Piscataway Park
Thomas Stone National Historic Site
Fort Washington Park
Monocacy National Battlefield
Hampton National Historic Site
Fort McHenry National Monument & Historic Shrine
Clara Barton National Historic Site
Assateague Island National Seashore
Greenbelt Park
Potomac Heritage National Scenic Trail


ジョージ・ワシントンの邸宅であるマウント・ヴァーノンからポトマック川を望むと豊かな緑が広がる清々しい景色が広がる。その景色は、ワシントンが暮らしていた頃と全く変わらない景色と言われている。ワシントンDCの郊外の開発が進む中、マウント・ヴァーノンの対岸だけは、特別な景観として、開発から隔離され、保護されてきたからである。そこは、Piscataway Park(ピスカタウェイ公園)として国立公園ユニットの一角を占めている。

対岸がマウント・バーノン
ピスカタウェイ公園は、マウント・ヴァーノンの対岸6マイル(10km)のポトマック川の沿岸域に位置し、5,000エーカー(2,000ha)の広さを有する。ここは、ボールド・イーグルやミサゴ、鹿やキツネの住む森で、都会の近くにありながら、静けさが広がる場所で、隠れ家的スポットとなっている。ポトマック川での釣りを楽しむ人もここを訪れている。カヌーやカヤックも楽しめる。ここは、国立公園のユニットであるが、その中心部分はAccokeek Foundation(アコキーク財団)が運営している。
アコキーク財団は、ここにNational Colonial Farm(コロニアル・ファーム)という1770年代、アメリカ独立前夜のタバコ農場を再現した農場を公開している。当時の中産階級の農家という設定で、質素な住居のほかに、タバコ納屋、燻製小屋、屋外の台所などが置かれている。ここには、当時の服装をした人がタバコ農場での暮らしぶりを実演し、説明してくれる。ここで飼われている家畜や栽培されている作物も可能な限り当時の品種のものが使われており、リアリティーのある再現ぶりとなっている。当時の人は、今のようにベッドで横になって寝るのではなく、悪い空気が身体にたまらないようにという理由で、足を伸ばして座って寝ていたという。それでも熟睡していたというから不思議な気がする。

コロニアル・ファーム
(国立公園局のHP)


アメリカの独立宣言は、13の州の56の代表者によって署名されている。署名者の中には、執筆者である
Thomas Jefferson(トーマス・ジェファーソン)、第2代大統領となる
John Adams(ジョン・アダムズ)やマルチタレント人間
Benjamin Franklin(ベンジャミン・フランクリン)、最も大きな署名を残した
John Hancock(ジョン・ハンコック)、ビールの銘柄にもなっている
Samuel Adams(サミュエル・アダムズ)などのように有名な人物もいるが、大多数の人々はあまり知られていない。本日は、その一人、
Thomas Stone(トーマス・ストーン)を取り上げる。
トーマス・ストーンは、1743年にポトマック川をはさんでヴァージニア州の対岸にあるメリーランド州のCharles County(チャールズ郡)に父David(デービッド)と母Elizabeth(エリザベス)の長男として生まれた。4代前のWilliam Stone(ウィリアム・ストーン)は、メリーランド植民地知事であった。幼少より勉学を好み、スコットランド人の教師にラテン語とギリシャ語を学ぶため、毎日10マイル(16km)の道を馬で通ったという。その後、メリーランドの州都Annapolis(アナポリス)の弁護士Thomas Johnson(トーマス・ジョンソン)の下に弟子入りし、法律を学び、Frederick(フレデリック)で巡回裁判所の判事となった。1768年にストーンは、チャールズ郡一の資産家と言われ、ワシントンの主治医でもあったDr. Gustavis Brown(グスタバス・ブラウン医師)の娘Margaret Brown(マーガレット・ブラウン)と結婚し、1770年にブラウン医師の資金提供を受けて、400エーカー(160ha)の農場を購入し、ここに住居を建て、Habredeventure(アブレ・ド・ヴァンチュール:風の中の住まい)と名づけた。二人は三人の子供に恵まれた。1773年にストーンの父デービッドが亡くなったため、5人の弟妹を引き取ったため、家の拡張が必要となった。ストーンは、弁護士の仕事で家を留守にすることが多かったため、農場は彼の親族が実質上管理していた。

風の中の住まい
イギリス本国との関係が悪化すると、ストーンは、各郡に設けられていた連絡委員会のメンバーになり、独立派の人々がAnnapolis Convention(アナポリス会議)を設立すると、チャールズ郡を代表してメンバーとなった。そしてアナボリス会議は、1775年にストーンをメリーランドの代表として第2次大陸会議に送り込んだ。ストーンは、元々穏健派で戦争回避の立場であったが、転向し、独立宣言について、州からは止められていたにも関わらず、起草賛成の票を投じた。そして、その後はメリーランド州の議会で独立宣言賛成を説得して回った。合衆国憲法の前身である、新しい国の形を決める連合規約の審議委員に選ばれ、連合規約の起草に当った
1776年に妻のマーガレットは、長く留守をする夫に会いにフィラデルフィアに訪れた。当時のフィラデルフィアでは水疱瘡が流行っていたため、マーガレットは、予防療法(水銀摂取)を受けたが、その副作用で倒れてしまった。その後も健康状態は悪くなる一方であった。このため、独立宣言採択後は、妻とともにメリーランドの故郷に帰り、妻の看病に従事した。1779年から1785年まではメリーランド州の上院議員を務めたが、これもアナポリスで妻の治療を行うためであった。ストーンは、連合議会がアナポリスで行われたときを除き、憲法会議を含め再三の州代表の要請を断り、できる限り妻マーガレットの許を離れないようにした。しかし、1877年6月、ストーンの看病もむなしく、マーガレットは水銀中毒でこの世を去った。ストーンは、悲しみに打ちひしがれた。それから4ヶ月後、ストーンもマーガレットの後を追うようにこの世を去った。死因は、Broken-heart(心の痛手)と言われている。
立身・出世を取るか、妻への愛を取るかという究極の選択肢の中で、トーマス・ストーンは、妻への愛をとった。そして妻への愛に殉じた。男性諸氏、あなたならどうしますか。
(国立公園局のHP)


ワシントンDC近郊のポトマック川の畔に、首都ワシントンDC防衛の要として築かれ、様々な役回りを演じながら、およそ130年近く現役で使用された砦がある。その名前は、その役割にふさわしくFort Washington(ワシントン砦)と呼ばれる。米国沿岸防衛網の一翼を担った数少ない生き残りの砦である。
アメリカ独立から間もなく、ヨーロッパでのナポレオン戦争の勃発は、アメリカとイギリスやフランスとの関係を緊張させた。しかし、首都ワシントンDCは無防備であったため、早急に防御を固める必要が生じた。ポトマック川からワシントンDCへのアクセスを警戒するため、1809年にワシントンのかつての示唆に従い、彼の住居であるマウント・ヴァーノンからワシントンDCよりのポトマック川沿いにFort Warburton(ウォーバートン砦)が築かれた。ウォーバートン砦は、高さ14フィート(5m)の土塁で囲まれ、タワーに6基の大砲を備えた砦であった。しかし、英米戦争では、イギリス軍はポトマック川を上らず、さらに東にあるPatuxent River(パツクセント川)から上陸し、1814年8月24日にワシントンを焼打ちにした。次の日にイギリス軍はポトマック川を上り、ワシントンDCの対岸のアレクサンドリアを攻撃しようとした。ウォーバートン砦の司令官Samuel Dyson(サミュエル・ダイソン)大尉は、既にワシントンDCが落とされた以上、ウォーバートン砦も落とされるとイギリスを利するばかりであると判断し、ウォ-バートン砦を爆破し、撤退した。(イギリス軍の動きは、
ここ(PDF)を参照・)
イギリス軍がワシントンから去ると、戦争長官代理の
James Monroe(ジェームズ・モンロー)は、直ちにウォーバートン砦の再建を計画し、ワシントンの街を設計した
Pierre L’Enfant(ピエール・ルファン)に設計を依頼した。しかし、ルファンとモンローはそりが合わず、ルファンは解任され、新たに陸軍工兵隊のWalker Armistead(ウォーカー・アーミステッド)中佐の監督の下、レンガ造りの新たな砦の建設が進められた。ウォーカー・アーミステッドは、ボルチモアの
マクヘンリー砦を死守したジョージ・アーミステッド少佐とは兄弟である。1824年10月2日に砦の工事は完了し、新たな砦はFort Washington(ワシントン砦)と名付けられた。ワシントン砦は、1840年代に、88の砲台の設置、東側の壁の積み増し、武器庫の強化などの大規模な補強工事が行われた。

ワシントン砦
この補強されたワシントン砦は、南部諸州が連邦離脱したときには、ワシントンDCを守る唯一の砦で、Algernon Taylor(アルガーノン・テイラー)大尉以下わずか40名の海兵隊が守るだけであった。やがて海兵隊は陸軍志願兵部隊に切り替えられ、南北戦争が勃発すると、Joseph Haskin(ジョセフ・ハスキン)大尉率いる第1砲兵隊が駐屯するようになった。やがて陸軍工兵隊の
John G. Barnard(ジョン・G・バーナード)少将によってワシントンDCは68の砦が築かれ鉄壁の守りが備えられた。
しかし、南北戦争での兵器の進歩により施条式大砲や鋼鉄船が使用されるようになると、レンガ製の砦は時代遅れのものとなった。さらにヨーロッパ列強各国は、12インチ砲を喫水の浅い軍艦に搭載するようになり、米国沿岸防衛が脆弱であることは日の目を見るより明らかになった。ワシントン砦には1873-75年にかけて15インチ・ロッドマン砲が備え付けられ、1880年代には迫撃砲が設置された。1890年代には、ロッドマン砲は取り降ろされ、コンクリート製の砲台が築かれ、速射砲が備え付けられた。1897年には、再び第4砲兵隊A連隊が常駐するようになった。1898年に米西戦争が勃発すると、ポトマック川には機雷が設置され、ペンシルベニア州兵が常駐した。第1次世界大戦中は、DC沿岸砲兵隊が駐在するとともに、海外派遣兵の出発地点として使用された。1922年から1939年までは第12歩兵隊第3大隊が駐在し、主にパレードや行事に参加した。第3大隊が近くのFort Myer(フォート・マイヤー)に移動すると、ワシントン砦は一旦内務省に移管されたが、第2次世界大戦が勃発すると、再び戦争省に移管され、ワシントン砦は、幕僚見習い士官学校などが置かれた。戦後は、再び内務省に戻された。現在の砦は、つわものどもが夢の跡の状態である。
(国立公園局のHP)

Richmond(リッチモンド)でグラントの軍に包囲されたリーは、大胆な作戦を考え付いた。それは、2倍以上の北軍に囲まれていながら、50,000の南軍の一兵団を割き、シェナンドア・ヴァレー、さらにはワシントンの背後に部隊を派遣し、撹乱することで、リッチモンドにおける北軍の勢力を割かさせ、南軍への圧力を弱めさせるというものであった。このために、リーは、1864年6月12日、
Jubal Early(ジュバル・アーリー)中将に8,000の兵を持たせ、北上させた。
アーリーの部隊は、途中
John Breckinridge(ジョン・ブレッキンリッジ)少将の兵とLynchburg(リンチバーグ)で合流して14,000にまで膨れ上がり、シェナンドア・ヴァレーを駆け上がり、1864年7月5-6日にポトマック川を渡って、メリーランドに侵入した。アーリーは、7月8日にFrederick(フレデリック)の町を包囲し、攻撃を加えない代償として20万ドル要求し、これをものにした。南軍の北上の情報は、ボルティモア=オハイオ鉄道の職員によってグラントにもたらされた。ワシントンまでの途中には、
Lew Wallace(リュー・ワラス)少将の部隊2,300しかいなかった。グラントは直ちに、
James Rickett(ジェームズ・リケット)准将の師団5,000を差し向け、追って
Horatio Wright(ホレイシオ・ライト)少将の第6兵団を派遣した。ワラスは、アーリーがワシントンを目指しているのか、ボルティモアを目指しているのか明らかではなかった。このため、リケットの師団と合流し、ボルティモアとワシントンへの分岐点に当たるメリーランド州のフレデリックの郊外のMonocacy Junction(モノカシー・ジャンクション)で南軍を待ち伏せることとした。
両軍は、7月9日、モノカシーで激突した。まず南軍
Dodson Ramseur(ドドソン・ラムサール)少将率いる師団が北軍の前進部隊と衝突した。続いて、アーリーは、John McCausland(ジョン・マッコースランド)准将の騎兵隊にモノカシー川を渡らせ、ワレス軍の左翼を攻撃させた。そこにはリケットの師団が待っていて、Worthington Farm(ウォーシントン農場)とThomas Farm(トーマス農場)の間で激しい戦闘となった。

ウォーシントン農場
南軍は、さらにリケット師団の左翼に
John B. Gordon(ジョン・B・ゴードン)少将の師団をぶつけた。圧倒的に数で劣る北軍はたまらず、ボルティモアに向かって退却を始めた。

戦闘の激しかった場所(林の向こうが南軍がモノカシー川を渡った場所)
戦いは南軍の勝利であったが、アーリーはここで1日費やしてしまった。翌日、南軍はワシントンに向けて進軍し、ワシントン防衛網の一つ
Fort Stevens(スティーブンス砦)の前に到着した。しかし、そこには、1日の差でライト少将の第6兵団が到着しており、北軍と南軍との力関係は逆転してしまった。翌日、アーリーは、スティーブンス砦を攻撃するが、堅固な防御を前に、これを落とすことは不可能と判断し、兵を引き揚げた。このとき、リンカーンがスティーブンス砦に状況視察に来て、砲台に登り、南軍の様子を見ようとしたところ、南軍の狙撃兵から攻撃を受け、隣に立っていた医務官に当たり死亡してしまった。その場に居合わせこの様子を見た若きOliver Wendell Holmes, Jr(オリバー・ウェンデル・ホルムズ・ジュニア)がリンカーンに向かって「ばかやろう、頭を下げろ」と言ったという話が残っている。ホルムズは、後に最高裁判事として活躍する。また、対峙する南軍のブレッキンリッジ少将は、1860年の大統領選挙で南部民主党の候補としてリンカーンと争った人物で、大統領選挙の対立候補が戦場で対峙した唯一の例となったという。これも後日談だが、モノカシーで北軍を率いたワラスは、後に小説ベンハーでベストセラー作家となる。
1日の差でワシントン攻略を逃したアーリーは、ライト師団の追撃を振り切り、シェナンドア・ヴァレーに引き揚げるが、グラントはアーリー追討のため、さらに
Philip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将に4万の兵を与えて、Army of the Shenandoah(シェナンドア川軍)を組織させ、シェナンドア・ヴァレーに向かわせた。そしてアーリーとシェリダンは、シェナンドア・ヴァレーでまみえ、
Ceder Creek(セダー・クリーク)で最後の決戦に挑むこととなる。
(国立公園局のHP)


メリーランド州のボルティモアの郊外に広い農園に囲まれたお屋敷が立っている。ここはHampton National Historic Site(ハンプトン国立史跡)と呼ばれ、この屋敷の持ち主であったRidgley(リッグレー)家6代の歴史を通して、アメリカ上流社会の暮らしぶりの変遷を今日に伝えている。
物語は、Charles Ridgley(チャールズ・リッグレー)大佐がNorthampton(ノーザンプトン)に1,500エーカー(600ha)の土地を購入したことから始まる。彼は移民3代目で、土地取引や商業で財をなし、郡の裁判官や民兵の仕官を務めるなど、地元の名士であった。後にメリーランド州下院議員も務めた。1760年に、彼は、この1,500エーカーの土地を息子のチャールズ・リッグレー・ジュニア大尉に譲り、二人の息子チャールズ、ジョンとともにGunpowder River(ガンパウダー川)のほとりで製鉄所を始めた。この製鉄所は独立戦争の際にアメリカ軍や私掠船に大砲、弾丸、キャンプ用のやかんなどを供給し、アメリカの独立を助けるとともに、リッジレー家の財産拡大に寄与した。チャールズ・ジュニアは、この財で没収された王党派の土地を財産に加えていった。彼の土地は、24,000エーカー(97平方キロ)にまで膨らんだ。彼は、ノーザンプトンの土地に大きな屋敷の建設を計画した。屋敷はハンプトンと名付けられ、7年をかけて1790年に完成した。33の部屋からなるこの屋敷は、当時アメリカで最も大きな屋敷と言われた。1階のホールは、51フィート(15m)×21フィート(6m)あり、50人のディナーが可能であったという。300人規模のパーティーが頻繁に催された。

ハンプトン
この年、チャールズ・ジュニアは、子供がなかったため、甥の
Charles Carnan Ridgley(チャールズ・カーナン・リッグレー)に12,000エーカー(49平方キロ)の土地と製鉄所の権利の2/3を譲り渡した。チャールズ・カーナンは、元の名前がチャールズ・リッグレー・カーナンといったが、財産相続の条件に従い、チャールズ・カーナン・リッグレーに改名した。チャールズ・カーナンのときがリッグレー家の絶頂期で、土地は25,000エーカー(101平方キロ)まで増え、製鉄所のほか、農園、牧場、サラブレッドの飼育、炭鉱、大理石採掘、製粉所、貿易などを経営し、チャールズ・カーナンはメリーランド州知事にも選ばれた。1829年にチャールズ・カーナンが亡くなったときには、350の奴隷は解放され、ハンプトンの屋敷と4,500エーカー(1,800ha)の土地は長男のジョンが相続し、残りの財産は他の子供に分配された。ジョンは、妻のEliza(エリザ)とともに庭園造りに情熱を注いだという。また、ジョンは事業経営のため再び60人の奴隷を購入するが、1864年にメリーランド州では奴隷の保有が禁じられた。この結果、奴隷の労働力に依存した労働集約的なリッグレー家の事業は、次第に衰退していく。1867年に、資産はジョンの息子のチャールズに譲られ、1872年にチャールズが亡くなると、その資産はその息子のジョンに譲られ、1938年にはその息子のジョン・ジュニアに譲られた。この頃には財産の維持は困難となり、ジョン・ジュニアは相続した土地を利用して不動産開発することでしのいだが、それも続かず、1948年には屋敷を一般に公開し、ファーム・ハウスに移り住んだ。しかしながら、ハンプトンは、150年以上に渡り、1つの家族で引き継がれてきたため、調度品が散逸せず、多くの古い家具や食器類などが残されている。

ファーム・ハウス
(国立公園局のHP)


ヨーロッパでのナポレオン戦争にはるか離れたアメリカも巻き込まれた。まだ国力の伴わないアメリカはヨーロッパの戦争に巻き込まれないよう中立政策をとったが、イギリス、フランスともにこれを無視し、米国商船を拿捕した。
マディソン大統領は、いずれかの国が中立を保障してくれるのであれば、相手国との貿易を断ち切るとの手段に出て、損害を減らそうとした。フランスがアメリカの中立の保障を約束したため、アメリカとイギリスの間は急速に関係が悪化した。イギリスは、原住民を扇動してフロンティアの人々を攻撃させるとともに、次々とアメリカ商船を拿捕し、イギリス人乗組員(イギリス出身のアメリカ人を含む。)を徴発した。この結果、アメリカ国内にイギリスへの宣戦布告を求める声が高まり、1810年の中間選挙で大量の戦争推進派(War Hawks)が当選したことから、1812年6月18日、マディソンは押し切られてイギリスに戦線布告を行った。これがいわゆる英米戦争(War of 1812)の始まりである。
しかし、この戦争はアメリカにとってつまづきの連続であった。マディソンの志願兵募集の呼びかけに対して各州は州兵を出し惜しみ、ニューイングランド諸州は戦争でイギリスとの貿易機会を奪われることを恐れ、戦争に協力しなかった。アメリカの当初のカナダ侵略作戦は完全に失敗に終わった。
Oliver Perry(オリバー・ペリー)のエリー湖での勝利や
William Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン) によるBattle of the Thamse(テームズ川の戦い)でのイギリス・原住民連合軍に対する勝利などの成果はあったが、ヨーロッパでのフランスとの戦争が終焉を迎えるにつれ、イギリスはアメリカ大陸での作戦を本格化させ、ニューヨークとワシントンへの侵攻を目指した。Robert Ross(ロバート・ロス)陸軍少将とAlexander Cochrane(アレクサンダー・コクレン)海軍中将率いるイギリス陸軍・海軍連合5,000名がチェサピーク湾を北上し、8月24日のBattle of Blandensburg(ブランデンスバーグの戦い)で民兵中心のアメリカ軍は撃破され、大統領、大統領夫人、閣僚らはワシントンを脱出し、ワシントンは焼き討ちにあった。このときホワイトハウス、国会議事堂なども焼き討ちにあった。ワシントンを攻略したイギリス軍の次なる標的は、ボルティモアであった。
ボルティモアは、独立戦争従軍経験を持ち、地元選出の上院議員でもあった
Samuel Smith(サミュエル・スミス)少将の指揮の下、イギリス軍の侵攻を予期し、ヴァージニア、メリーランド、ペンシルベニアの民兵などからなる15,000の兵を配備し、万全の準備が進められていた。海上には、John Rodgers(ジョン・ロジャース)准将率いる4隻の艦船が配備された。防御の要となるFort McHenry(マクヘンリー砦)には、
George Amistead(ジョージ・アーミステッド)少佐以下1,000名ほどが詰めていた。マクヘンリー砦は、1802年に竣工した星型のボルティモア港防衛のために建設された砦で、地元出身の第3代戦争長官
James McHenry(ジェームズ・マクヘンリー)にその名は由来する。

アミステッドの像
1814年9月12日、イギリス軍5,000はNorth Point(ノース・ポイント)に上陸し、ボルティモアに向け進軍した。途中アメリカ軍守備隊と戦闘になり、ロバート・ロス少将は戦死し、代わってイギリス軍の指揮は、Arthur Brooke(アーサー・ブルック)大佐がとることとなった。ブルックは、アメリカ軍を撃退し、ボルティモアまで2マイル(3km)のところまで迫り、海軍の攻撃を待った。コクランは、13日未明、マクヘンリー砦に対して、19隻の艦船が
爆撃を開始した。爆撃は、25時間続くこととなる。1日の爆撃でもマクヘンリー砦はびくともしないことから、コクランは作戦を変え、その夜、海軍がボルティモアの西側に攻撃を仕掛ける間に、その隙にブルックが兵を率いてボルティモアの東から侵入することを期待した。しかし、悪天候の中、闇夜の上陸作戦は失敗に終わり、朝まで続けられた1,500から1,800発と推定される爆撃も効果がなく、イギリス軍はボルティモア攻略を諦め、兵を撤退させた。その朝、マクヘンリー砦には、銃声とともに、Yankee Doodle(ヤンキー・ドウードル)の曲(日本では「アルプス一万尺」)にのって、大きなアメリカ国旗が掲げられた。縦30フィート(9m)、横42フィート(13m)の
15個の星と15本のストライプがあしらわれたこの旗は、イギリス軍が遠くからでも見えるようにとボルティモアの旗作りの名人
Mary Pickersgill(メアリー・ピカーズギル)によって砦用に作られたものであった。この旗は、現在ワシントンのスミソニアン歴史博物館に保存されている。

マクヘンリー砦
この旗をボルティモア港に停泊中の艦船から感動を持って見守っていた若き弁護士がいた。彼は、アメリカ艦船に乗り、イギリス艦船に拿捕されていた友人の釈放を交渉していたところ、イギリス軍のボルティモア侵攻作戦が始まり、そのまま拘禁されていたのであった。彼の名前は、
Francis Scott Key(フランシス・スコット・キー)。キーは、その場で作詞を始め、16日ボルティモアに戻って詩を完成させた。その詩は当初
”Defence of Fort McHenry”(マクヘンリー砦の防衛)と呼ばれたが、やがて”To Anacreon In Heaven”(天国のアナクレオンへ)というイギリスの酒歌のメロディーに乗せて歌われるようになり、タイトルも”The Star-Sprangled Banner”(星条旗よ永遠なれ)に変わった。この歌は、1931年にアメリカの国歌となった。
マクヘンリー砦は、1848年にボルティモア湾の先にFort Carrollキャロル砦)ができるまでボルティモア防衛の要としての役割を果たした。南北戦争の際には、南軍兵士や南軍親派を拘留する拘置所として用いられ、囚人の中にはフランシス・スコット・キーの孫も含まれていたという。1917年から1923年までは陸軍病院として第1次世界大戦の退役軍人の治療が行われた。第2次世界大戦中には、コーストガードの訓練施設として用いられた。今日では、マクヘンリー砦は、National Monument(国立遺跡)に指定されるとともに、Historic Shrine(歴史聖堂)としての位置づけもなされている。英米戦争の主戦場にして、アメリカの国歌の生まれた場所は、多くのアメリカ人に愛されている。
(国立公園局のHP)


Clara Barton National Historic Site(クララ・バートン国立史跡)は、アメリカ赤十字の母
クララ・バートンの自宅兼オフィスを保存する国立史跡である。ポトマック川川岸の高台に建つこの家は、クララ・バートンが亡くなるまでの15年間を過ごした家である。
クララ・バートンは、1821年12月25日にマサチューセッツ州のOxford(オックスフォード)の町に奴隷解放論者の両親に5番目の末っ子として生れた。クララは、恥ずかしがりやの利発な子供で、学校には行かず、家庭で教育を受け、15歳のときから教壇に立った。クララが11歳のときに兄が大怪我をし、2年間看病をしたのが、南北戦争前の唯一の看護経験であった。1850年にいったん教師を辞め、1年間ニューヨークの学校で学び直した。1852年からニュージャージーの私立学校で再び教鞭をとったが、多くの子供が学費を払えないため、学校に行けないことを知ると、無料で学ぶことができる学校を始めた。
1855年からは、ワシントンの米国特許庁で働いていたが、1861年に地元マサチューセッツの連隊に医療物資の配布を始めたのがきっかけで、翌年には軍医総監から特別の許可を得て、南北戦争に従事する兵士の看護を行うようになった。そして兵士とともに、
第2次マナサス、
アンティータム、
フレデリックスバーグ、ウィルダネス、スポッツィルベニアの戦場で看護活動を行った。アンティータムでは、倒れた兵士に水を飲ませようとしたところ、銃弾がクララの裾を貫通し、助け起こした兵士が被弾して即死したという危機一髪の経験もしている。
南北戦争が終了すると、今度はジョージア州の
アンダーソンビル収容所で亡くなった身元不明の兵士の身元割り出しの作業を手伝い始め、さらにはこれを南北戦争中に行方不明となった兵士の身元の確認作業に拡大した。南北戦争中から働きづめであったクララは、健康を害し、ヨーロッパに転地療養に赴いた。ここでクララの運命はまた変わる。1870年に普仏戦争が勃発し、救済活動に参加するうちに、国際赤十字に出会った。
アメリカに帰国し、さらに療養の後、健康を回復してからは、クララは赤十字の活動を米国政府に認めさせる運動を開始した。米国政府は、南北戦争のような大きな戦争を経験したばかりであったため、戦場で中立的な立場から兵士の看護に当たる赤十字のような組織は不要であるとの立場をとった。このため、クララの啓蒙活動は困難を極めたが、クララは赤十字のような組織があれば自然災害時の救済活動にも役に立つとの議論で米国政府を説得し、1881年に
John D. Rockefeller(ジョン・D・ロックフェラー)の多額の寄付をもとに、ようやくアメリカ赤十字が誕生し、クララは初代会長に就任した。同年の9月にはミシガン州の山火事により5,00人が家を失うという災害が生じ、アメリカ赤十字は早速救済活動を始めた。自然災害に赤十字が救済活動を行うというクララの考え方は、逆に1884年に国際赤十字に取り入れられることとなった。1889年のペンシルベニア州の
ジョンズタウンの大洪水の際にも、アメリカ赤十字は救済活動に大活躍をした。1898年には、米西戦争が勃発し、アメリカ赤十字はキューバの戦場に赴いた。また、クララは、黒人の権利向上や女性の参政権の獲得にも力を入れた。
クララは、1904年にアメリカ赤十字会長を退くが、1905年にはNational First Aid Association of America(全国アメリカ応急手当協会)を設立し、名誉会長に就任し、応急手当法と救急箱の普及に尽力した。現在どの過程にもある救急箱は、クララの発明によるものである。1912年4月12日に、90歳で亡くなるまで、救済活動に力を尽くした。
クララ・バートンの邸宅は、1891年にグレンエコーを開発したボルツリー兄弟が彼女のために建てた家である。クララは、この家を当初アメリカ赤十字の救援物資をしまっておく倉庫として使用した。1897年に、クララはこの家に越して来て、事務室兼自宅にリフォームをした。この家は、1904年にクララがアメリカ赤十字会長を退くまで、アメリカ赤十字の本社の機能を果たした。クララがこの家に移り住んでからも、救援物資用の倉庫としても使用し続けたため、この家には至るところに、日本で言うところの押入れがある。そしてあちこちの押入れに、毛布、医薬品、寝具、衣服、缶詰、金槌、釘、鍬、種子などが所狭しと詰まっていたという。いつもスタッフやボランティアが出入りし、彼らの多くは仮設ベッドで寝泊りをしていたという。この邸宅は、公私の区別なく、救済活動に一生を捧げた彼女の生活が見てとれる。
(国立公園局のHP)


メリーランド州の大西洋岸に長さ37マイル(59km)の細長い砂丘の島が浮かんでいる。島の名前はAssateague Island(アサティーグ島)。この島は、海面の上昇あるいは沖合いの堆積物が打ち寄せられてできた堡礁島の一種である。堡礁島は、メイン州からフロリダ州、そしてテキサス州のメキシコ湾沿岸にかけて、ところどころで見られるが、その細長い姿を特徴とする。波と風にさらされ、常に形が変化し続ける島である。アサティーグ島も例外ではなく、大西洋の波と風に洗われながら、徐々に西側に移っている。周囲の浅い海は、かつては航海の障害となった場所であるが、一直線に伸びた砂浜の海岸線のほか、砂丘には海岸近くからたけの低い植物から松林までが生え、大西洋と反対側は静かな海のほか、海沼が広がり、
ミヤコドリ、ハマシギ、
フエチドリやアオサギ、ユキコサギなどが集まってくる多様な生態系が見られる場所でもある。
アサティーグ島を有名にしているのは、この島に住む野生の馬である。かつては飼育されていた馬が野生化したもので、300年に渡り、この島に住み続けている。一説によれば、沖合いで難破した船に積載されていた馬が流れ着いてこの島で住みはじめたということだが、本土での家畜の飼育には税金の支払いが必要であったため、税金を逃れるために、アサティーグ島に移した馬が野生化したものとの説が有力である。
この島の馬は、砂地や沼地に生える塩水でも生息するたけの短い草を食みながら、生息しており、長い年月の間にこの島での生活に適応するため、ポニーのような大きさになっている。ポニーのように見えるが、れっきとした大人の馬である。砂丘の窪地にたまった真水を飲み生活しているが、食生活の塩気が多いため、通常の馬の2倍は水を飲んでいる。このため、やや水ぶくれをした感じのどっしりとした体格の馬が多い。

アサティーグ島の馬は、メリーランド州側は国立公園局が管理しているが、ヴァージニア州側は、実はChincoteague Volunteer Fire Company(チンコティーグ消防団)が所有している。島の生態系に与える影響を考慮し、メリーランド側、ヴァージニア側ともに、馬の群れはそれぞれ150匹以下に抑えられている。ヴァージニア側の馬は、毎年7月の最終水曜日にせりのため、Chincoteage Island(チンコティーグ島)まで一斉に泳いで渡るのが有名となっており、多くの観光客を集めている。このイベントについては、Marquerite Henry(マークライト・ヘンリー)により、実在した馬Misty(ミスティー)を下に、
Misty of Chincoteague (シンコティーグのミスティー)という児童小説に仕立てられ、一躍全米で有名になったものである。(このイベントのスケジュールは、
ここを参照。)
夏には海水浴も可能であり、天気のよい日に海水浴を兼ねてバードウォッチングとホースウォッチングをしてみてはいかが。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


アメリカでは大都市の近郊に多くの緑が残っているが、ワシントンDCの郊外にも1,100エーカー(440ha)の緑の森が残っている。ここは、Greenbelt Park(グリーンベルト公園)。ワシントンDCからわずか12マイル(19km)のところにある緑の森である。グリーンベルト公園は、国立公園ユニットの一つであるが、驚くような風景が広がっているわけではない。首都の近くにある貴重なまとまった緑を市民の憩いの場所として提供しているところである。

1930年代に、フランクリン・ルーズベルト大統領のニュー・ディール政策の一環として、イギリスのガーデン・シティーを真似て、緑の森とオープンスペースに囲まれた大都市近郊の住宅開発が行われた。このモデル都市の一つに、メリーランドのグリーンベルトが選ばれた。現在グリーンベルト公園になっている森がグリーンベルトとして適切であると評価されたためである。
グリーンベルト公園は、ワシントンとボルティモアを結ぶパークウェイであるBaltimore-Washington Parkway(ボルティモア=ワシントン・パークウェイ)を建設する際に、Public Housing Authority(公園住宅公社)から国立公園局によって道路用敷地と合わせて購入された。ボルティモア=ワシントン・パークウェイも朝夕の通勤道路として利用されているが、そのワシントンDCからメリーランド州のFort Meade(フォート・ミード)までの18マイル(29km)ほどの区間は、国立公園局によって管理されている。

ボルティモア=ワシントン・パークウェイ
グリーンベルト公園は、主にキャンプ、ピクニック、ハイキングの場所として利用されている。園内のトレールは、ハイキング用、自転車用、乗馬用の3種類が用意されている。ピクニックの場所は公園入り口近く、キャンプの場所は公園奥に分けられている。グリーンベルト公園のキャンプ地は、ワシントンDCから最も近いキャンプ地かもしれない。グリーンベルト公園のことをBackyard Park(裏庭の公園)と呼ぶのもうなずける気がする。

公園内のトレール
(国立公園局のHP)


Potomac Heritage National Scenic Trail(ポトマック・ヘリテッジ国立景観トレール)は、その全てがハイキング・トレールというユニークな国立公園ユニットである。
ポトマック川沿いと
Allegheny Mountains(アレゲニー山脈)越えを組み合わせたトレールでワシントンDCとピッツバーグを結ぶ総延長425マイル(680km)以上 の壮大なものとなっている。単独のトレールではなく、いくつかのトレールが組み合わさって全体でポトマック・ヘリテッジ国立景観トレールを構成している。
最初の区間は、ピッツバーグから南東にアレゲニー山脈を乗り越えてメリーランド州のCumberland(カンバーランド)に到る150マイル(240km)の
Great Allegheny Passage(グレート・アレゲニー・パッセージ)と呼ばれるルートである。このうち130マイル(208km)が整備されている。アップ・ダウンの起伏に富んだトレールである。これにはLaurel Highlands Hiking Trail(ローレル高地ハイキング・トレール)と呼ばれる北東から南西に向けた70マイル(112km)のブランチ・トレールが接続している。
カンバーランドからは、
チェサピーク&オハイオ運河の引き舟道がトレールとなる。この区間は、ポトマック川に沿って比較的平坦な道が運河に沿ってワシントンDCのジョージタウンまで184.5マイル(295km)続くこととなる。ワシントンDCに近づくにつれてこの道は、サイクリスト、ジョガー、犬の散歩をする人などでにぎわってくる。

ポトマック川の反対側には
ジョージ・ワシントン記念パークウェイに沿って2つのトレール走っている。これらのトレールもポトマック・ヘリテッジ国立景観トレールを構成している。1つ目は、ワシントンの環状道路であるインターステート495号線がポトマック川を渡るAmerican Legion Memorail Bridge(アメリカン・リージョン記念橋)からセオドア・ルーズベルト島に到る10マイル(16km)のルートである。このルートはPotomac Heritage Trail(ポトマック・ヘリテッジ・トレール)と呼ばれ、ヴァージニア側のポトマック川の切り立った崖の下を通るルートなので、チェサピーク&オハイオ運河の側と比べると、静かな本格的なトレールとなっている。セオドア・ルーズベルト島からマウント・ヴァーノンに到る18.5マイル(30km)のマウント・ヴァーノン・トレールもポトマック・ヘリテッジ国立景観トレールの一部を構成している。こちらはサイクリスト、ジョガーなどで賑わっている。

ポトマック・ヘリテッジ・トレール
ポトマック・ヘリテッジ国立景観トレールは開発中のところもあり、これらから総延長は伸びていく発展途上の国立公園ユニットである。さすがにこれを全部走破するのは困難なので、山道が好きな人はペンシルベニア州のコースを、平坦な道が好きな人はメリーランドのコースを歩くとよいだろう。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)