォードと呼ぶこととした。18世紀には沿岸でクジラを捕獲していたため、漁場に近いナンタケット島が主たる捕鯨基地として機能していたが、クジラの漁場が遠くなるにつれ、大型の船が必要となり、喫水が浅く、砂州に囲まれたナンタケット島よりもニュー・ベッドフォードが次第に好まれるようになり、1840年に鉄道が開通し、ボストンやニューヨークなどの消費地とのアクセスが便利となると、ニュー・ベッドフォードの優位性は決定的なものとなった。

ニュー・ベッドフォードから出航した捕鯨船は、世界中の海に出かけ、北極海やベーリング海のような厳しい条件の場所にも出かけていったため、ニュー・ベッドフォードは「世界の捕鯨の首都」と呼ばれた。この頃は、本船からクジラを探し、小さな6人乗りボートを降ろして、小さなボートでクジラに近づいて銛を打ち込み、弱って浮いてきたところでクジラの背に乗り、やりを打ち込んでとどめを指すという捕獲方法がとられていた。1848年にLewis Temple(ルイス・テンプル)という鍛冶屋が先端部のかえしが1つになった鉄製の銛を発明し、打ち込まれた銛がクジラから抜けにくくなり、捕鯨量が増加した。セミクジラ、マッコウクジラのほか、西海岸でコククジラ、北極海でホッキョククジラを捕獲していた。クジラの脂身は、ろうそく、ランプオイル、潤滑油の原料となった。クジラのひげは、コルセット、傘の骨、馬車の鞭、帽子のつばなどに使用された。特にマッコウクジラからは、脂身よりも質の高い油となる鯨ろうやりゅうぜん香がとれ、重宝された。
ルイス・テンプルの像

しかし、19世紀半ばには、大西洋からマッコウクジラとセミクジラは姿を消し、20世紀を迎えるまでに西海岸のコククジラや北極海のホッキョククジラも姿を消した。これに伴いアメリカの捕鯨基地も西海岸さらにはハワイに移っていった。また、1859年にペンシルベニアで石油が発見されると次第にクジラ油の需要が減少していった。1870年代には北極海で氷に閉じ込められる事故が相次ぎ多くの船を失った。やがて蒸気船や捕鯨砲を備えた外国船との競争も激しくなり、ニュー・ベッドフォードの捕鯨基地としての役割は終わりを告げた。

1841年1月3日、ニュー・ベッドフォードの港からアクシュネットという名の捕鯨船が太平洋に向けて出航した。その乗組員の中には、Herman Melville(ハーマン・メルビル)という名の20歳の青年がいた。彼は、1851年に、この体験を基にして、Moby-Dick(白鯨)を出版した。白鯨の中では、当時のニュー・ベッドフォードの町の様子が描かれている。

また、ニュー・ベッドフォードは、奴隷制度に反対したクウェーカーの伝統の残るリベラルな町で、捕鯨産業の隆盛による雇用の増大を背景に、多くの逃亡奴隷がニュー・ベッドフォードに安住の地を求めた。反奴隷運動家のフレデリック・ダグラスもその一人である。南北戦争の際には、この町から多くの黒人が北軍に志願し、黒人部隊として名をはせたマサチューセッツ第54連隊を構成した。

ニュー・ベッドフォード捕鯨国立歴史公園には、当時の捕鯨船の模型、捕鯨に用いられた器具、クジラのひげや歯や骨で作られた作品(Scrimshaw)、捕鯨をテーマとした絵画や写真、鯨の巨大な骨などが展示されている世界でも珍しい捕鯨博物館があるほか、1831年に建てられ、メルビルも含め捕鯨船乗組員が航海の安全を祈った教会であるSeamen’s Bethel(シーメンズ・ベテル)、1836年に竣工の今も使用されている税関所、かつて2つの銀行が同居したDouble Bank(ダブル・バンク)ビル、捕鯨船乗組員が時間を合せるのに用いた日時計、1810年に建てられたRodman Candleworks(ロドマン蝋燭工場)、捕鯨商William Rotch Jr.(ウィリアム・ロッチ・ジュニア)が捕鯨全盛期の1834年に建てたRotch-Jones-Duff House(ロッチ/ジョーンズ/ダフ家邸宅)などが点在している。
シーメンズ・ベテル
ロッチ/ジョーンズ/ダフ家邸宅

この町や港を散歩すると、メルビルが見たであろう風景が甦ってくる。


(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)



Tags:#産業史 
▲ by shiraok4563 | 2007-10-23 06:07 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
Longfellow National Historic Site

Henry Wadsworth Longfellow(ヘンリー・ワッズワース・ロングフェロー)と言えば、アメリカ人の誰もが知っている国民的詩人である。彼が1861年に発表したPaul Revere’s Ride(ポール・リヴィアの疾駆)は、一躍ポール・リヴィアを誰でも知っている独立戦争の英雄に仲間入りさせた。彼の詩は、アメリカで起きた出来事や歴史を叙事詩のレベルに昇華させ、多くの国民に愛された。彼の詩の影響は文学界にとどまらず、歴史、政治、音楽などの分野にも影響を与えた。

ロングフェローは、1807年2月27日にメイン州のPortland(ポートランド)の弁護士Stephen Longfellow IV(スティーブン・ロングフェロー4世)と妻Zilpah(ジルパ)の2番目の子供として母方の祖父の家で生れた。母方の祖父Peleg Wadsworth(ペレグ・ワッズワース)は、レキシントン=コンコルドの戦いにも従事した独立戦争時の将軍(准将)として知られている。地元のPortland Academy(ポートランド学院)を卒業後、Brunswick(ブランスウィク)のBowdoin College(ボウドウィン大学)に入学した。ここで後にベストセラー作家となるNathaniel Hawthorne(ナザニエル・ホーソン)と出会い、生涯の親友となる。1825年のボウドウィン卒業後は、4年間ヨーロッパ5カ国を遊学し、帰国後母校の外国語教授に就任した。ロングフェローは8ヶ国語に堪能であったという。1831年にかつての学友だったMary Storer Potter(メリー・ストーラー・ポッター)と結婚した。

1834年にはハーバード大学の教授職を得て順風満帆の人生に見えたが、ヨーロッパ留学中の1835年に流産がもとで妻を亡くす。翌年悲嘆のうちに帰国し、ハーバード大学で教鞭をとり、1837年にはCraigie House(クレーギー・ハウス)の2階の2室を借りて下宿した。このクレーギー・ハウスは、由緒ある家で、元々は1759年に王党派のJohn Vassall(ジョン・ヴァッサル)が建てたものであるが、独立戦争のため、ヴァッサル一家がイギリスに逃げ帰った後、この家はボストンに立てこもるイギリス軍を包囲する大陸軍の指揮官としてワシントンがケンブリッジに滞在したときに、その司令本部として使用された(ボストン国立歴史公園を参照)。独立戦争後は、初代Apotecary General(薬剤将軍)となったAndrew Craigie(アンドリュー・クレーギー)がこの家を取得し、夫の死後、クレーギー夫人が生計を立てるため、下宿人を住まわせていたのであった。この頃から、ロングフェローは詩の出版を始めた。1838年に発表されたA Psalm of Life(人生の賛歌)は、今でも度々引用され、多くの人に希望と勇気を与えている。

1843年にFanny Appleton(ファニー・アップルトン)と再婚し、繊維工場を経営する父親のNathan Appleton(ネイザン・アップルトン)は、クレーギー・ハウスをカップルに結婚祝いに贈呈した。1847年に発表したEvangeline(エバンジェリン)は絶賛され、詩人として大きな成功を収めると、次第に教授職が重荷となっていった。このため、1854年にハーバード大学を辞職し、詩人として執筆活動に専念することとなった。1855年に発表したThe Song of Hiawatha(ハイアワサの詩)は、代表作として今なお幅広い世代に支持を受けている。二人は5人の子供に恵まれるとともに、ロングフェローの家はサロンとなり、ナザニエル・ホーソン、人間の認識の限界を超えて魂の限りなさを追及するTranscendentalism(超越主義)運動の創始者の一人 Ralph Waldo Emerson(ラルフ・ウォルド・エマーソン)、「愛する勇気がある者には、必ず苦しむ勇気がある」の名言で知られるイギリスの小説家Anthony Trollope(アンソニー・トロロップ)、日本では「ごんべさんの赤ちゃん」のメロディーで知られるThe Battle Hymn of the Republic(リパブリック賛歌)の作詞者で奴隷廃止運動家の Julia Ward Howe(ジュリア・ワード・ハウ)、奴隷廃止論の急先鋒Charles Sumner(チャールズ・サムナー)上院議員、現在も続く文芸雑誌Atlantic Monthlyの初代編集者James Russell Lowell(ジェームズ・ラッセル・ローウェル)、さらにはイギリスの文豪Charles Dickens(チャールズ・ディケンズ)らが訪問客としてロングフェロー家を賑わした。
ロングフェロー邸

しかし、またしても悲劇は訪れる。1861年に妻のファニーが子供の髪の毛を封筒にしまっておこうとして、蝋を溶かしていたところドレスに火がつき、全身やけどとなり不慮の死を遂げた。妻の死という悲しみから逃れるため、ロングフェローは、ダンテの神曲の英訳という作業に没頭した。1868年には最後のヨーロッパ旅行に出て、オックスフォード大学とケンブリッジ大学から名誉博士号を受賞し、ビクトリア女王にも謁見した。彼の創造意欲は衰えることなく、1866年から1882年の間に7冊の詩集を刊行している。アメリカのみならず英語圏で広く愛された詩人は1882年3月24日に75歳でこの世を去った。彼の詩は今もなお人々の魂を揺さぶっている。

(国立公園局のHP)

Tags:#作家・芸術家 
▲ by shiraok4563 | 2007-09-24 07:21 | Massachusetts | Trackback | Comments(1)
Boston African American National Historic site

アメリカ独立発祥の地ボストンは、現在でもリベラルな政治風土を保っており、米国を二分した奴隷制度を巡る議論でも早くから奴隷制度を廃止し、南部から逃亡する奴隷たちを自由の身分に解放する手助けをする秘密のネットワークUnderground Railroad(地下鉄道)の拠点都市として機能した。リベラルなボストンでも最初から奴隷制度がなかったわけではなく、奴隷制度の導入、奴隷制度の廃止、分離政策の廃止といった過程を経ている。人種による差別の撤廃には、この街でも多くの勇気ある人の活躍がなくては、実現しなかった。Boston African American Historic Site(ボストン・アフリカン・アメリカン国立史跡)は、ボストンの19世紀の黒人街区を中心に保存し、ボストンの歴史を黒人の目から見て振り返る場所となっている。Smith Court(スミス・コート)には19世紀の典型的な黒人中流家庭の住居が保存されている。

マサチューセッツは、ニューイングランドで最初に奴隷を導入した地域であり、奴隷導入は1629年のマサチューセッツ湾植民地の建設以前に遡ると言われている。最初の確かな記録としては、1638年に奴隷船Desire(デザイヤ)によってカリブ海より原住民の捕虜と交換に連れてこられた黒人奴隷が始めてである。1641年には奴隷制度を公然と認めるようになる。1676年にはマサチューセッツはアフリカとの直接の交易ルートを開設し、奴隷を直接アフリカから連れて来るようになる。産業の発展とともに労働力が必要となり、1700年代に奴隷貿易は栄え、1752年のボストンの人口の1割はアフリカから連れてこられた奴隷であったという。奴隷は、市場での買い物、杖を持つこと、豚を飼うこと、夜間や日曜日に散歩することなどが禁止され、罰則には厳しいむち打ちが待っていた。1770年のボストン虐殺事件で犠牲となった5名のうち最初に殺害されたCrispus Attucks(クリスプス・アタックス)は逃亡奴隷であった。1783年、逃亡奴隷のQuok Walker(クウォック・ウォーカー)は奴隷制度にチャレンジし、奴隷制度はマサチューセッツ州の憲法に反するとの判決を勝ち取った。この判決以降、自由な身分となる黒人が増え、ボストン市内にも、州議会の裏のBeacon Hill(ビーコン・ヒル)に黒人のコミュニティーが出来上がった。1787年に建てられたGeorge Middleton House(ジョージ・ミドルトン・ハウス)は、ビーコン・ヒルに現存する最も古い黒人の住居である。
ジョージ・ミドルトン・ハウス

奴隷制度は廃止されたものの、依然として差別は残り、黒人は教育の機会すら与えられなかった。1787年にPrince Hall(プリンス・ホール)はマサチューセッツ州議会に公立学校への黒人師弟の入学を求めたが拒否されたため、自宅で私立学校を始めた。教会でも白人と同席することは許されず、バルコニーの席のみに座ることが許可された。1830年代でさえCharles Street Meeting House(チャールズ通りミーティング・ハウス)でTimothy Gilbert(ティモシー・ギルバート)が1Fの礼拝席に黒人の友人を招いたところ、ギルバートは教会から追放されるという事件が起きている。このため、黒人牧師のThomas Paul(トーマス・ポール)は1805年にビーコン・ヒルにFirst African Baptist Church(ファースト・アフリカン・バプティスト教会)を建て、この教会はAfrican Meeting House(アフリカン・ミーティング・ハウス)と呼ばれるようになった。プリンス・ホールの学校は、1808年にアフリカン・ミーティング・ハウスの1Fに移された。アフリカン・ミーティング・ハウスは、コミュニティーの教会、集会所、学校などの多様な機能を果たした。この場所で、1826年に黒人による奴隷反対運動グループMassachusetts General Colored Association(マサチューセッツ有色大衆協会)が設立され、さらに1831年にはWilliam Lloyd Garrison(ウィリアム・ロイド・ギャリソン)が人種を超えた奴隷反対運動グループであるNew England Anti-Slavery Society(ニューイングランド奴隷反対協会)を設立した。
アフリカン・ミーティング・ハウス

ロイド・ギャリソンは、1829年7月4日にPark Street Church(公園通り教会)で奴隷制度反対ののろしを上げたことで知られている。アフリカン・ミーティング・ハウスはボストンにおける奴隷反対運動の拠点となり、Frederick Douglas(フレデリック・ダグラス)もここで奴隷反対を呼びかけた。
*公園通り教会は、ボストン国立歴史公園の一部になっている。
公園通り教会

1835年、Abiel Smith(アビエル・スミス)が残した遺産により、ボストンで初めての黒人のための公立学校Abiel Smith School(アビエル・スミス校)が建てられ、アフリカン・ミーティング・ハウスの学校は廃止された。しかし、公立学校での隔離政策は続き、1848年にBenjamin Roberts(ベンジャミン・ロバーツ)は娘Sarah(サラ)を近くの公立学校に入学させようとしたが拒否され、訴訟を提起したが、1850年に却下された。Philips School(フィリップス校)のような白人校に黒人の入学が認められるのは1855年を待たなければならない。1850年はFugitive Slave Act(逃亡奴隷法)が施行された年でもあり、この法律によれば、逃亡奴隷は見つかり次第、元のマスターに返還しなければならないこととされた。逃亡奴隷法や公立学校での確立政策に反対し、奴隷反対運動家はアフリカン・ミーティング・ハウスに集まった。そのうちの一人がLewis Hayden(ルイス・ヘイデン)(PDF)である。ヘイデンは、ケンタッキーから逃亡し自由の身分となり、ボストンで洋服屋を開いて成功し、奴隷反対運動にも傾倒していった。ヘイデンは自宅で多くの逃亡奴隷を匿い、逃亡奴隷法の時代には、弾薬を玄関の戸口に置き、匿っている逃亡奴隷を連れ戻させるくらいならろうそくの火を落とすと言って、賞金稼ぎたちを追い返したとの逸話が残っている。同じく洋服屋を営むJohn Coburn(ジョン・コバーン)や理容店を営むJohn J. Smith(ジョン・スミス)も奴隷反対運動のリーダーの一人であった。コバーンは逃亡奴隷を助けるため逮捕された経験がある。スミスの自宅では奴隷反対運動の集会が多く開かれ、逃亡奴隷の待ち合わせ場所としても使用されていた。(コバーンの家とスミスの家)
ヘイデン・ハウス

南北戦争では黒人の従軍を認めると境界州も連邦を離脱するおそれがあるため、当初黒人の従軍は認められなかった。しかし、南部から逃亡奴隷の流入が続き、かつ、兵力増強の必要性が増し、リンカーンも方針を変更し、1863年に黒人の従軍が解禁された。黒人は臆病で役に立たないとの偏見が強く残る中、黒人のリーダーたちはこの方針変更を強く支持し、アフリカ・ミーティング・ハウスなどで兵の募集が行われた。こうして編成された黒人だけのマサチューセッツ第54連隊は、白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の指揮の下、チャールストン攻略作戦に参加し、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。1863年7月18日の戦闘は激しく、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。連隊長のショー大佐は戦死し、William Carney(ウィリアム・カーニー)軍曹は3度も銃撃されながら軍旗を守った功績で黒人として初めて米軍最高の名誉であるCongressional Medal of Honor(議会名誉勲章)を受章した。マサチューセッツ第54連隊の功績を記念して、ボストンコモンには、Augustus Saint-Gaudens(オーガスタス・セント・ゴーデンス)制作のブロンズのレリーフが置かれている。


ボストンではこれらの史跡を巡る1.6マイル(2.6km)のBlack Heritage Trail(ブラック・ヘリテージ・トレール)が整備されている。このトレールを巡るとボストン国立歴史公園とは全く違うボストンが見えてくるだろう。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)


Tags:#黒人の歴史 
▲ by shiraok4563 | 2007-07-02 05:27 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
Boston National Historical Park



















Boston National Historical Park(ボストン国立歴史公園)は、アメリカ独立革命の発祥の地ボストンの歴史を彩る様々な建造物、戦場跡などを保存する公園である。ボストンの古い町並み自体を保存していると言ってもよく、ボストンを訪れた場合には、この歴史公園に含まれる代表的な建造物などを訪れることとなる。ボストンの中心街を歩くと赤い線が街に引かれているのに気がつくと思うが、これはFreedom Trail(フリーダム・トレール)と呼ばれ、1634年につくられた米国で最も古い公園ボストン・コモンを出発し、独立戦争の最初の本格的な戦闘が行われたBunker Hill(バンカー・ヒル)に到る2マイル半(2.5km)のトレールを歩けば、独立前夜の歴史的な出来事が起きた名所を訪ねることができる。(フリーダム・トレールについては、ここ(PDF)を参照して下さい。)

ボストンの始まりは、古く1630年に遡る。イギリスからの清教徒の人々が建てたMassachusetts Bay Colony(マサチューセッツ湾植民地)が始まりである。初代植民地知事に選ばれたJohn Winthrop(ジョン・ウィンスロップ)はこの地にキリスト教徒の模範となる都市の建設を目指した。ウィンスロップは、独立革命前に国王派の拠点であったKing's Chapel(キングズ・チャペル)の墓地に眠っている。ボストンは早くから教育機関が置かれるなど、先進的アメリカ植民地として発展した。1635年にはアメリカで初めての公立学校であるBoston Latin School(ボストン・ラテン校)が開かれ、1636年にはハーバード大学が設立されている。ボストン・ラテン校は、ベンジャミン・フランクリン、サミュエル・アダムス、ジョン・ハンコックらの独立運動の指導者を輩出しており、現在かつて学校があった場所にはベンジャミン・フランクリンの銅像が立てられている。
ベンジャミン・フランクリンの銅像

ボストン沖でとれるタラは塩漬けにされて、カリブ諸島の糖蜜、ラム酒と交換され、糖蜜、ラム酒はヨーロッパの工業製品やアフリカの奴隷と交換された。こうしてボストンは貿易で潤い、発展していった。この街の裕福な貿易商の一人Peter Faneuil(ピーター・ファニュエル)は中央取引所の創設を提案し、1742年に取引所兼集会所であるFaneuli Hall(ファニュエル・ホール)が建てられた。
ファニュエル・ホール

1713年に建てられたOld State House(オールド・ステート・ハウス)は、取引所、議会、裁判所が置かれた場所であったが、1761年に植民地との貿易に規制を加える航海条例を厳格適用するため広範な捜査権限を与えるWrits of Assistance(援助令状)の創設を知事が命じ際、州の最高検察官James Otis(ジェームズ・オーティス)が職を辞し、これに反対の論を張った場所として知られている。
オールド・ステート・ハウス

イギリス本国は7年戦争の債務返済のため植民地に負担を求め、1764年のSugar Act(砂糖条例)、1765年のStamp Act(印紙条例)などの法律を可決した。サミュエル・アダムス、ジェームズ・オーティスたちはファニュエル・ホールに集まり、イギリス本国の代表なき課税に反対した。この反対の声は、後にアメリカの独立を求める声に変わっていく。このため、ファニュエル・ホールはCradle of Liberty(自由のゆりかご)と呼ばれている。

イギリス本国の一方的な課税に対する反感が高まる中、1770年にオールド・ステート・ハウスのすぐ前で、ボストン住民がイギリス兵を挑発したことに端を発し、イギリス兵が発砲し、ボストン住民の5名が死亡し、6名が負傷する事件(ボストン虐殺事件)が発生した。
ボストン虐殺事件跡

イギリス兵は微罪にしか問われず、この処置にボストン住民の反感は高まり、Old South Meeting House(オールド・サウス集会所)には5千人の人々が集まり抗議の集会を開いた。1773年の紅茶への課税は、ボストン住民の抗議行動を一層過激なものとし、サミュエル・アダムズらは、オールド・サウス集会所に集まり、原住民に扮して、ボストン港に停泊中のイギリス船から積荷のお茶を投げ捨てるという事件(ボストン茶会事件)を引き起こした。
オールド・サウス集会所

この後のレキシントン=コンコルドの戦いに到る経緯は、ミニットマン国立歴史公園に譲るが、この関係では、イギリス軍の動きを早馬で知らせようとしたポール・リヴィアの家とこのとき同時にリヴィアの指示でRobert Newman(ロバート・ニューマン)がボストン対岸のCharlestown(チャールズタウン)の仲間にイギリス軍の動きを知らせるため明かりを点したOld North Church(オールド・ノース教会)にはフリーダム・トレールで訪れることができる。
オールド・ノース教会

Artemas Ward(アーテマス・ワード)将軍率いる植民地軍6,000は、ケンブリッジに本拠を置き、ボストンに逃げ帰ったトーマス・ゲージ将軍配下のイギリス軍4,000をチャールズタウン、Roxbury(ロックスベリー)、Dorchester Heights(ドーチェスター高地)の三方から取り囲み、ボストンに封鎖した。しかし、ボストン港はイギリス海軍がコントロールしていたため、イギリス軍は本国からWilliam Howe(ウィリアム・ハウ)将軍、John Burgoyne(ジョン・バーゴイン)将軍、Henry Clinton(ヘンリー・クリントン)将軍と4,500の増兵を得て、ボストン封鎖を打ち破ろうとした。イギリス軍の狙いは、北のチャールズタウン。1775年6月16日、ワード将軍は、Israel Putnam(イスラエル・パットナム)将軍率いるコネチカットの民兵とWilliam Prescott(ウィリアム・プレスコット)大佐率いるマサチューセッツの民兵を派遣し、パットナムとプレスコットは、チャールズタウンを見下ろすBreed’s Hill(ブリーズ・ヒル)に塹壕、砦を築き、イギリス軍の襲来に備えた。翌6月17日、ハウ将軍率いるイギリス軍は、Robert Pigot(ロバート・ピゴット)少将率いる部隊が中央を襲い、その間主力軍は植民地軍を左翼から崩す作戦に出た。植民地軍は、左翼にはレールフェンスを張り巡らし、John Stark(ジョン・スターク)大佐率いるニューハンプシャー民兵を配し、イギリス軍の攻撃に備えていた。植民地軍は、組織的抵抗に欠けるものの、射撃能力に優れた民兵の徹底的抗戦で反撃し、1度、2度とイギリス軍の攻撃を追い返したが、イギリス軍は態勢を立て直し、3度目は植民地軍の右翼・中央部から攻撃を加え、砦を落とし、植民地軍を敗走させた。しかし、その勝利は多くの犠牲を伴った。イギリス軍2,200のうち1,034名の死傷者を出した。また、John Pitcairn(ジョン・ピッケアン)少佐をはじめとして多くの将校の犠牲者を出した。植民地軍の犠牲者は、400-600程度の死傷者に留まったが、独立運動のリーダーの一人Joseph Warren(ジョセフ・ウォレン)を失った。この戦いは、ブリーズ丘で戦われたものの、通常ブリーズ・ヒルの北にあるバンカー・ヒルの名前をとり、バンカー・ヒルの戦いと呼ばれ、事実上独立戦争の最初の本格的な戦いとなった。イギリス軍は戦いに勝利したものの、その半分を失い、戦闘能力を当面失った。植民地軍は、正規軍と正面から戦える戦闘能力を示し、ケンブリッジに撤退後、正式にContinental Army(大陸軍)に組み込まれ、ジョージ・ワシントンを総司令官に迎えることとなる。戦いが行われたブリーズ・ヒルには、1843年に竣工した221フィート(67m)のモニュメントが立っている。
バンカー・ヒル・モニュメント

ボストンに居座るイギリス軍に再び対峙するため、ワシントンは、Henry Knox(ヘンリー・ノックス)の進言により、ニューヨーク州のFort Ticonderoga(ティコンデロガ砦)でイギリス軍から接収した大砲59基を移動させ、1776年3月4日に、ボストンの南に位置し、ボストンとボストン港を見下ろすドーチェスター高地に備え付けた。ハウ将軍は、イギリス軍が大陸軍の攻撃にさらされる危険を認識する一方で、イギリス軍にこの丘を落とす戦闘能力は残っていないと判断し、3月17日にカナダのフェアファックスまで軍を撤退させた。ドーチェスター高地には、この無血勝利を記念して記念碑が建てられている。ワシントンは、植民地軍をニューヨークに移動させ、ニューヨークの防備を固めることとなる。

1776年の独立宣言はここボストンでも民衆に披露された。7月18日、オールド・ステート・ハウスの東側バルコニーからThomas Crafts(トーマス・クラフツ)大佐によって独立宣言が読み上げられた。Granary Buring Ground(グラナリー埋葬地)には、サミュエル・アダムズ、ジョン・ハンコック、ジェームズ・オーティス、ポール・リヴィアらボストンの独立の志士やボストン虐殺事件の犠牲者たちが眠っている。独立宣言の署名と同様にジョン・ハンコックの墓が最も大きく抜きん出ている。
グラナリー埋葬地

バンカー・ヒルの戦いの舞台となったチャールズタウンは、独立戦争後、海軍の造船所として発展する。1799年、フランスによる商船拿捕に悩まされ、議会は商船保護のため6隻の戦列艦建造を要求し、1801年初代海軍長官Benjamin Stoddert(ベンジャミン・ストダート)は6つの造船所を建設することとし、チャールズタウンをその一つに選んだ。アダムズ政権の外交努力により緊張が緩和したため、造船所はしばらく倉庫として使用されたが、1812年に英米戦争が勃発し、1814年には最初の戦列艦Constitution(コンスティチューション)を建造した。英米戦争から南北戦争までの間は主に物資供給基地として活躍したが、乾ドックもつくられ、南北戦争で活躍する有名な艦船も建造している。Merrimack(メリマック)は後に南軍で改造され、米国発の装甲艦Virginia(ヴァージニア)となる。ヴァージニアの初戦で沈められたCumberland(カンバーランド)もチャールズタウンで建設された。南北戦争の名提督David Farragut(デイビット・ファラガット)がニューオリンズ、Vicksburg(ヴィックスバーグ)、Mobile(モービル)攻略に使用した旗艦Hartford(ハートフォード)もチャールズタウン産である。南北戦争時に北軍は海上封鎖を敷き、チャールズタウンは修理・物資供給基地として活用された。このとき唯一政府の造船所で造られたモニター艦Monadnock(モナドノック)もここで建造されている。1890年代に海軍力を大幅に増強した際には、チャールズタウンの造船所に乾ドックが追加されて戦艦が建造され、さらに修繕基地としても活躍した。第2次大戦時も修理・物資補給基地としてフル稼働し、多くの護衛駆逐艦が建造された。チャールズタウンの海軍造船所はヴェトナム戦争時まで現役で稼動したが、現在は復刻したフリゲート艦コンスティチューションや第2次大戦で活躍した駆逐艦Cassin Young(カシン・ヤング)がこの造船所で建造された艦船の代表例として置かれ、公開されている。
コンスティチューション

ボストン国立歴史公園は、ピューリタンの植民地時代から海軍造船所の時代までたくさんの歴史の詰まったボストン市自体が舞台となった公園である。ボストンの古いレンガ造りの町並みを歩くとアメリカ建国の息吹が聞こえてきそうである。

(国立公園局のHP)



Tags:#独立戦争 #産業史 
▲ by shiraok4563 | 2007-07-01 09:33 | Massachusetts | Trackback | Comments(2)
Adams National Historical Park
親子ともども大統領となった家はブッシュ家のほかに、もう一つある。それはAdams(アダムズ)家である。John Adams(ジョン・アダムズ)とその息子John Quincy Adams(ジョン・クインシー・アダムズ)は、それぞれ第2代大統領、第6代大統領になっている。ジョン・クインシーの息子Charles Francis(チャールズ・フランシス)はイギリス大使となり、さらにその息子Brooks(ブルックス)は批評家として活躍した。そんな名門アダムズ家4代の家がボストンの南のQuincy(クインシー)にある。

ジョン・アダムズは農家のジョンとSusanna(スザンナ)の長男として1735年10月22日に現在のクインシーに生れた。ジョンは、15歳で名門ハーバード大学に入学が認められ、卒業後は弁護士として活躍する。1764年に名家の子女Abigail Smith(アビゲール・スミス)と結婚し、3男、2女に恵まれる。長男が後の大統領ジョン・クインシーである。アダムズはアビゲールに政治・政策に関する相談をよく行っており、アビゲールは当初より女性の権利の確立を夫に主張していた。アダムズは1765年の印紙条例に反対して頭角を現し、1774-78年の大陸会議にマサチューセッツ代表として送り込まれ、初期よりアメリカの独立を主張し、ワシントンを最高司令官に推薦した。1776年に”Thoughts on Government”(政府に関する考え方)を著し、多くの州の憲法のモデルとなった。同じ年、独立宣言の起草者の一人に選ばれ、審議で採択のため尽力した。1779年に全権大使としてヨーロッパにわたり、オランダから独立承認と融資をとりつけ、イギリスとの終戦交渉で、フロリダを除くミシシッピー川以東の領土とカナダ沖での漁業権の保全を確保した。独立後、1785年に初代の英国大使に任命される。1787年に生れ故郷のクインシーの農家を購入し、この家は後に”Old House(オールド・ハウス)”と呼ばれ、アダムズ家4代の住まいとなる。当初は小さな家であったが、アビゲールは事実上の主としてこの家を大きく住みやすい家に改造していった。1789年の選挙でアダムズは副大統領に選ばれ、ワシントンの下で副大統領を2期務めたが、その間は主として議会対策を担当し、上院の議長として31の賛否同数を破る投票を行い、記録として残っている。1796年の大統領選挙は、アダムズは強い連邦政府を主張するFederalist Party(フェデラリスト党)候補として出馬し、Democratic-Republican Party(民主共和党)のジェファーソンとの一騎打ちとなった。アダムズは北部諸州を押さえ辛くもこれに勝利し、第2代大統領に就任した。アダムズの在任中にホワイトハウスができ、アダムズはホワイトハウスの初めての住人となる。アビゲールのヨーロッパでの経験がホワイトハウスでの接宴などで生きることとなる。当時ヨーロッパではフランスと大英帝国が戦闘中で、アメリカは中立を守ろうとした。イギリスとの間では1794年のJay’s Treat(ジェイの条約)により、貿易関係の回復、カナダとの国境の画定、未払いの負債の処理などの懸案を片付け、緊張関係を緩和したが、フランスは独立戦争でアメリカに加担したにもかかわらず、フランスを支援しないことに不満を覚え、アメリカ商船を拿捕するなどの行動に出て、緊張が高まった。党内の好戦派の主張を押し切り、アダムズは海軍力を増強し、フランスに禁輸措置を講じる一方で外交努力による解決を行い、フランスとの戦争を回避した。しかし、このことは党内基盤の弱かったアダムズに、1800年の大統領選挙で自らの党の積極的な支持を得ることを困難とし、ライバルのジェファーソンに敗れてしまう。アダムズは政界を引退し、クインシーの農場に引き揚げた。ライバルのジェファーソンとは絶縁状態となる。ジェファーソンとの関係は、1812年に共通の友人であるBenjamin Rush(ベンジャミン・ラッシュ)の勧めにより、短い書簡をジェファーソンに送り、以降二人は交友関係を復活させた。アダムズは長生きし90歳でこの世を去るが、臨終の際に「ジェファーソンはまだ生きている」の言葉を残して亡くなったと言われている。しかし、ジェファーソンはその2-3時間前に息を引き取っていた。アダムズとジェファーソン、2人のアメリカ独立革命の巨頭が亡くなったのは、1826年7月4日、アメリカが独立宣言を発して、ちょうど50年目の日であった。
オールド・ハウス

ジョン・クインシー・アダムズは、1767年7月11日にクインシーで生れた。幼少の頃を両親とともにヨーロッパで過ごし、当時の外交の言葉であったフランス語を自由自在に操った。帰国後、父親と同様に、ハーバード大学に学び、弁護士となる。得意の語学力を活かし、オランダ大使、ポルトガル大使、プロシア大使などを歴任する。この間にロンドンで知り合ったイギリス総領事の娘Louisa Catherine Johnson(ルイーザ・キャサリン・ジョンソン)と結婚する。ジョン・アダムズの政界引退に伴い1801年に帰国し、フェデラリスト党からマサチューセッツ州の上院に当選した後、合衆国の上院に転じた。上院議員時代は党の方針に反してジェファーソンの政策を支持したことから、事実上フェデラリスト党から追い出され、一時母校のハーバード大学で教鞭をとった後、ロシア大使に転じて再び外交の世界に戻り、1814年に英米戦争を終結させるゲント条約交渉の代表を務め、1815年にイギリス大使、そしてモンロー政権下では国務長官に選ばれ、スペインからフロリダの獲得に成功を収めるとともに、ヨーロッパ諸国の米国への不介入を謳うモンロー政策の形成、実現に腐心した。ジェファーソン、マディソン、モンローと3代民主共和党から大統領が選ばれ、対立政党のフェデラリスト党は政治の舞台から消え去り、1824年の大統領選挙では民主共和党内の派閥ごとに候補者が出ることとなり、下院議長のHenry Clay(ヘンリー・クレー)、財務長官ウィリアム・クロフォード、英米戦争の英雄アンドリュー・ジャクソン上院議員とジョン・クインシー・アダムズとの4つどもえの分裂選挙となった。結果、どの候補も過半数をとることができず、下院での上位3人の決選投票となった。4位であったクレーは、ジャクソンを嫌い、下院議長の影響力を行使して、アダムズの支持に回った結果、アダムズが他の候補を押えて大統領に当選した。アダムズは、保護主義的な貿易政策をとり、高関税で得た収入でアメリカ国内の運河、道路などのインフラ整備を推進しようとしたが、分裂選挙の影響が残り、議会での支持を失い、政権内でも分裂を抱えたまま、効果的な政策推進が不能な状態に陥った。このことは1828年の大統領選挙にも影響を与え、アンドリュー・ジャクソンに大差をつけられ敗れた。しかし、彼は政界を引退することなく、1831年に下院議員としてワシントンに返り咲き、以後死ぬまで17年間下院議員を務めた。アダムズは大統領後下院議員となった唯一の大統領である。この間、奴隷制度に一貫して反対し続け、スミソニアン博物館の設立に尽力するなどした。また、本人の写真が残っている最初の大統領でもある。

チャールズ・フランシスも、祖父、父と同様に、ハーバード大学を卒業し、弁護士となる。マサチューセッツ州の下院議員・上院議員を経た後、合衆国の下院議員に当選し、リンカーン政権下では英国大使に任命された。チャールズ・フランシスは南北戦争でイギリスの中立を確保した。帰国後、父ジョン・クインシーを記念してオールド・ハウスに初めてとなる大統領ライブラリーを開設した。

チャールズ・フランシスの4人の息子Henry(ヘンリー)、ジョン・クインシー、チャールズ・フランシス・ジュニア、ブルックスは、いずれもハーバード大学を卒業し、ヘンリーは、父のアシスタントを勤めた後、歴史学者となり、ジョン・クインシーは弁護士となった後、マサチューセッツ州の下院議員として活躍し、チャールズ・フランシス・ジュニアは南北戦争に従軍した後、Union Pacific Railroad(ユニオン・パシフィック鉄道)の社長となり、ブルックスは批評家となった。

Adams National Historical Park(アダムズ国立歴史公園)は、アダムズ家4代の舞台となったオールド・ハウス、ジョン・アダムズ生家、ジョン・クインシー・アダムズ生家からなる。近くには、United First Parish Church(ユナイテッド・ファースト・パリッシュ教会)が建ち、二人の大統領と二人のファーストレディーの墓地となっている。アダムズ家のアメリカへの功績を讃えて近くワシントンDCにアダムズ記念碑ができることになっている。これでようやくワシントンにおけるアダムズの地位がジェファーソンに並ぶことになる。
ジョン・アダムズ生家
ジョン・クインシー・アダムズ生家


*アダムズ国立歴史公園は、アダムズ国立史跡が1998年11月に指定換えされたもの。

(国立公園局のHP)

Tags:#大統領 
▲ by shiraok4563 | 2007-06-26 11:26 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
Minute Man National Historical Park

Minute Man(ミニット・マン)とは、独立戦争前にマサチューセッツ植民地に作られた民兵の中の即動部隊のことで、1分の事前予告で(at a minute’s notice)で行動する部隊という意味で名付けられた。Minute Man National Historical Park(ミニット・マン国立歴史公園)は、このミニット・マンが活躍したレキシントン=コンコルドの戦いにちなんだ場所を保存する歴史公園である。

No Taxation without Representation(代表なくして課税なし)という言葉は、アメリカ植民地のイギリス本国への反乱の際の標語として用いられたものであり、アメリカ独立の原因を指し示す言葉となっている。現在でも議会に投票権のある代表のいないワシントンDCのナンバープレートに用いられている。フランスとの7年戦争で多くの債務を抱えたイギリスは、その一部を植民地に担わせるため、1764年のSugar Act(砂糖条例)や1765年のStamp Act(印紙条例)を植民地の同意なく可決し、施行させた。植民地の同意なく可決された1764年のCurrency Act(通貨条例)は植民地に紙幣発行を禁じ、植民地経済に不況を招いた。一方的なイギリス本国の立法は植民地住民の怒りを招き、イギリス物品のボイコット運動に発展した。イギリスへの反感が高まる中で発生した1770年のイギリス軍のボストン住民への発砲事件(ボストン虐殺事件)は、反イギリス感情をさらに煽った。さらに1773年に可決されたTownshent Acts(タウンゼント条例)は、日用必需品を含む広範な物品に課税するものであり、これに反発したSamuel Adams(サミュエル・アダムス)らは、原住民に扮して、ボストン港に停泊中のイギリス船から積荷のお茶を投げ捨てるという事件(ボストン茶会事件)を引き起こした。イギリス本国政府は、アメリカ植民地がIntolerable Acts(耐え難い条例)と呼ぶ立法を行い、イギリス船への賠償の支払いが行われるまでの間のボストン港の閉鎖、住民の集会の禁止、イギリス兵への宿舎提供の義務などの措置を講じた。これに対して植民地側は、立法は憲法違反と宣言し、民兵の組織、別政府組織を呼びかけた。イギリス本国は、Thomas Gage(トーマス・ゲージ)将軍を派遣し、治安維持に当たらせた。

1775年4月18日、ゲージは植民地の反乱グループがコンコルドに武器・弾薬を集めているとの情報を察知し、これを接収するためにFrancis Smith(フランシス・スミス)中佐率いる700名のイギリス軍を派遣しようとした。この動きを察知した反乱グループのJoseph Warren(ジョセフ・ウォレン)はレキシントンに逃避中のサミュエル・アダムスとJohn Hancock(ジョン・ハンコック)に知らせるため、Paul Revere(ポール・リヴィア)、William Dawes(ウィリアム・ドーズ)を派遣した。リヴィアとドーズは別々のルートをたどり、夜中に早馬を走らせてレキシントンのアダムズとハンコックに一報を届けた。4人は事態の分析を行い、各地にイギリス軍の動きを伝えるため、伝令を派遣することとした。リヴィアとドーズはコンコルドに情報を伝達するため、さらに馬を進めた。途中で同志のSamuel Prescott(サミュエル・プレスコット)と出会い、3人で馬を進めたところ、パトロール中のイギリス兵に出くわし、ドーズはレキシントンへ逃げるが、リヴィアは捕らえられてしまう。プレスコットのみがコンコルドまで走りきり、コンコルドのミニット・マンにイギリス軍の情報を伝達できた。(早馬の経路は、ここを参照。)

4月19日の朝、John Pitcairn(ジョン・ピッケアン)少佐率いるイギリス軍の先遣隊はレキシントンに到着した。John Parker(ジョン・パーカー)大尉率いる植民地民兵はわずか77名であった。パーカーには植民地側の意志を示すだけで戦闘を行う意図はなく、イギリス軍の解散命令に従おうとしたところ、発砲が聞こえ、これに反応したイギリス軍兵士が静止命令にも関わらず発砲し、8名の植民地民兵が死亡した(レキシントンの戦い)。このニュースはボストンからコンコルドに至る街道の住民にすばやくもたらされ、危機感が高まった。

コンコルドに到着したイギリス兵は、武器接収のため各戸を回った。スミスは、その一部をJames Barret(ジェームズ・バレット)大佐の農場に差し向けた。その一部は退路を守るため、Concord River(コンコルド)川にかかるNorth Bridge(ノースブリッジ)に控えた。状況を見守るために一旦コンコルドの北にあるPunkatasset Hill(プンカタセットの丘)まで下がった500名ほどの植民地民兵は、さらに状況を把握するため、ノースブリッジに向かって下りてきた。その際、コンコルドの中心街から武器を燃やす煙を見て、イギリス軍が街に火をつけたと思い、戦闘可能な構えに入った。ノースブリッジを守る100名弱のイギリス軍部隊もこれを見て橋の反対側に退き、戦闘態勢をとった。怯えたイギリス兵が先に発砲し、2名の民兵が倒れた。民兵を率いるJohn Buttrick(ジョン・バトリック)は発砲を命じた。2名のイギリス兵が倒れ、多くの将兵が負傷した(コンコルドの戦い)。圧倒的に兵力に劣るイギリス軍部隊は街の中心部に向けて撤退した。
ノースブリッジ

スミスはコンコルド中心部で兵の再集結を図り、ボストンに引き返そうとした。しかし、ボストンへの帰路では、沿道にミニット・マンの狙撃兵が待ち構えていた。(イギリス軍の撤退ルートについては、ここを参照。)イギリス軍はMeriam’s Corner(メリアムズ・コーナー)、Bloody Angle(ブラディー・アングル)、Fiske Hill(フィスクの丘)、レキシントンでミニット・マンの狙撃にさらされ、少しずつ兵を失っていった。しかし、止まることはさらなる犠牲を意味するため、イギリス軍は、ひたすらボストンへの道を急いだ。レキシントンの東で、Percy(パーシー)卿率いる1,000名の応援部隊と合流し、休憩をしてから、再びボストンに向かった。現在のArlington(アーリントン)で再び戦闘状態となり、植民地側25名、イギリス軍40名の犠牲者が出て、この日で最も犠牲者の多い場所となった。その後もWatson’s Corner(ワトソンズ・コーナー)、Charlestown(チャールズタウン)の入口で植民地側の攻撃に遭い、イギリス軍はこの日合計で戦死者73名、負傷者174名、行方不明者26名の犠牲を出した。植民地側の犠牲者は、死者49名、負傷者40名、行方不明者5名であった。この日の戦闘により、イギリス軍には植民地の抵抗は本物で、戦闘能力を持った集団であることが明らかとなった。そして双方にとってイギリスと植民地の対立は、戦いなくして解決ができないことも明らかとなった。
ミニット・マンの像

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。

Tags:#独立戦争 
▲ by shiraok4563 | 2007-06-23 04:48 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
Lowell National Historical Park

19世紀に入り、アメリカの産業の担い手として、セーラムなどの貿易町にとって代わったのは、本日ご紹介するLowell(ローウェル)のような繊維産業を中心とする工業都市であった。ローウェルは、アメリカ産業革命のゆりかごと呼ばれる都市である。

Francis Cabot Lowell(フランシス・カボット・ローウェル)は、もともとニューベリーポートの貿易商であったが、英米戦争の影響により貿易業が不振となり、イギリス滞在中に覚えた繊維工場をマサチューセッツに設立することを思いついた。機械工のPaul Moody(ポール・ムーディー)の協力により、イギリスの機械のコピーを製作し、投資家を募ってThe Boston Associates(ボストン・アソシエート)を設立し、ボストン郊外のWaltham(ウォールサム)で繊維工場を始めた。事業は成功したが、チャールズ川の水力は大規模なオペレーションに不向きで、1817年に亡くなったローウェルの後を継いだボストン・アソシエートの経営陣は新工場の場所を探す必要に迫られた。

彼らが目をつけたのがローウェルであった。ローウェルを流れるMerrimack River(メリマック川)には1マイルで32フィート(10m)の落差があるPawtucket Falls(ポータケット滝)があり、パワフルな川の流れは水車による水力の活用に適した場所であった。加えて、1803年にはボストンとメリマック川を結ぶ水路Middlesex Cannal(ミドルセックス運河)が完成しており、ボストンへのアクセスも便利であった。

ボストン・アソシエートは、アイルランド人労働者を雇い、この急流の迂回ルートとしてつくられたPawtucket Cannal(ポータケット運河)を買い取って改良を加えるとともに、ポータケット滝にダムを建設して、新たに掘ったNorthern Cannal(ノーザン運河)に豊かな水を流し込んだ。これらの運河網によって豊富に供給される水の力を活用して繊維工場を建設した。繊維工場には、ニューイングランド地方全土の農村から若い女性が労働力として集められ、彼女達は寄宿舎に住んで、一日12-14時間糸を紡いだ。わずか250名程度の寒村地帯は、1823年に最初の繊維工場が操業を開始してから、あっという間に大きな工業都市に生まれ変わり、1850年までには人口33,000人を数えるマサチューセッツ第2の都市に成長した。水車はやがてタービンにとって代わられ、水力に蒸気の力が加わるようになった。
ポータケット運河

工場の賃金は比較的良かったが、長時間労働と衛生的とはいえない工場・生活環境に女性労働者の不満は募り、ストライキもしばしばあったという。アメリカ版女性工哀史である。1840年代に入り、労働力不足から移民の労働力が導入されるようになり、最初はアイルランド人労働者が使用され、南北戦争後にはフランス系カナダ人、ギリシャ人、ポーランド人、ポルトガル人、ユダヤ系ロシア人、アルメニア人などに広がっていった。彼らは、ローウェルの街の一区画に集団で暮らし、さながらローウェルの街は世界の縮図のような街となった。


このように繁栄したローウェルの街も19世紀末には落日を迎えることとなる。最新の設備をもったより効率的な北部の繊維工場が出現し、老朽化したローウェルの工場は競争上厳しい立場に立たされ、その後綿花の供給地であった南部に繊維工場の立地が始まると、古い設備に高い賃金を支払うローウェルの繊維産業は立ち行かなくなり、1920-30年代には工場は次々と閉鎖されていった。

Lowell National Historical Park(ローウェル国立歴史公園)には、昔の紡績工場(博物館)、紡績工場を支えた運河システムなどが残されている。
Boott Mills(ブート紡績工場)

昔の紡績工場の中に入ると所狭しと紡績機械が並び、当時の工場の様子を窺うことができる。
ブート紡績工場の内部

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。


Tags:#産業史 
▲ by shiraok4563 | 2007-06-22 00:28 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
Salem Maritime National Historic Site
ボストンから北東に16マイル離れたところにあるSalem(セーラム)の街は、魔女狩り、魔女裁判で有名な街だが、この街はかつてはアメリカ有数の貿易港の一つであった。

1626年の植民地の始まりより、船職人が活躍しており、1630年代には早くも漁業の街として頭角を現し始めた。1640年代には、沿岸貿易に従事するようになり、ニューイングランドでとれたタラや木材をカリブ海に運搬し、カリブ海からはラム酒や糖蜜を運び、ヨーロッパからは工業製品を輸入した。しかし、アメリカ独立前夜には、イギリス本国がアメリカの貿易に重税を課すようになり、セーラムの港町にも少なからぬ影響を与えた。独立戦争時には、アメリカは十分な海軍力を持たなかったため、連邦政府は、商船にイギリス船の攻撃を許可するとともに、私掠船も認めた。セーラムは、独立戦争の支援に最も多くの船(158隻)を拠出した。

独立後は、経済不況やイギリスのカリブ海の港からのアメリカ船の締め出しなどから、セーラムの商船隊は苦境に立たされるが、苦境をチャンスに変え、沿岸貿易からさらにスケールの大きな世界貿易に乗り出した。彼らはリスクを冒して、インド、中国、トルコ、ロシア、アフリカ、南アメリカ、さらには日本まで貿易に乗り出した。Elias Hasket Derby(エリアス・ハスケット・ダービー)の船Grand Turk(グランド・ターク)は、喜望峰を周り、初めて広東に入港した船となった。彼はアメリカで初めてのミリオネア(百万ドル長者)になった。William Gray(ウィリアム・グレー)やSimon Forrester(サイモン・フォレスター)はロシアとの貿易に従事した。Nathaniel Bowditch(ナザニエル・ボーディッチ)は航海術の本を書き替えた。セーラムの商船隊は、ワシントン、アダムス両政権下の保護貿易政策の下、繁栄を極めた。セーラムには貿易で一財をなしたミリオネアが目抜き通りに豪邸を建て、豪華さを競った。
ダービー邸

ナポレオン戦争の勃発は、セーラムの人々の運命を大きく変えた。ヨーロッパの戦争に不介入・中立の方針をとったジェファーソン政権は、イギリス、フランスに禁輸措置を採った。この結果、両国からアメリカ商船隊は攻撃を受けることを避けることができたが、反面多くの船が貿易相手を失い、貿易から撤退を余儀なくされた。英米戦争が勃発すると、セーラムは独立戦争と同様、多くの私掠船を供出したが、マーケットから締め出された影響は挽回することができなかった。その後も、セーラムは、ボストンやニューヨークのように内陸の輸送網を持たなかったことから、次第に貿易港としての価値を失っていき、ニューイングランド地域で産業革命が進展すると、海運業が工業に主役の座を譲り渡すとともに、セーラムの栄光は過去のものとなった。

Salem Maritime National Historic Site(セーラム海洋国立史跡)は、18世紀末から19世紀初頭のセーラムが海上貿易で栄えた頃のダービー邸、Hawkes(ホークス)邸、Narbone(ナーボン)邸、税関所、検量所、西インド諸島商店などの歴史的建造物やダービー埠頭、復元されたFriendship of Salem(フレンドシップ・オブ・セーラム)号などを保存している。古き港町の由緒ある町並みを眺めながら散歩するとかつての栄光が偲ばれる。
税関所
ダービー埠頭

また、セーラムは、19世紀の有名なアメリカ人作家Nathaniel Hawthorne(ナザニエル・ホーソーン)の生家がある場所でもある。彼の小説の舞台となった、The House of the Seven Gables(七破風の家)もセーラムで見ることができる。ボストンに行く機会があったら、少し足を伸ばして、古きニューイングランドの歴史が詰まった街セーラムを訪れてみてはどうだろう。

(国立公園局のHP)


Tags:#産業史 
▲ by shiraok4563 | 2007-06-21 08:59 | Massachusetts | Trackback | Comments(0)
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