America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~ usnp.exblog.jp
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私がこれまでに訪れたアメリカの国立公園ユニット390+αを少しずつ紹介します。
by shiraok4563

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カテゴリ:Pennsylvania
  • Upper Delaware Scenic and Recreational River
    [ 2008-03-08 06:31 ]
  • Middle Delaware National Scenic River
    [ 2008-03-07 06:19 ]
  • Flight 93 National Memorial
    [ 2007-12-04 09:53 ]
  • Eisenhower National Historic Site
    [ 2007-11-14 10:00 ]
  • Friendship Hill National Historic Site
    [ 2007-07-31 04:52 ]
  • Fort Necessity National Battlefield
    [ 2007-07-30 09:36 ]
  • Johnstown Flood National Memorial
    [ 2007-07-29 04:17 ]
  • Allegheny Portage Railroad National Historic Site
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  • Valley Forge National Historical Park
    [ 2007-07-17 06:43 ]
  • Hopewell Furnace National Historic Site
    [ 2007-07-16 06:37 ]
Upper Delaware Scenic and Recreational River

ペンシルベニア州とニューヨーク州/ニュージャージー州の境を流れるデラウェア川は、アメリカ東部で珍しいダムのない川である。デラウェア川の上流部73.4マイル(117km)は、Upper Delaware Scenic and Recreation River(アッパー・デラウェア景観レクリエーション河川)に指定され、そのすぐ脇を並行して走るニューヨーク97号線はライダーに人気のツーリングコースとなっており、デラウェア川上流の見事な景観を楽しむことができる。

デラウェア川上流は、クラスIからII程度の急流を含み、カヤック、チュービング、ラフティング、フィッシングなどを楽しむことができる。沿岸部には、私営のキャンプ場が設置されており、夏にはキャンプとあわせてチュービングを楽しむ子供たちで人気の場所となる。夏の終わりには、うなぎを捕るための「やな」がしかけられるので、川下りの際には注意が必要である。デラウェア川上流はボールドイーグルの貴重な生息地ともなっており、イーグル・ウォッチングに訪れる人も多い。


デラウェア川上流の南部には、Roebling's Delaware Aqueduct(ローブリングのデラウェア用水路)と呼ばれる吊り橋がある。この橋は、アメリカ最古の吊り橋で、1848年にDelaware & Hudson Canal(デラウェア=ハドソン運河)の一部として建設されたものである。デラウェア=ハドソン運河は、ペンシルベニア州北東部の無煙炭をニューヨークなどに運搬するために建設された運河である。デラウェア=ハドソン運河のルートは、途中デラウェア川を横断する箇所があり、デラウェア川で造船のため下流に流される材木の交通とクロスしてしまうため、ボトルネックとなっていた。このボトルネックを解消するために建設されたのがデラウェア川の上にかかる用水路である。1898年にデラウェア=ハドソン運河が操業を停止した後は、橋として使用された。設計者のJohn Roebling(ジョン・ローブリング)は、後にニューヨークのブルックリン橋の設計者として歴史に名を残すこととなる。
ローブリングのデラウェア用水路

また、そのすぐ上流には、第2次世界大戦前に活躍した西部劇作家Zane Grey(ゼイン・グレー)の邸宅が博物館として公開されている。彼の残した作品は、映画やTVシリーズとして好評を博した。

紅葉の時期にニューヨーク97号線を走るだけでも、デラウェア川が色とりどりの絵の具を塗られたような両サイドの山の間を縫って流れぬける景色を満喫することができる。景色のよい場所では所々駐車できるスペースが設けられているので、車を停めて景色を吸い込もう。


(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#河川 
▲ by shiraok4563 | 2008-03-08 06:31 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Middle Delaware National Scenic River

デラウェア川は、アメリカ東部では珍しい、堰止められることなく自由に流れる河川で、カヌー、フィッシングなどのレクリエーションの機会を与えてくれる。Middle Delaware National Scenic River(ミドル・デラウェア国立景観河川)は、デラウェア川のうち、Delaware Water Gap National Recreation Area(デラウェア・ウォーター・ギャップ国立レクリエーション地域)の中に含まれる40マイル(64km)部分を指している。ミドル・デラウェア国立景観・レクリエーション河川は、デラウェア・ウォーター・ギャップ国立レクリエーション地域の中に含まれながら、デラウェア・ウォーター・ギャップ国立レクリエーション地域とは別の国立公園ユニットとして数えられている。

ミドル・デラウェア国立景観・レクリエーション河川で最も盛んなアクティビティーは、カヌーである。デラウェア川の中流域は、北側のセクションは、川幅も広く、流れもゆったりとしているため、初心者でもカヌーを楽しむことができる。Minisink Island(ミニシンク島)、Namanok Island(ナマノック島)、Shapanack Island(シャパナック島)といった中州の島もあり、目印にして下ることができる。この川には、ビーバー、ゴールドイーグル、シラサギ、アオサギ、ターキーなどが生息している。


さらに下流に下ると、Bushkill(ブッシュキル)の辺りから、デラウェア川は両サイドを山肌に押されて蛇行し始める。流れも少し急になり、大岩が流れを所々ブロックしている。しかしここを乗り切れば、再び流れは穏やかになり、Depew Island(デピュー島)、Poxono Island(ポクソノ島)といった中州が現れ、Smithfield Beach(スミスフィールド・ビーチ)という名の砂浜も現れる。

デラウェア川中流域は、途中、島に寄りながら、ゆっくりと野生動物を探して川下りをするのによい場所である。

また、川には、マス、バス、ウォールアイ、ナマズ、コイなどの淡水魚も豊富で、フィッシングを楽しむ人も多い。

(国立公園局の地図)(PDF)
Tags:#河川 
▲ by shiraok4563 | 2008-03-07 06:19 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Flight 93 National Memorial

あのとき、どこで何をしていたか、克明に覚えている事件がある。ケネディー暗殺のとき、よく言われたが、同じことが言えるのが、9.11同時多発テロ事件ではないだろうか。約3,000名の死者を出した未曾有のテロ事件は、現代社会を信頼に立脚した社会システムから不信に基づいた社会システムに変えてしまったとも言われる。2001年9月11日、4機の航空機がアルカイダのテロリストにハイジャックされ、そのうち2機はニューヨークのワールド・トレード・センターに、1機はペンタゴンに突入し、最後の1機は乗客の抵抗によって、目的地に到達せず、ペンシルベニアの山中に墜落した。この1機、ユナイテッド航空93便の40名の乗員・乗客の払った犠牲を悼み、その勇気を称える国立記念碑が墜落現場近くに設定されている。

その日、ユナイテッド航空93便は、ニューアーク空港からサンフランシスコ空港に向け、飛行する予定であった。B757-200、182席のフライトは、44名の乗客しか座っていなかったが、そのうち4名がハイジャックを行うテロリストとは知る由もなかった。出発予定時刻は8:00であったが、朝の離陸ラッシュのため、実際の出発は8:42に遅れた。このために後に他の飛行機の運命を知ることとなる。9:02に3万5千フィートの巡航高度に達した。8:46と9:03に2機の航空機がニューヨークのワールド・トレード・センターに激突し、9:24、管制官から、このニュースがもたらされ、操縦席への侵入に気をつけるよう指示があった。パイロットはこの真偽を問い合わせざるを得なかった。しかし、9:28、ハイジャック犯がコクピット内に侵入し、これを占拠した。9:32、実行犯は、爆弾を所持している旨アナウンスし、大きく東に舵を切った。ターゲットは、連邦議会議事堂であったと言われている。この直後から、乗客は家族、友人などに電話をかけ始め、ワールド・トレード・センターに航空機が突入したことを知らされる。ハイジャック犯のうち3人はナイフで武装し、乗員・乗客を後部の座席に移動させた。

乗員・乗客は、このままだとワールド・トレード・センターに突入した航空機と同じ運命をたどると認識し、実力行使でこれを阻止することを決意した。乗客の一人、Todd Beamer(トッド・ビーマー)の電話から最後に聞こえた言葉、"Are you guys ready? Let’s Roll.”(準備はいいか、いくぞ。)を合図に、有志はコクピット・ドアにチャージをかけた。テロリストともみ合いになるうちに、テロリストは計画を放棄せざるをえなくなり、機体をロールさせ、墜落させた。10:03のことであった。地上に激突した航空機は、大音響とともに爆発した。生存者は0であった。
墜落現場

これら一連の状況は、後に電話通信、ブラックボックスなどから明らかとなり、ユナイテッド航空93便の乗員・乗客の身を犠牲にした行動によって、テロリストの計画が阻止されたことが明らかになった。事件からほぼ1年の2002年9月10日、彼らの犠牲を悼み、その勇気を称える記念碑の建設法案が上下両院で可決された。

当初墜落場所から約500m離れた場所に仮設の記念碑が設けられ、全国から多くの人々が敬意を払いに訪れ、人々が思い思いにバッジ、帽子、旗などを残していった。乗員・乗客それぞれの名前が刻まれたベンチも墜落場所に向けて置かれた。現在では正式の記念碑が建立されたため、撤去され、人々が残した祈念品はカタログ化され、国立公園局によって別の場所に保管されている。
仮設記念碑

正式の記念碑は、事件から10年後の次の日2011年9月12日に献呈された。入り口からまるで航行の軌跡を描くように黒い石の歩道がメモリアルに向けて敷かれている。黒石の低い壁が墜落現場と訪問者の間を隔てている。犠牲者の家族だけが墜落現場に立ち入ることを許されるという。歩道の上を歩いていくと、やがて犠牲者の名前が刻まれた40の白石のメモリアルに行きつく。その中には、日本人乗客久下季哉(くげとしや)さん(当時20歳)の名前も含まれている。テロ発生時妊娠中であった女性のメモリアルには黒字で刻まれた女性の名前に続き白地に"unborn child"と彫られている。この場に立つと黙祷を捧げずにはいられない。
記念碑

(国立公園局のHP)


▲ by shiraok4563 | 2007-12-04 09:53 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Eisenhower National Historic Site

アメリカの大統領の履歴を見ると、名門中の名門の家系というより、意外と普通の人が選ばれている気がする。第34代大統領Dwight David Eisenhower(ドワイト・デービッド・アイゼンハウアー)もその一人である。小学校のときからIke(アイク)の愛称で知られ、飾らない素朴な人柄は、連合軍総司令官になり、大統領になっても変わらなかったという。1942年にアイゼンハウアー将軍付きとなったJohn Moaney(ジョン・モーニー)軍曹は、第2次世界大戦終了後も、アイゼンハウアーの個人スタッフとして生涯仕え続けた。アイゼンハウアーが引退後住んだ農場がペンシルベニア州の、あのゲチスバーグにある。

アイゼンハウアーは、1890年10月14日、オクラホマ州との境にあるテキサス州Denison(デニソン)に父David(デービッド)と母Ida(アイダ)の3男として生まれた。後に大統領となるが、テキサス生まれの最初の大統領となる。その翌年、家族はカンサス州に移り住み、アイゼンハウアーはカンサスの小さな町Abilene(アビリーン)で育った。1911年に、地元の高校卒業後、文武両道であったアイゼンハウアーは、無料で高等教育を受けられるウェスト・ポイントの陸軍士官学校に入学した。1915年に陸軍士官学校を卒業したアイゼンハウアーの最初の赴任地は、テキサスのFort Sam Houston(サム・ヒューストン基地)であった。ここでMamie Geneva Doud(マミー・ジェニーバ・ダウド)と出会い、1916年に二人は結婚した。

1917年にアメリカが第1次世界大戦に参戦すると、アイゼンハウアーは戦地派遣を希望したが、ペンシルベニア州ゲチスバーグのCamp Colt(キャンプ・コルト)で、戦車兵団の訓練に従事した。アイゼンハウアーは、この歴史ある緑豊かな町を気に入り、引退後再びここに住みたいと思うようになる。終戦後、各赴任地を転々としながら、1920年には少佐に昇任した。この間、1919年には、大陸横断陸上輸送に参加し、これが惨憺たる結果に終わったことから、大陸横断可能な道路インフラの重要性を認識するに到った。1921年には長男を病気で亡くす不幸にも遭っている。1926年にカンサスにある1年間のCommand and General Staff School(陸軍指揮・幕僚学校)を首席で卒業し、第1次世界大戦の英雄John Pershing(ジョン・パーシング)将軍の下でAmerican Battle Monuments Commission(アメリカ戦闘記念碑委員会)に勤務し、第1次世界大戦を研究する機会に恵まれた。1929年には戦争次官補のGeorge Mosley(ジョージ・モズリー)将軍のオフィスで勤務となった。1933年からはDouglas MacArthur(ダグラス・マッカーサー)将軍の首席補佐官、さらに1935年からはマッカーサーに随行し、フィリピン政府の軍事顧問補を務めた。1939年にヨーロッパで第2次世界大戦が始まると、アイゼンハウアーはフィリピンから呼び戻され、部隊付きの参謀を経験の後、ワシントンに呼ばれ、戦争省で計画課太平洋防衛主任、計画担当参謀長補佐を歴任した。George Marshall(ジョージ・マーシャル)将軍の下でオペレーション担当参謀長補佐を務め、マーシャルに認められ、以後出世階段を駆け上っていく。1942年6月にアイゼンハウアーは欧州戦線司令官に着任し、11月には連合軍北アフリカ最高司令官に任命された。そして1943年12月には、ノルマンジー上陸作戦を指揮する連合軍最高司令官に任命された。

その後は歴史が物語るとおり、1944年6月6日に決行されたノルマンジー上陸作戦を成功させ、戦争の潮目を大きく変え、12月には陸軍元帥に任命され、終戦までヨーロッパ戦線の最高司令官を務めた。終戦後は、ドイツのアメリカ占領地域軍政長官、さらには陸軍参謀総長を歴任した。国内で高まる大統領出馬人気をよそに、1948年にコロンビア大学の総長に就任した。その後は引退を考え、1950年にかつて勤務地であったゲチスバーグに189エーカー(76ha)の農場を購入したところ、トルーマン大統領からNATO最高司令官に任命された。そして1952年の大統領選挙では、日に日に高まる出馬要請を断りきれず、共和党から出馬し、タフト大統領の息子である民主党のRobert Taft(ロバート・タフト)を破り、第34代大統領に就任した。
ゲチスバーグの自宅

アイゼンハウアーが大統領であった時期はソ連との冷戦の絶頂期であった。選挙公約であった朝鮮戦争を終結させたが、封じ込め政策に従い、世界各地で共産圏の勢力拡大に神経を尖らせた。核の均衡の理論の下、核兵器の増強も盛んに行われた。大陸弾道弾の試験が行われ、ソ連のスプートニク号の成功に対抗するためNASAが設立された。フルシチョフとの会談を契機に軍縮の動きもあったが、CIAの偵察機U2が偵察中にソ連のミサイルに打ち落とされるという事件により、ソ連の態度を硬化させてしまった。国内では、人種隔離政策の撤廃を支持し、南部諸州と衝突することもあった。軍人時代の経験に基づき、インターステート・ハイウェイ網の構築に尽力した。社会政策では、厚生・教育省の設立、最低賃金の引き上げなど、社会保障の充実路線を推進した。

大統領時代は、週末友人をゲチスバーグの農場でもてなした。世界のリーダーが訪問すると、キャンプ・デービッドで会談を行った後、ゲチスバーグの農場を案内するのが慣例となった。1955年に心臓発作に見舞われたときは、一時ゲチスバーグの農場で執務を行った。時間があるときは、ゲチスバーグの農場では、アンガス牛の飼育状況を見回ったり、ゴルフ、スキート射撃などを楽しんだ。1961年に2期の任期を満了し、ゲチスバーグの農場に引退してからは、回想録の執筆を行う傍ら、趣味の絵画、読書などを楽しんだ。ゲチスバーグの家の中では、ポーチがお気に入りで、ここでゆっくり朝食を楽しむのが好きであったという。このゲチスバーグの農場は生前の1967年に国立公園局に寄付され、アイゼンハウアー夫妻の死後、一般に公開されることとなった。軍人生活を送ったアイゼンハウアー夫妻は、引退するまで転勤生活の連続であった。やっと落ち着くことができた我が家は、アイゼンハウアー夫妻にとって生涯で唯一の安らいだ生活の場所であったに違いない。
アンガス牛の飼育場

アイゼンハウアー農場へのツアーは、ゲチスバーグのビジターセンターでチケットを購入できる。ゲチスバーグのついでに寄ってみてはいかが。

(国立公園局のHP)

Tags:#大統領 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-14 10:00 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Friendship Hill National Historic Site
Albert Gallatin(アルバート・ギャラティン)と言っても、知っている人はほとんどいないだろう。政治家、外交官、実業家、教育者、マルチな才能を異国の地で発揮したスイス生れのアメリカ人である。彼が建てた邸宅、彼が建てた町がペンシルベニアに残っている。

ギャラティンは、1761年1月29日にスイスのジュネーブに裕福な貴族階級の子供として生れた。ジュネーブで教育を受けた後、1780年、18歳のときに、エリートの家に生れたことからくる束縛を嫌い、400ドルと販売用の紅茶を持ってボストンに渡り、一時ハーバード大学でフランス語を教えたりしながら、各地を旅して回った。その際、フィラデルフィアでの土地投機熱に感染し、ヴァージニア西部の土地を皮切りに、土地投機の道に入っていた。1785年にはヴァージニアより市民権を得て帰化した。彼は西部発展の可能性を信じ、オハイオ川流域の土地を見て回った。翌年、現在のペンシルベニア州西部のFayette County(ファイエット郡)に400エーカーの農場を買い取り、これをFriendship Hill(フレンドシップ・ヒル)と名付けた。ここは、George’s Creek(ジョージズ・クリーク)がMonongahela River(モノンガヘラ川)に流れ込む場所で、水運の将来性を買っていたギャラティンは、1795年にこの地区を彼の生れ故郷にちなみ、New Geneva(新ジュネーブ)と名付け、スイスからの入植者を呼び寄せた。1796年には自身もガラス工場を建てた。1800年ころにはジョージズ・クリーク流域は立派な町に育ちあがった。
フレンドシップ・ヒル

これと並行して、彼の政治家としてのキャリアが始まった。1790年にペンシルベニア州の下院議員に当選し、1793年にはさらに合衆国上院議員に当選するが、最低9年間は米国市民でなければならないとの要件を満たしていないとの理由で、失格となってしまう。失意のうちにペンシルベニアに戻ると、独立戦争の債務を返済するために初代財務長官Alexander Hamilton(アレクサンダー・ハミルトン)が課したウィスキーへの連邦税に多くの農家が反旗を翻し、これを鎮圧するためワシントン自らが軍隊を率いてペンシルベニア州西部に向かい、緊張が高まった。このWhiskey Rebellion(ウィスキー反乱)と呼ばれる事件も、ギャラティンは農家の間を説いて回り、緊張の拡散に努めた。この活躍が評価され、1795年に今度は合衆国下院議員として返り咲き、ハミルトンの財政政策にことごとく反対するとともに、下院歳入委員会を立ち上げ、国家財政への議会の監視を充実させた。ギャラティンは下院議員としては院内総務を務めるに至った。ハミルトン批判が目に留まってか、ジェファーソンが大統領になると、ギャラティンは財務長官に任命され、以後マディソン政権まで14年間も財務長官を務めることとなる。この記録は米国史上財務長官最長不倒記録となっている。ギャラティンは、ジェファーソンの右腕として、ルイジアナ購入やルイス&クラーク探検隊の支援を実現させるとともに、マディソン政権の英米戦争時には、内国税を復活させ、戦費調達と財政均衡を実現させた。また、道路・運河の建設など国内開発にも熱心で、ナショナル・ロードの積極的な支持者であった。

マディソンより派遣されて英米戦争を終結させるゲント条約の締結に活躍し、フランス大使、イギリス大使も務めた。帰国後は、ニューヨークに移り住み、ニューヨーク大学の設立発起委員会の委員長を務めるとともに、ニューヨーク・ナショナル銀行の頭取も務めた。さらに原住民の研究者としても知られ、著作も残っている。

ギャラティンを知っていると言えば、アメリカ人も一目置くかもしれない。

(国立公園局のHP)
Tags:#人物 
▲ by shiraok4563 | 2007-07-31 04:52 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Fort Necessity National Battlefield
アパラチア山脈から西のミシシッピー川に到る地域は、18世紀、イギリスとフランスがビーバーの毛皮を巡り、覇権を争った地である。フランス人探検家La Salle(ラサール)は五大湖付近とミシシッピー川流域を探検し、1682年にミシシッピー川流域をその支流も含めフランス領であることを宣言した。一方で、イギリスのVirginia Company(ヴァージニア会社)は、イギリス国王ジェームス1世から植民地開拓の特許を得たが、その範囲は、北は現在のカナダとの国境で南はノースカロライナとの境までと決められていたが、西限は定められていなかったため、イギリスは、アパラチア山脈より西の地域も当然に自らの領土と主張した。そこで1748年にOhio Company(オハイオ会社)を組織し、植民地開発に乗り出した。

このため、1749年にフランスのNew France(ニューフランス)の知事は、Pierre-Joseph Céloronにオハイオ地域に派遣し、原住民のフランス忠誠確保とイギリスの影響排除に乗り出した。しかし、原住民(マイアミ族)からは、オハイオ地域は自らの土地であり、イギリスとの毛皮取引は中止する意向のないことが伝えられた。このため、1752年にニューフランス知事は兵士を派遣し、マイアミ族を討った。続いて、1753年にPaul Marin率いる2,000人の部隊を派遣し、イギリスの影響を排除するために、現在のペンシルベニア州Erie(エリー)にFort Presque Isle(プレスク・アイル砦)、現在の同州Waterford(ウォーターフォード)にFort Le Boeuf(ル・ブフ砦)と、要所に砦を建設していった。

これに危機感を覚えたヴァージニア知事のRobert Dinwiddie(ロバート・ディンウィディ)は、当時21歳のGeorge Washington(ジョージ・ワシントン)以下8名をル・ブフ砦に派遣し、フランス軍に撤退を要求したが、フランスはこれを拒否した。このため、ディンウィディは、翌年1月、現在のピッツバーグ付近に兵士を派遣し、拠点の建設をさせようとするが、フランス兵がこれを追い返し、ここにFort Duquesne(デュケーヌ砦)を建設した。ヴァージニア兵の支援に出発したワシントンの軍は、フランスが砦を建設したことを知り、兵を進め、追加指示を待った。近くでフランスの部隊を見かけたとの情報に接し、40名で付近を捜索していたところ、Jumonville Glen(ジュモンヴィル・グレン)で30名余りのフランスの部隊を発見し、これを壊滅させた。
ジュモンヴィル・グレン

フランス軍の報復を恐れたワシントンは、Great Meadows(グレート・メドーズ)と呼ばれていたその地に防御のための砦を築き、援軍と物資補給を待った。砦は、必要に迫られた造ったものであるため、Fort Necessity(ネセシティー砦)と名付けられた。応援部隊を得て、ワシントンの部隊は400名程度に膨らんだ。7月3日、600名のフランス軍と100名の原住民の連合軍が現れ、戦闘となった。兵力に劣るイギリス軍は苦戦を強いられ、ワシントンは休戦・降伏を受け入れざるを得なかった。イギリス軍退去後、ネセシティー砦はフランス軍に接収され、焼却された。ワシントンは、デビュー戦を飾ることができなかったが、降伏したのは生涯でこれ一度だけであり、独立戦争では強靭な粘りを見せることとなる。
ネセシティー砦

イギリスは再び体勢を整え、1755年にEdward Braddock(エドワード・ブラドック)少将率いる2,400名の部隊を派遣し、デュケーヌ砦攻略に乗り出した。ワシントンもこれに志願して参加した。7月9日に、ブラッドクの軍は、デュケーヌ砦郊外でフランス軍600名の部隊と衝突した。兵力では圧倒的に劣るフランス軍は、巧みに林を利用して銃撃戦を展開した。アメリカでの戦闘経験がないブラドックは、まともに隊列を組んで、戦闘に当たったため、イギリス軍は手痛い打撃を被り、ブラッドクも戦死した。ワシントンは、激しい銃撃の中、残った兵士を集め、退却の指揮をとった。

Fort Necessity National Battlefield(ネセシティー砦国立戦場跡)は、ネセシティー砦があった場所で行われたフレンチ・インディアン戦争の戦場跡を保存する公園である。公園には、再建されたネセシティー砦のほか、ジュモンヴィル・グレンやブラッドク少将の墓石が見られる。

また、この地はアメリカで最初の連邦政府が資金を拠出して建設された道路であるNational Road(ナショナル・ロード)が通った場所でもある。ナショナル・ロードは、1811年以降、メリーランド州のCumberland(カンバーランド)からイリノイ州のVandalia(ヴァンダリア)まで順次開通し、1850年代まで主要な幹線道路として使用された。ナショナル・ロードは、現在のUS40号線のもととなっている。

今日のナショナル・ロード

ネセシティー砦の近くには、かつてワシントンが所有していた土地にNathaniel Ewing(ナザニエル・イウィング)判事が1827-8年ごろに建てたMount Washington Tavern(マウント・ワシントン・ターバン)が今でも残されている。マウント・ワシントン・ターバンは、ナショナル・ロードの宿場として使用され、繁盛した。
マウント・ワシントン・ターバン

(国立公園局のHP)

Tags:#フランス #大統領 #砦 
▲ by shiraok4563 | 2007-07-30 09:36 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Johnstown Flood National Memorial

2005年8月にニューオーリンズを中心とするメキシコ湾岸を襲い、1800人以上の死者が出たハリケーン・カトリーナの被害は記憶に新しい。このハリケーンにより、ニューオーリンズとメキシコ湾を結ぶ運河が決壊し、ニューオーリンズの東部は壊滅状態となり、未だにその傷が癒えていない。19世紀末、同様に洪水により、ハリケーン・カトリーナを上回る死者が出て、壊滅状態となった町がペンシルベニア州にある。町の名前は、Johnstown(ジョンズタウン)。1889年5月31日、降り続く集中豪雨により町の北東14マイル(23km)にあるSouth Fork Dam(サウス・フォーク・ダム)が決壊し、町を押し流し、2,209名の死者をもたらした。Johnstown Flood National Memorial(ジョンズタウン洪水国立記念碑)は、この洪水被害を後世に語り伝える場所として設立された。

当時ジョンズタウンは、鉄鋼業で栄え、3万人の人口を擁する町であった。ジョンズタウンは、Little Conemaugh River(リトル・コネモー川)がStonycreek River(ストニー・クリーク川)と合流する地点につくられた町であった。町の急成長に伴い多くの川岸の樹木は伐採され、川は降雨量が多いと氾濫しやすい状況にあった。リトル・コネモー川の上流には、1853年にペンシルベニア州のメインライン運河に水を供給するために造られたサウス・フォーク・ダムがあった。サウス・フォーク・ダムは、当時としては世界最大規模の土砂で造られたダムであった。1857年にメインラインと併せてペンシルベニア鉄道に買収されたが、運河は既に時代遅れのものとなっていたため、ダムは使用されず、十分な補修もされないまま、1879年に売却された。これを購入したのが、South Fork Fishing and Hunting Club(サウス・フォーク・フィッシング・ハンティング・クラブ)と呼ばれる会員制のクラブで、Andrew Carnegie(アンドリュー・カーネギー)やAndrew Mellon(アンドリュー・メロン)らのピッツバーグの財界人がメンバーとなっていた。ダムでせき止められてできたLake Conemaugh(コネモー湖)の周辺には、別荘が立ち並び、別荘地となっていたためである。ダムは、実は1862年に排水管の近くかが一度決壊したことがあった。このときは湖の水位が低かったため、大事には至らなかったが、その後も十分な補修が行われないまま、時が過ぎていった。このため、ジョンズタウンの人々は、ダムが危険であることは認識していたが、大雨のたびに危ないと言われながら持ちこたえるため、ダムの危険性に対する感覚が徐々に鈍っていった。

1889年5月30日に、この一帯を集中豪雨が襲った。ジョンズタウンの住民にも注意報が発令されたが、誰も本気に聞くものはいなかった。クラブの技師John Parke(ジョン・パーク)は、10分ごとに3センチずつ上昇するダムの水位に危機感を覚え、土嚢を積み上げるなどの対策をとったが、焼け石に水であった。見る見るうちに水位は上がり、5月31日午後3時10分ごろには、水はダムを乗り越え始めた。ダムは決壊し、雷のような音とともに、時速40マイル(64km)の速さで高さ10mの大洪水が途中にあるものを全て飲み込んで一気にリトル・コネモー川を駆け下りていった。午後4時7分、轟きとともに、大洪水はジョンズタウンの町に押し寄せ、わずか10分ほどで多くの家屋やビルを住人ごと飲み込み、押し流してしまった。悲劇はこれで終わらなかった。引き続き夜にかけて6mの高さの水が下流に向かって流れつづけ、最初の攻撃に耐え忍んだ建物も力尽き流されるものがあった。また、下流にあるペンシルベニア鉄道の石橋付近に洪水で流された無数の建物、機械、貨車、電信柱、樹木などの残骸や家畜などが巨大な塊となって集まっていた。橋のところで流されまいと懸命にしがみつく人も多くいた。しかし、何もかも飲み込んだ巨大な塊は、そこに浮かぶ油に火がつき、一瞬にして巨大な火の塊となった。死者は、トータルで2,209名を数えた。その1/3の777名が身元不明であった。1,600軒の家屋が破壊され、1,700万ドルの被害となった。水が引いても、チフスなどの伝染病が追い討ちをかけた。(洪水の様子は、1 2 3 4 5 を参照。)
旧ペンシルベニア鉄道石橋

この洪水は、全米に衝撃を与え、全国、18カ国から370万ドルの義捐金や救援物資が寄せられた。また、この洪水は、Clara Barton(クララ・バートン)が創設したAmerican Red Cross(アメリカ赤十字)が出動する最初の自然災害となった。医師、看護婦らからなる総勢50名のスタッフは、病院、仮設住宅、食料、衣料、薬品などを被災者に提供した。町が被災前の姿に戻るには、5年の月日を要したという。

ジョンズタウン洪水国立記念碑は、かつてサウス・フォーク・ダムがあった場所に建ち、決壊した堤防がそのまま残されている。近代の自然災害であるため、多数の証言や写真が残っており、自然の猛威の恐ろしさと危機への備えの重要性を後世に語り伝えている。
サウス・フォーク・ダム跡

(国立公園局のHP)

▲ by shiraok4563 | 2007-07-29 04:17 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Allegheny Portage Railroad National Historic Site

1825年10月26日、五大湖の一つであるエリー湖とニューヨークに続くハドソン川を結ぶエリー運河開通した。エリー運河の開通は、中西部と主要な貿易港であるニューヨークを結びつけ、ニューヨークのアメリカの商業・貿易の玄関としての位置づけを飛躍的に高めた。これに危機感を覚えたのが、同じく東海岸の港町であるフィラデルフィアやボルティモアである。ペンシルベニア州は、翌1826年にフィラデルフィアとピッツバーグを運河や鉄道で結ぶMail Line(メイン・ライン)の計画(ルートは、ここを参照)を立て、建設にとりかかった。

運河の工事は順調に進んだが、メイン・ラインを完成させるには乗り越えなければならない大きな壁があった。それは、Allegheny Mountain(アレゲニー山脈)であった。ここは運河を通すことができないため、何らかの方法で山を越える必要があった。ペンシルベニア州議会は、Johnstown(ジョンズタウン)とHollidaysburg(ホリデイズバーグ)間の36マイル(58km)の区間について貨物や乗客を船から鉄道に乗せ換えて運ぶことを承認した。このアレゲニー山脈を越えるAllegheny Portage Railroad(アレゲニー・ポーテッジ鉄道)は、1834年に正式に開通した(ルートは、ここを参照)。これによって、23日間かかったフィラデルフィアとピッツバーグ間は、4日間に短縮された。このうちジョンズタウンとホリデイズバーグ間は6時間を要した。

アレゲニー山脈を乗り越えるには、途中10箇所の急斜面を上り下りする必要があった。最大の勾配は6度程度あった。当初は、この斜面の部分は蒸気エンジンを用いてロープで車両を引き揚げていたが、強度に問題があったため、ケーブルに切り替えられた。また、当初は、平坦な部分は馬が使用されたが、すぐに蒸気機関車に切り替えられた。また、当初は、結節地点で乗客や貨物を船から鉄道に乗せ換える必要があったが、連結式の船が考案されてからは、乗客や貨物を船に乗せたまま、そのまま貨車に乗せることが可能となり、乗り換えに必要であった時間がかなり短縮された。
第6勾配エンジンルーム


このような工夫がなされたが、運河とポーテッジ鉄道を組み合わせたメイン・ラインは、すぐに時代遅れとなった。運河は冬季は凍って使えないほか、ケーブルを使用した勾配の上り下りは時間がかかるため、1854年にハリスバーグとピッツバーグを結ぶペンシルベニア鉄道が開通すると、メイン・ラインは競争力を失った。1857年にペンシルベニア鉄道がメイン・ラインを買収し、アレゲニー・ポーテッジ鉄道は23年の短い歴史を閉じた。

Allegheny Portage Railroad National Historic Site(アレゲニー・ポーテッジ鉄道国立史跡)は、6番目の勾配地点を中心に、ケーブルを動かすエンジンが置かれたエンジンルーム、その近くに1832年に建てられたSamuel Lemon(サミュエル・レモン)の居酒屋、鉄道が通ったSkew Arch Bridge(スキュー・アーチ橋)、アメリカで初めての鉄道トンネルであるStaple Bend Tunnel(ステープル・ベンド・トンネル)などが保存されている。なおトンネルへは駐車場からかつてのアレゲニー・ポーテッジ鉄道の線路跡の小道を片道2マイルほど歩いて行く必要があるため、足に自身のある人向きかもしれない。
ステープル・ベンド・トンネル

(国立公園局のHP)
Tags:#産業史 
▲ by shiraok4563 | 2007-07-28 09:29 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Valley Forge National Historical Park

1777年、前年ニューヨーク市を手中にし、ニュージャージーでアメリカ軍と対峙するイギリス軍の総司令官ウィリアム・ハウ将軍は、次なる狙いを事実上の首都フィラデルフィアに定めた。(その前年の経緯は、モーリスタウン国立史跡を参照。)1777年8月25日に、メリーランドのチェサピーク湾の付け根から上陸した。ワシントンは、軍をフィラデルフィアとイギリス軍の間に当たるBrandywine(ブランディーワイン)川の東岸に置き、イギリス軍の北進を阻止しようとした。9月11日に両軍は激突することとなるが、ハウ将軍はイギリス軍を二手に分け、主力をアメリカ軍の待ち構えるChadd’s Ford(チャドの小川)ではなく、迂回させ、アメリカ軍の右翼を襲わせることに成功した。アメリカ軍は総崩れとなって退却した。この報を聞き、大陸会議はフィラデルフィアを脱出し、西のLancaster(ランカスター)に移動した。この戦いで弾薬が尽きたアメリカ軍は、レディングの武器庫を守らざるを得なくなり、フィラデルフィアは、無抵抗のまま、9月26日にイギリス軍に占領された。大陸会議は、ランカスターも逃れ、さらに西のYork(ヨーク)へと避難した。ワシントンは軍勢を整えて、10月4日にフィラデルフィア北西のGermantown(ジャーマンタウン)に駐留するイギリス軍と再び戦火を交えるが、イギリス軍の厚い防御を突き崩すことができなかった。イギリス軍はフィラデルフィアを落としたものの、アメリカ軍がデラウェア川を押えていたため、食料等の調達がかなわなかった。イギリス軍は、デラウェア川に面したFort Miffin(ミフィン砦)を攻撃し、3週間の戦いの末に落とした。(この間の動きについては、ここを参照。)

1777年の冬は、ワシントンにとって殊のほか、辛い冬となった。ニューヨークに続き、フィラデルフィアも陥落した。大陸会議では、連戦連敗のワシントンを解任しようとする謀議が図られていた。アメリカ軍は、衣服、靴はぼろぼろの上、十分な食料も無く、建て直しが急務となった。12,000の部隊のうち、1/3に当たる4,000は兵役に不適格な状況であった。ワシントンは、冬のキャンプ場所をフィラデルフィア郊外西のValley Forge(ヴァレー・フォージ)に定めた。ここであれば、フィラデルフィアのイギリス軍の動きを監視でき、かつ、高台とSchuylkill River(シュイルキル川)に守られ、防御も容易であったためである。アメリカ軍は、その年の12月19日にヴァレー・フォージに到着した。しかし、ヴァレー・フォージは、決して安らぎの場所ではなかった。キャンプ中のアメリカ軍を、飢えと寒さに加え、チフス、赤痢、肺炎などの病気が襲い、2,000名の兵士が犠牲となった。ワシントンは、各地に支援と造兵の要請を行いつつ、様々な職業の民兵からなる寄せ集めの組織を規律ある効率的な軍隊組織に生まれ変わらせなければならなかった。
ワシントンの指令本部

このためにパリのベンジャミン・フランクリンがワシントンの元に派遣したのが、プロシア王国の元参謀Friedrich Von Steuben(フリードリッヒ・ヴォン・ストイベン)である。ヴォン・ストイベンは、1778年2月23日にヴァレー・フォージに赴任し、直ちに監察官代行に就任し、アメリカ軍の立て直しに着手する。当時は訓練の標準的なマニュアルはなく、ヴォン・ストイベンも英語をほとんど話せなかった。彼は、フランス語で訓練マニュアルを執筆し、それを翻訳させ、そのマニュアルに従い、自ら訓練の指揮をとり、兵士を鍛えた。まず100名の兵士を選び、その100名を自ら徹底的に鍛え上げた。見る見るうちに規律のとれた機敏な兵士に生まれ変わっていくのを目にすると、他の兵士も英語を解しないこのブロシア人の言うことを聞かざるを得なかった。
バラック

この間、情勢は一変する。サラトガの戦いでのアメリカ軍の勝利に感化され、フランスがアメリカ側に立ち、参戦を決定した。また、イギリス軍では、総司令官がハウからHenry Clinton(ヘンリー・クリントン)に交代した。クリントンに課せられた最初の課題は、フィラデルフィアからの撤退であった。フランスの参戦により、ニューヨークの防備を強化する必要に迫られ、イギリス本国からの指令により、フィラデルフィアを脱出した。アメリカ軍は1778年6月28日、これを追って、ニュージャージーでイギリス軍を追撃(Battle of Monmouth:モンメスの戦い)した。これが北部戦線最後の大きな戦いとなり、独立戦争の主舞台は、南部に移ることとなる。(続きはKings Mountain National Military Park(キングス・マウンテン国立軍事公園)にて。)

ヴァレー・フォージは、戦況が著しく不利な中、艱難辛苦を耐え忍び、冬の訓練を経て、アメリカ軍が鍛え直された場所として知られている。総司令官のワシントン自身が一番辛かった時期であるが、ワシントンはアメリカ独立の正義を信じ、揺らぎ無き信念のもと、アメリカ軍の再生に成功した。独立戦争は、この後、フランスの参戦により、次第にアメリカ軍有利に転がり始める。このため、ヴァレー・フォージでの冬は、サラトガの戦いとともに、独立戦争のターニング・ポイントと評価されている。

ヴァレー・フォージには、ワシントンの司令部や再建された兵士のバラックが立ち並ぶ。しかし、ヴァレー・フォージの意義を語るのは、Memorial Arch(記念アーチ)だろう。アーチの窓から星条旗が翻るのが見え、最終的なアメリカの勝利を誇っているようだ。
記念アーチ

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#独立戦争 
▲ by shiraok4563 | 2007-07-17 06:43 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
Hopewell Furnace National Historic Site

フィラデルフィアの郊外のSchuylkill Valley(シュイルキル谷)に産業革命前に一時は米国第2位の生産量を誇った製鉄所の跡が保存されている。当時鉄の生産には、原料である鉄鉱石、不純物を取り除くための石灰石、鉄鉱石を溶かし鉄に変えるための燃料である木炭、溶鉱炉に圧縮された空気を送り込むための水車が必要であった。鉄道ができる前は、原材料の運搬が課題であったことから、当時の製鉄所は、鉄鉱石が産出される山間に設けられた。

ここHopewell(ホープウェル)の製鉄所もシェイルキルの山間にMark Bird(マーク・バード)によってアメリカ独立革命の前夜1771年に開設された。当時イギリスは自国の製鉄産業を保護するとともに、植民地の力を押えるために、アメリカでは銑鉄の生産しか認めず、新たな製鉄所の建設を制限しようとした。しかし、植民地ではこれらを無視して、とりわけ豊富な鉄鉱石、水力、森林資源を背景に、ペンシルベニアで製鉄が盛んに行われた。バードもこの点に目をつけ、Hopewell Mine(ホープウェル鉱山)とJones Good Luck Mine(ジョーンズの幸運鉱山)を開き、鉄鉱石を生産すると同時に、イギリス本国の規制に反して、ホープウェルで調理用コンロの生産を開始し、独立戦争時には大砲や弾丸の生産を行って、1789年には全米で第2位の生産量を誇る大製鉄所に育て上げた。しかし、独立後には、連邦政府からの借金の回収がうまくいかず、これに不景気と洪水被害が追い討ちをかけ、製鉄所を売りに出さざるを得なくなった。

David Buckley(デービット・バックレー)と彼の義理の兄弟であるマシューとトーマスのBrooke(ブルック)兄弟がこれを1800年に買取ったが、うまく軌道に乗せることができず、8年で再び閉鎖された。1816年に再開の努力がなされ、政府の高関税による保護政策、安い移民労働力、調理用コンロへの選択と集中により、Clement Brooke(クレメント・ブルック)がIronmaster(工場長)のときにホープウェルの製鉄所は復活を遂げることとなる。ブルックは父と叔父の製鉄業を16歳のときから手伝い、家業の表裏を知り尽くした経営者であった。Hopewell Furnace National Historic Site(ホープウェル炉国立史跡)は、最盛期であった1820-40年頃の製鉄所を再現している。
工場長の家

レンガ造りの溶鉱炉に鉄鉱石(磁鉄鉱)、石灰石、木炭を投げ込み、下から水車で圧縮した空気を送り込んで、溶鉱炉内の温度を1500度程度に高め、融けた鉄がスラッグとともに下に落ち、この中からスラグを取り除き、銑鉄棒の型又は鋳型に注ぎ込みながら、鉄製品を生産していた。溶鉱炉は年に1回メンテナンスのために止められる以外は、24時間燃やし続けられた。Filler(詰め屋)と呼ばれた原材料を溶鉱炉のトンネル内に投げ込む人は30分おきに100kgもの鉄鉱石、20kgの石灰石、500リットルの木炭を投げ込んでいたという。Gutterman(溝掃除屋)が融け落ちてくる鉄からスラッグを取り除き、Founder(鋳物屋)が融けた鉄をモニターし、1日に2回、鋳型に流し込むタイミングを判断し、Moulders(鋳型屋)が融けた鉄を鋳型に流し込んでいた。この他、別に木炭を生産する部隊があり、分業により大規模な生産を可能としていた。
水車と溶鉱炉(煙突)

しかし、1837年からの恐慌により需要が落ち、ホープウェル製鉄所は1844年には調理用コンロの生産から撤退する。南北戦争で一時銑鉄の需要が増大し、息をつくが、時代は産業革命へと向かっており、蒸気を用いた熱風式のコークス・無煙炭炉がピッツバーグなどに建設され、鉄道網と結びついて、大規模な生産を始めるようになっていた。ホープウェル製鉄所も熱風式の無煙炭高炉を建設し、再起を図るが、失敗に終わり、この昔ながらの製鉄プランテーションも1883年には火を消すこととなった。
失敗に終わった熱風式高炉跡

ホープウェル炉国立史跡では、夏の時期、当時の格好をした人々が当時の生活を再現してくれ、この製鉄村も活気を取り戻す。

(国立公園局のHP)



Tags:#産業史 
▲ by shiraok4563 | 2007-07-16 06:37 | Pennsylvania | Trackback | Comments(0)
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