

Unsung Heroという言葉がある。讃えられることのないヒーローという意味であるが、アメリカ独立戦争でもアメリカ独立のために命を賭けた多くの讃えられないヒーローがいる。
George Rogers Clark(ジョージ・ロジャース・クラーク)もそのような一人かもしれない。インディアナ州のイリノイ州との境にあるVincennes(ヴィンセンズ)の町にひっそり彼の記念碑が立っている。
ジョージ・ロジャース・クラークは、1752年11月19日にヴァージニア州中部シェナンドアの東に生れた。クラークは、
ルイス&クラーク探検隊の隊のWilliam Clark(ウィリアム・クラーク)の兄に当たる。測量技師となったクラークは、1772年にケンタッキーに足を踏み入れたが、そこでは原住民と開拓民が一触即発の状況にあった。ケンタッキーは、1768年の
スタンウィックス砦の条約でIroquois(イロコイ族)によってイギリスに譲渡された土地であるが、その土地はShawnee(ショーニー族)、Delaware(デラウェア族)、Cherokee(チェロキー族)ら原住民の狩場になっていた。このため、とりわけイロコイ族と敵対するショーニー族を中心とするオハイオ・ヴァレーの原住民は開拓に入ってきた人々を襲撃した。これに開拓民が(ときには誤って)復讐を加え、事態はコントロールがきかない状態となった。1774年10月にはヴァージニア州知事が1,000名規模のヴァージニア民兵を送り、クラークもこれに参加して、オハイオ・ヴァレーの原住民連合を打ち破り、一応の収束は見たが、原住民の襲撃をケンタッキーがいつ受けるかわからない不安定な状況は続いた。

ジョージ・ロジャース・クラーク
オハイオ川から北はケベック州の一部としてイギリスの支配下にあった。独立戦争が始まると、Fort Detroit(デトロイト砦)に拠点を構えるイギリス軍は、オハイオ・ヴァレーの原住民を扇動して、再びケンタッキーのフロンティアの開拓民に攻撃を仕掛けさせ、アメリカ軍の背後を混乱させようとした。ケンタッキーの開拓民たちは若きクラークにリーダーシップを求めた。ケンタッキーの開拓民たちの力だけではイギリスの支援を受けた原住民の攻撃を跳ね返すことはできないので、クラークはヴァージニア州知事の
Patrick Henry(パトリック・ヘンリー)に支援を求めた。さらにクラークは、背後のイギリスを叩かない限り、事態は改善しないと主張し、イギリス領であるオハイオ川北のKaskaskia(カスカスキア)を落とし、その後デトロイト砦を目指す作戦を提案し、ヘンリーから民兵の募集の許可を得て、ヴァージニア民兵隊の中佐となった。
1778年5月12日、クラークは150名の民兵とともに、ペンシルベニア州のRedstone(レッドストーン)を出発し、イギリス軍に動きを悟られないように、オハイオ川をカヌーで下り、カスカスキアを目指した。現在のケンタッキーのルイビルの対岸でケンタッキー民兵らと合流してさらに下り、かつてのフランスのFort Massac(マサック砦)跡にカヌーを隠し、そこからは陸路カスキアを目指した。7月4日、カスカスキアに到着したクラークらは、フランスがアメリカ側に立って参戦したことや宗教の自由を保障することをカトリック教徒の多い、フランス系のカスカスキアの住民に告げて説得し、無血開城させた。そこからさらに北のCahokia(カホキア)に部下のJoseph Bowman(ジョセフ・ボウマン)大尉らとカスカスキアの住民の代表を派遣し、カホキアの住民を説得させた。カスカスキアの
Pierre Gibault(ピエール・ギボール)神父は、ヴィンセンズの町の人々の説得を買って出てこれに成功し、Leonard Helm(レオナード・ヘルム)大尉をヴィンセンズのFort Sackville(サックビル砦)に派遣し、ヴィンセンズを治めさせた。この結果、現在のイリノイ、インディアナ南部一帯はアメリカの勢力下に入った。
この情報に接したデトロイト砦のHenry Hamilton(ヘンリー・ハミルトン)副知事は、イギリス軍、フランス民兵、原住民の連合軍を率い、ヴィンセンズを包囲した。ヘルム大尉の指揮下にいたヴィンセンズの民兵はサックビル砦を放棄したため、12月17日ヘルムは降伏を余儀なくされた。この情報は、クラークの作戦を財政的に支援していた毛皮商人Francis Vigo(フランシス・ヴィゴー)によって、1779年2月5日にクラークの許にもたらされた。クラークは、ここで前例のない冬季の長距離攻勢を決断する。ハミルトンは、冬が深まりつつあったため、当時の慣例に従い、冬には戦いはないものと考え、90名だけをサックビル砦に残し、他の兵はデトロイト砦に帰していた。
クラーク以下170名のヴァージニア民兵、フランス人民兵は、2月6日、ヴィンセンズに向けて、180マイル(288km)の行軍を開始した。折から例年になく雨が降り、そこら中の川は氾濫し、水浸しの沼道を行進しなければならなかった。ヴィンセンズに近づくほど、食料は乏しくなる一方で、道は悪くなり、ところによっては、肩まで水につかりながら、凍えそうになる寒さの中、彼らは行軍を続けた。このような無茶な行軍には、ハミルトンは一切気がつかなかった。2月23日、夕方、クラークらは、苦難の末、ヴィンセンズに到着した。暗闇の中、塹壕を掘り、ポジションを固めてから、サックビル砦の攻撃を開始した。攻撃を予期していなかったイギリス軍は混乱し、暗闇が混乱に拍車をかけた。クラークの軍が1,000名はいると思わされたハミルトンは、クラークの総攻撃を開始するとの脅しに屈服し、24日に降伏を受け容れた。25日、降伏式の際、ハミルトンは、「お前の軍隊はどこにいるのか」とクラークに訊き、「ここにいる」と言われて愕然としたという。(クラークの一連の作戦行動については、
ここ(PDF)を参照。)
クラークは、この後、イギリス軍の拠点、デトロイト砦を目指そうとするが、武器、弾薬、兵力などが十分に集まらなかったため、断念をせざるをえなかった。しかし、このクラークの勝利によって、イギリス軍は遠くデトロイト砦に引きこもり、原住民を扇動する以外は、オハイオ・ヴァレーに手を出すことができなくなった。1783年のパリ条約で独立戦争が終結するが、この際、イギリスは五大湖の南、アパラチア山脈の西、オハイオ川北のイギリス領をアメリカ領として認めざるを得なくなった。この土地は、
Northwest Territory(北西領)と呼ばれるようになり、後のオハイオ、インディアナ、イリノイ、ミシガン、ウィスコンシンの各州とミネソタ州の一部となった。
ヴィンセンズの町には、George Rogers Clark National Historical Park(ジョージ・ロジャース・クラーク国立歴史公園)が設けられ、クラークの記念碑が建てられている。この他、
ヴィゴーやギボール神父の像も建てられている。ヴィンセンズの町には、この他に、北西領の原住民討伐に成果を上げ、第9代大統領に選ばれた
William Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン)の家
Grouseland(グラウスランド)やインディアナ領議会など、北西領の歴史を語る史跡が点在する。

ジョージ・ロジャース・クラーク記念碑
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


1816年12月、新天地を求めたリンカーン一家は、
生れ故郷のケンタッキーを離れ、インディアナ州南西部のLittle Pigeon Creek(リトル・ピジョン・クリーク)に160エーカー(64ha)の土地を手に入れ移り住んだ。7歳になっていたリンカーンは、父親を手伝い、一緒に丸太小屋を建て、畑を切り開いた。リンカーンは、このフロンティアで成長するに従って、スキと斧の名手となっていく。しかし、悲劇はリンカーン9歳のときに起きた。1818年10月5日、リンカーンの母親のNancy(ナンシー)がmilk sickness(ミルク病)にかかった近所の人を看病するうちに自らもミルク病にかかり命を落としてしまった。ミルク病は、当時のフロンティアで流行っていた病気で、白いかわいらしい花が咲くフジバカマの一種である
white snakeroot(ホワイト・スネークルート)を食べた牛のミルクや肉を摂取すると、この植物にはトレメトールという毒が含まれているため、中毒症状を引き起こす。

丸太小屋のあった場所
父親のThomas(トーマス)は、翌年、昔からの知り合いであった
Sarah Bush Johnston(サラ・ブッシュ・ジョンストン)と再婚した。サラには、3人の子供がいたため、リンカーン家の兄弟は5人となった。サラは、リンカーンを実の子と全く同じように接した。リンカーンは、継母からも愛情を受けて育ち、サラが結婚のときに持ち込んだ多くの本を与えてもらった。リンカーンは、斧を抱えながら、暇さえあれば、本を読み、独学を続けた。リンカーンの人格は、このインディアナのフロンティアで厳しい農作業と読書を通じて形成されていった。
1828年、リンカーンは、ニューオーリンズまでオハイオ川とミシシッピー川を下って荷物を運ぶ仕事を得た。このときニューオーリンズで奴隷のせりを目撃し、ショックを受け、奴隷制度に強い疑問を覚えたという。1830年に家族は再び土地の権利問題に巻き込まれ、インディアナを去らざるを得なくなり、イリノイ州に移り住んだ。やがて22歳になったリンカーンは、独立し、人生を切り開いていく。(この続きは、
Lincoln Home National Historic Site(リンカーンの家国立史跡)にて。)
インディアナのLincoln Boyhood National Memorial(リンカーン少年時代国立記念碑)には、リンカーンの人生をフェーズごとに振り返った彫刻が刻まれた記念碑、リンカーンが7歳から21歳までを過ごした少年時代の丸太小屋の跡、
リンカーンの母親の墓の記念碑などが建てられている。

リンカーン記念碑
また、1820年代のリンカーンが少年時代であった当時の開拓農民の暮らしぶりを再現するLiving Historical Farm(実演歴史農場)が設けられ、当時の格好をした人々が当時の暮らしぶりを再現してくれいている。

実演歴史農場
(国立公園局のHP)


ミシガン湖の砂丘をもう一つ。シカゴ近郊のインディアナ州北西端の工業地帯の一角にその砂丘は広がっている。Indiana Dunes National Lakeshore(インディアナ砂丘国立湖岸)では、ミシガン湖の湖岸15マイル(24km)に含まれるビーチ、砂丘、沼、草原、プレーリー、森林など多様な生態系を保護している。

ミシガン湖の砂浜が西風に吹かれ、氷河時代の置き土産のモレイン(氷河が削り取った土砂が堆積したもの)に当たり、少しずつ砂を落としていった。それが積もり積もって砂丘を形成している。ここの砂丘はよく見ると、何段もの構造になっている。湖から遠い順に古い砂丘が並んでいる。これはミシガン湖が次第に退いていっていることを表している。遠くから順に、Glenwood Dunes(グレンウッド砂丘)、Calument Dunes(カルメット砂丘)、Tolleston Dunes(トレストン砂丘)と名づけられており、これに現在形成途上の湖に一番近い砂丘が続く。
昔の砂丘は完全な姿で残っているわけではない、工業開発などにより、削りとられてしまっている。1899年にシカゴ大学のHenry Cowles(ヘンリー・コウルズ)教授がこの砂丘の複雑な生態系に関する研究結果を発表し、この砂丘に注目が集まったが、20世紀の初頭の工業開発により、この地域のミシガン湖岸には、製鉄所、発電所などが次々と建設されていった。このときにHoosier Slide(フーシアー・スライド)と呼ばれたこの地域最大の砂丘はすっかり削り取られてしまった。このような状況で一時国立公園化運動が盛り上がるが、第1次大戦の騒乱の中かき消されてしまった。1926年に一部は州立公園の形で砂丘の保護が始まったが、第2次大戦後、この地に大規模港湾を建設する計画が持ち上がった。イリノイ州選出のPaul H. Douglas(ポール・ダグラス)上院議員は、砂丘保護を強く主張した。このため、彼はインディアナ州3人目の上院議員と呼ばれた。彼は、港湾建設と砂丘保護を調整し、1966年に砂丘の国立湖岸化に成功した。これにより辛うじて、残った砂丘は、工業開発の対象からはずされ、保護されることとなった。
夏には、
ビーチは多くの人出でにぎわうが、せっかく砂丘に来たのであれば、砂丘登りにチャレンジしたい。インディアナ砂丘国立湖岸の西端にあるMount Baldy(ボールディー山)はその恰好の対象である。126フィート(38m)のその名の通り禿山である。この砂丘には草がほとんど生えていないことから、ミシガン湖からの風の影響を受けやすく、1年に何と4フィート(1.2m)の速さで内陸に向けシフトしているとのこと。その原因には観光客の砂丘登りも少なからず影響しているとのこと。植物が生えている場所は避けてやさしく登るよう心がけよう。また、砂丘周辺の生態系を見るには、インディアナ砂丘国立湖岸の東端のWest Beach Trail(ウェスト・ビーチ・トレール)を歩くといいだろう。

ボールディー山
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)