America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~ usnp.exblog.jp
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私がこれまでに訪れたアメリカの国立公園ユニット390+αを少しずつ紹介します。
by shiraok4563

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カテゴリ:Virginia
  • Fort Monroe National Monument
    [ 2011-11-25 04:28 ]
  • Wolf Trap National Park for the Performing Arts
    [ 2007-12-18 10:04 ]
  • Prince William Forest Park
    [ 2007-11-24 08:43 ]
  • Appomattox Court House National Historical Park
    [ 2007-11-23 20:30 ]
  • Petersburg National Battlefield
    [ 2007-11-17 23:15 ]
  • Richmond National Battlefield Park
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  • Maggie L. Walker National Historic Site
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  • Cedar Creek & Belle Grove National Historical Park
    [ 2007-11-08 11:58 ]
  • Manassas National Battlefield Park
    [ 2007-10-18 03:51 ]
  • Colonial National Historical Park
    [ 2007-10-17 08:10 ]
Fort Monroe National Monument

バージニア州のバージニア半島の先端に、Old Point Comfortと呼ばれる岬がある。ここは、バージニア州内陸部までの水運を提供するジェームズ川へのチェサピーク湾からの入り口に当たり、ヨーロッパ人が新大陸に現れた当初より戦略的に重要な場所として知られていた。この場所に築かれたFort Monroe(モンロー砦)は、19世紀から今世紀初頭まで200年にわたり軍事基地として機能し、2011年11月に大統領令によりFort Monroe National Monument(モンロー砦国立遺跡)として国立公園ユニットに加えられた。

この場所の戦略的重要性に最初に気がついたのは、1607年にイギリス初の新大陸植民地Jamestown(ジェームズタウン)を築いた人々であった。彼らはチェサピーク湾からジェームズ川に入る入り口に位置するこの岬を発見時の穏やかな海面に因みCape Comfort(安らぎ岬)と名付けたが、この場所はジェームズタウンからの海への出入りをコントロールできる場所であるため、その戦略的重要性から1609年にはFort Algernourne(アルジャーノン砦)を築き、警備を駐屯させた。アルジャーノン砦は1612年に焼失してしまうが、その後もこの場所には、Old Point Comfort Fort(1632-1667)、Fort George(1728-1749)と軍事拠点が造られた。1619年には30名のアフリカ人を乗せたオランダ商船が現れ、物資と交換が行われた。このとき上陸したアフリカ人が新大陸イギリス領での奴隷の始まりと言われている。1802年には今も現存するOld Point Comfort Lighthouse(オールド・ポイント・コンフォート灯台)が建てられた。この灯台はチェサピーク湾で最も古い灯台となっている。

アルジャーノン砦があった場所

オールド・ポイント・コンフォート灯台

英米戦争により沿岸防衛の重要性を知らされたJames Monroe(ジェームズ・モンロー)大統領は、全国の沿岸部の戦略的重要地点に砦を築くことを決定した。Old Point Comfortもその対象に選ばれ、1819年に堅固な砦建設が着手された。ナポレオンの秘書官も務めたフランス人技師Simon Bernard(サイモン・バーナード)の設計によるこの砦は、15年の歳月をかけて1834年に完成した。砦は、モンロー大統領の名前をとってモンロー砦と名づけられた。この間には、1828年に後に怪奇小説家として名をはせるEdgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポー)が陸軍砲兵曹長として駐屯している。また、後に南北戦争で南軍の総司令官を務める若きRobert E. Lee(ロバート・E・リー)も1831年から1834年にかけて陸軍工兵隊の現地副官(陸軍少尉)として建設を指揮している。1833年には通称Black Hawk War(ブラック・ホーク戦争)と呼ばれるイリノイ州で起きた原住民の反乱の指導者であったBlack Hawk(黒鷹)酋長がここで収監されている。Black Hawkをモンロー砦までエスコートしたのは、後の南部の大統領となるJefferson Davis(ジェファーソン・デービス)少尉であった。

当時リー夫妻が住んだ家

モンロー砦が最も歴史の表舞台に躍り出るのは、南北戦争のときである。モンロー砦は、南部の首都リッチモンドからジェームズ川を通ってチェサピーク湾に出るルートの出口を押さえる重要拠点であった。ヴァージニア州が連邦から分離すると、リンカーン大統領は、モンロー砦の兵力を増強し、南軍の手に落ちないようにした。モンロー砦は、南北戦争を通じて連邦軍の手にあり、南部への海からの物資補給を断つとともに、連邦軍の南部攻略作戦の前線基地の役割を果たすこととなった。とりわけ1862年のGeorge McClellan(ジョージ・マクレラン)将軍によるリッチモンド攻略作戦の侵攻基地となった。モンロー砦は、連邦軍の気球偵察部隊が置かれた場所としても知られている。

1861年5月、バージニア民兵Charles Mallory(チャールズ・マロリー)大佐の奴隷3名は南軍のために砲台建設に従事していたが、夜陰に乗じてモンロー砦に逃げ込んだ。当時の連邦法では、所有者が要請した場合、脱走奴隷は所有者に返還しなければならない義務があったが、モンロー砦の司令官であったBenjamin Butler(ベンジャミン・バトラー)少将は、南軍の兵站を奴隷が支えていることを認識し、バージニア州は既に連邦を離脱しているため、連邦法の適用はなく、逃亡奴隷は戦利品(contraband)として連邦軍のものとなるとして奴隷の返還を拒否した。この決定はバトラー少将の独断でなされたものであったが、逃亡奴隷受け入れの南軍弱体化に資する意義を認め、連邦政府、議会もこれを追認した。この結果、モンロー砦は、Freedom’s Fortress(事由の砦)と呼ばれるようになり、南北戦争終了までに1万人の奴隷が自由を求めて逃げ込んだという。

モンロー砦

戦後、南部の大統領であったジェファーソン・デービスは、リンカーン暗殺共謀容疑でモンロー砦に2年間身柄を拘束された。当初の5ヶ月は窓のない砲郭の一角の牢に収監され、過酷な生活を送った。保釈金の10万ドルは、奴隷解放運動家Horace Greeley(ホーラス・グリーリー)、鉄道王Cornelius Vanderbilt(コーネリウス・ヴァンダービルト)ら北部の人々によって用意されたという。

デービス収監の場所

1891年から1906年にかけて沿岸防衛強化のため、武器の近代化を踏まえ数々の砲台の整備が行われた。モンロー砦には、1907年から1946年まで陸軍のCoast Artillery School(沿岸砲術学校)が置かれ、1973年以降は陸軍のTraining and Doctrine Command(訓練教義司令部)が置かれたが、2005年に米軍基地再編の一環で廃止が決定された。

Gatewood(ゲートウッド)砲台

モンロー砦は400年の歴史が詰まった場所だが、国立公園ユニットとしての整備はまだこれからであり、今後の整備が期待される。

(国立公園局のHP)

Tags:#砦 
▲ by shiraok4563 | 2011-11-25 04:28 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Wolf Trap National Park for the Performing Arts

国立公園ユニットを回っていると、「ここも国立公園局が管理しているのか」と驚かされる意外な場所に行き当ることがある。Wolf Trap National Park for the Performing Arts(ウルフ・トラップ芸能国立公園)もそうである。ワシントンDC郊外にあるウルフ・トラップは、オペラ、ミュージカル、演劇、音楽コンサートなどに利用される野外演劇場で、夏場には比較的手ごろな値段で日替わりのように変わる様々な舞台芸術を楽しむことができる。ウルフ・トラップ芸能国立公園は、芸能をテーマにした全米唯一の国立公園ユニットである。(なお、1994年7月21日までは、ワシントンDCにあるJohn F. Kennedy Center for the Performing Arts(ジョン・F・ケネディー芸能センター(ケネディーセンター))も国立公園局の管理下にあった。)

ウルフ・トラップを語るときに欠かせないのが、Catherine Filene Shouse(キャサリン・ファイリーン・シャウス)の存在である。彼女が芸能文化の発展のために農場を寄付したことが、ウルフ・トラップの始まりであるためである。シャウスは、1896年にボストンに生まれ、聡明な女性で、女性で初めてハーバード大学教育大学院から修士号を授与されている。女性で初めて、民主党全国大会委員や連邦女性刑務所委員会議長に選ばれるなど、働く女性のパイオニア的存在であった。1930年にシャウスは、週末に子供たちがワシントンでの慌しい日々から逃れることができるよう、ウルフ・トラップに53エーカー(21ha)の農場を購入し、1956年までに彼女の所有する土地は168エーカー(68 ha)に膨らんだ。しかし、1960年代に入り、郊外の開発が進み、空港アクセス道路が彼女の敷地を横切ることが決まると、残された土地の豊かな自然を残したいと願うようになった。彼女はその頃芸術への関心も深く、National Symphony Orchestraへの募金活動なども行っていたことから、この土地を若い世代の芸能の発表の場として役立ててもらいたいと思い、その条件付で100エーカー(40ha)の土地を国立公園局に寄付した。この土地を利用して創られたのがウルフ・トラップ芸能国立公園である。

ここで催される芸能プログラムは、Wolf Trap Foundation(ウルフ・トラップ財団)が主催し、施設の維持・管理などを国立公園局が行っている。

メインの屋内/野外コンサートホールは、彼女の実家の名前をとってFilene Center(ファイリーン・センター)と名付けられている。室内4,000名、屋外3,000名を収容することができるこのホールには、夏には日替わりのように有名アーティストが訪れ、ミュージカル、オペラ、バレー、ダンス、クラッシック、ジャズ、ポップス、ロックなどのコンサートなどが催され、ワシントンDCの夏の風物詩となっている。また、子供向けのパフォーマンスは、Children's Theatre-in-the-Woods(森の中の子供劇場)で行われる。
ファイリーン・センター

あまり知られていないが、コンサート・ホールの裏には、ちょっとした森が広がっており、散歩に向いている。私たちもここで、Pileated Woodpecker(エボシクマゲラ)という名前の巨大なキツツキに出くわした。大都市近郊とはいえ、アメリカには豊かな自然が今なお残っている。

(国立公園局のHP)

▲ by shiraok4563 | 2007-12-18 10:04 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Prince William Forest Park

ワシントン・ダレス空港に着陸する前に飛行機から下を除くと、北ヴァージニアの森が辺り一面に広がり、その中を切り開いて宅地造成が進められている様子がよくわかる。初めてイギリス人が北ヴァージニアを訪れたとき、辺りはひたすら森が続いていたことが想像される。Prince William Forest(ウィリアム王子の森)は、全米でも有数の人口増加地域である北ヴァージニアに残された大きな森である。1万6千エーカー(65平方キロ)の森は、ポトマック川に注ぎ込むQuantico Creek(クワンティコ川)の源流が保全される場所ともなっている。
クワンティコ川南支流

アパラチア山脈の東に山並に並行してPiedmont Plateau(ピエドモント台地)が広がっている。この台地の東端に位置するのが、ウィリアム王子の森である。ヴァージニア植民地では、タバコ栽培が盛んとなり、タバコ栽培のため多くの原生林が伐採された。タバコ栽培は土壌を疲弊させ、18世紀の中頃までには、これらの土地は不毛の地と化してしまった。1898年にはクワンティコ川の辺で黄鉄鉱が発見され、Cabin Branch Pyrite Mine(キャビン・ブランチ黄鉄鉱採掘所)では1920年まで硫黄の採取が行われた。1930年代には、この付近はChopawamsic Recreation Demonstration Area(チョパワムシック・レクリエーション実証地域)に指定され、再植林活動が行われるとともに、キャンプを楽しめるようにCivilian Conservation Corps(市民環境保全部隊)によって道路、橋、丸太小屋などが整備された。また、この森には、第2次世界大戦中には、Office of Strategic Services(戦略諜報局)の訓練施設が置かれ、いわゆるスパイの養成が行われたという知られざる過去もある。戦後は、国立公園局に移管され、1948年に森のある郡の名前からウィリアム王子の森と改名された。
ウィリアム王子の森

現在では、ウィリアム王子の森は、キャンプ、ピクニック、ハイキング、サイクリングなどを楽しむ場所となっている。ここには、37マイル(59km)のトレール、21マイル(34km)の自転車道が整備されており、ちょっと自然を楽しむのによい場所となっている。また、かつてスパイが学んだキャビンでキャンプをすることもできる。ここでは、ゴミは持ち帰る方針がとられており、公園内にゴミかごはない。残すのは足跡のみを実践しよう。
自転車道

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)


Tags:#山・森林 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-24 08:43 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Appomattox Court House National Historical Park

ピーターズバーグから撤退した南軍は、食糧補給のため、Amelia Court House(アメリア・コートハウス)に向かった。1865年4月4日、アメリア・コートハウスで待っているはずの食糧はなかった。リーは、ここで休息をとることとし、食糧調達に付近に出向かせたが、得られる食糧はほとんどなかった。さらに西のFarmville(ファームビル)に食糧を手配するよう調整し、南軍はさらに西に向かった。しかし、翌6日には、Sayler's Creek(セイラー川)付近でRichard Ewell(リチャード・イーウェル)中将らの部隊が北軍のPhilip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将率いる騎兵隊に追いつかれて本隊から引き離され、降伏を余儀なくされてしまった。さらに4月7日は、北軍のAndrew Humphreys(アンドリュー・ハンフリーズ)少将の兵団が南軍のしんがり部隊に追いつき、戦闘状態となり、ファームビルで食糧を調達する機会を逸してしまい、南軍はさらに次に食糧の待つAppomattox Station(アポマトックス駅)に向けて西行を続けざるをえなかった。この夜、グラントからリーの許に降伏を勧める書状が届くが、リーは降伏を拒否しつつも降伏の条件を探る返事を返した。

しかし、アポマトックス駅の食糧は、8日、George Armstrong Custer(ジョージ・アームストロング・カスター)少将の騎兵隊に焼かれてしまう。9日未明、リーは、アポマトックス駅よりさらに西のLynchburg(リンチバーグ)の食糧を目指すこととし、アポマトックスに展開する北軍の騎兵隊を突破するため、John B. Gordon(ジョン・B・ゴードン)少将の部隊を派遣した。しかし、シェリダンの騎兵隊は、Edward Ord(エドワード・オード)少将の兵団やCharles Griffin(チャールズ・グリフィン)少将の兵団の支援を受け、ゴードンの部隊は返り討ちに遭ってしまう。また、北からもハンフリーズの兵団が南軍のJames Longstreet(ジェームズ・ロングストリート)中将の兵団に襲い掛かろうとしていた。西からも、北からも攻撃され、東からは北軍本隊が詰めより、三方を囲まれた南軍にとる選択肢は既になくなっていた。(この間の両軍の動きについては、ここを参照。)
アポマトックス裁判所

リーは降伏を決意し、グラントと会うことを決心した。二人の面会の場所は、Wilmer Mclean(ウィルマー・マクリーン)の家と決められた。マクリーンの家にリーは正式の軍服を着てグラントを待った。グラントは一兵卒の服で現れた。二人は最初米墨戦争の思い出話しをかわし、リーに促されて、グラントは本題である降伏条件を切り出した。グラントの条件は、武器を放棄することを条件に、南軍の将校・兵士を拘束しないこととし、個人の馬は持ち帰ることを認めるという緩やかなものであった。リーは、グラントの寛容な条件が兵士によい影響を与え、双方の和解に寄与するだろうと述べた。また、リーが南軍兵士はここ数日ほとんど食糧を口にしていないことに触れると、グラントは南軍兵士への食糧の供給を約束した。二人の会談が終了し、リーが南軍部隊に去っていくと、北軍兵士から歓喜の声が上がったが、グラントは、南軍の転落を喜ぶべきではないとしてすぐさまこれを制したという。リーは生涯グラントが南軍降伏の際に示した寛容な態度を感謝し、グラントの批判をする者がいれば厳しく戒めたという。
マクリーンの家

リーの降伏の後、各地に残された南軍は続々と降伏した。リーのアポマトックスでの降伏は、4年の歳月にわたり、60万人以上の死者を出したアメリカ最大の戦争、南北戦争の事実上の終結となった。










降伏協議の行われた場所

ウィルマー・マクリーンは、アポマトックスに引っ越してくる前は、マナサスに住んでいた。マナサスの彼の自宅は、南軍の司令官P.G.T. Beauregard(PGTブーリガード)将軍の本部に徴用された。マナサスの戦いでの惨禍を目の当たりにして、戦争を避けるために、アポマトックスに引っ越してきたのであった。このため、南北戦争は、マクリーンの庭先で始まり、マクリーンの家で終わったと言われている。不思議な運命のめぐり合わせである。

Appomattox Court House National Historical Park(アポマトックス裁判所国立歴史公園)には、マクリーンの家や南軍兵士の仮釈放の証明書が発行されたClover Hill Tavern(クローバー・ヒル・タバーン)をはじめとして、南軍降伏当時の歴史的な建物が保存されている。南北戦争に興味のある方には、ここはゲチスバーグとともに、訪問を欠かせない場所である。
クローバー・ヒル・タバーン

(国立公園局のHP)

Tags:#南北戦争 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-23 20:30 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Petersburg National Battlefield

ヴァージニア州Richmond(リッチモンド)の南に位置するPetersburg(ピーターズバーグ)は、南北戦争当時には、Appomattox River(アポマトックス川)を活用した水運のほか、5つの鉄道と主要道路が交差し、南部の一大物資流通センターとなっていた。この都市を北軍は、37マイル(59km)に及ぶ塹壕を築き、292日間包囲した。Petersburg National Battlefield(ピーターズバーグ国立戦場跡)は、第1次世界大戦の先駆けとも言われる塹壕戦の跡を保存している。

(1)初動の北軍の失敗

グラントの北軍がJames River(ジェームズ川)に向かって移動しているとの情報に接して、グラントの意図を見抜き、リーは焦った。リッチモンド防衛のため、ピーターズバーグにはP.G.T. Beauregard(P.G.T.ビューリガード)大将の下に最小限の2,500の兵しか残していなかったためである。6月14日には、William Smith(ウィリアム・スミス)少将の兵団がピーターズバーグの郊外に到着したが、ピーターズバーグ周辺が塹壕で固められているのを見て、さらに部隊が到着するのを待つこととした。しかし、南軍の塹壕の中には、わずかの兵士しかいなかった。翌日、スミスは16,000の兵で攻撃を開始し、午前中に難なく第1列の塹壕を落とし、偵察を行い、夕方ビューリガードの部隊と激突した。南軍は次の塹壕に後退したが、スミスは、Winfield Scott(ウィンフィールド・スコット)少将の兵団の到着を待つことにした。しかし、16日以降は、南軍の兵士もリッチモンドから到着し、前線部隊の後方によい強固な塹壕を築き始めていた。G.K. Warren(G.K.ウォーレン)少将やBurnside Ambrose(バーンサイド・アンブローズ)少将の兵団が到着し、南軍の塹壕に攻撃をしかける頃には、南軍は後方のより強固な塹壕に移り、南軍の迎撃体制も整っていた。北軍は、初期の行動が鈍かったために、ピーターズバーグを陥落させる機会を失ってしまった。(このときの両軍の配置は、ここを参照。)
包囲戦の塹壕


(2)ウェルドン&ピーターズバーグ鉄道を巡る攻防(1)

しかし、北軍は6月21日にはピーターズバーグに南から乗り入れるWeldon & Petersburg Railroad(ウェルドン&ピーターズバーグ鉄道)の奪取を目指してDavid Birney(デービッド・バーニー)少将の兵団を派遣した。南軍は、翌日A.P. Hill(A.P.ヒル)中将配下のWilliam Mahone(ウィリアム・マホーネ)准将とCadmus Wilcox(カドマス・ウィルコックス)少将の師団を派遣し、Jerusalem Plank Road(エルサレム・プランク道路)まで北軍を押し戻した。ここで両軍がにらみ合いとなり、両軍の塹壕がさらに延伸された。(このときの両軍の配置は、ここを参照。)

(3)トンネル爆破作戦

北軍の騎兵隊がピーターズバーグにアクセスする鉄道の破壊工作に走る一方、南軍の騎兵隊がこれを追撃するというイタチごっこが繰り返されるほかは、両軍ともに塹壕に立てこもり、こう着状態となった。これを打破する手段として、バーンサイド配下のペンシルベニア第48歩兵団の石炭鉱夫たちが敵陣までトンネルを掘って南軍陣地を下から爆破し、その隙に乗じて敵陣に乗り込むという奇策が実施されることとなった。511フィート(156m)のトンネルが密かに掘り進められ、7月30日作戦は決行された。朝4時45分、巨大な爆音とともに、土砂が吹っ飛び、巨大なクレーターが出現した。トンネルを通って敵陣に乗り込む先遣隊には、黒人部隊が予定されていたが、前日になり、George Meade(ジョージ・ミード)司令官の横槍が入り、他の白人部隊と交代させられた。しかし、この部隊はそのための訓練も受けていなければ、敵陣に乗り込んだ後の作戦について明確な指示を与えられていなかったため、クレーターに到着すると異様な風景に呆然と立ち尽くすのみであった。南軍もすぐさまショックから立ち直り、マホーエ師団が迎撃を始めた。クレーターの中は低地である上、逃げ場がなく、しかも戻ろうにも次々とトンネルを伝って兵士が送り込まれてくるため、容易に狙撃の対象となってしまった。北軍の撤退命令が現場に伝わるまでには、5,000人を超える死傷者が出ていた。この作戦は今日まで北軍最悪の失敗と言われている。
クレーター跡

(4)ウェルドン&ピーターズバーグ鉄道を巡る攻防(2)

グラントは、リッチモンドに部隊を派遣し、南軍がこれに対応した隙に、8月18日、ウェルドン&ピーターズバーグ鉄道を破壊するため、Globe Tavern(グローブ・タバーン)付近へウォーレンの部隊を差し向けた。南軍もビューリガードとHenry Heth(ヘンリー・ヘス)少将の部隊を差し向けた。両軍は塹壕を築いてにらみ合いとなった。翌日ヘスの師団が北から、援軍のマホーエの師団が東から攻撃し、一時北軍を鉄道から追い払ったが、北軍は応援を得て押し戻した。両者再び塹壕に立てこもる形となり、21日のA.P.ヒル自ら率いた攻撃も功を奏さず、結果として北軍の塹壕はさらに西に伸び、北軍にウェルドン&ピーターズバーグ鉄道は押えられてしまった。南軍は、その南で一旦貨車から貨物を降ろし、ワゴンで回り道をして、ピーターズバーグに南西から入り込むBoydton Plank Road(ボイドトン・プランク道路)によりピーターズバーグに持ち込まなければならなくなった。次の両軍の焦点は、ボイドトン・プランク道路になった。(このときの両群の配置は、ここを参照。)

(5)ボイドトン・プランク道路を巡る攻防

グラントは、9月に再びリッチモンド、ピーターズバーグ両面作戦を展開する。今度は、バトラーの部隊がリッチモンドで攻撃を仕掛ける一方で、ウォーレンとJohn Parke(ジョン・パーク)少将配下の師団を派遣して、ボイドトン・プランク道路の奪取に向かわせた。9月30日、北軍の攻撃により、Peeble Farm(ピーブル農場)付近の南軍の前線はボイドトン・プランク道路付近まで押されたが、A.P. ヒルの部隊はさらにピーターズバーグより援軍を得て、ピーブル農場とボイドトン・プランク道路の中間点まで押し返した。翌日、A.P.ヒルは、ヘスの師団を北軍右翼後方に回らせ、北軍を挟み撃ちにしようとするが、ウォーレンに気付かれ、ヘスの師団は撃退されて攻撃は失敗に終わり、ボイドトン・プランク道路手前の塹壕に後退した。この結果、南北両軍の塹壕は、さらに西へと伸びた。グラントは、あきらめず翌月同じ作戦を展開した。グラントは、ハンコックに3師団を与えて、ボイドトン・プランク道路の奪取を命じた。10月27日、ハンコックは、一時ボイドトン・プランク道路の奪取に成功するが、ヘスの師団による反撃に持ちこたえられず、再び南軍に手放さざるをえなくなった。ボイドトン・プランク道路を押えたいグラントは、1865年2月5日、ウォーレンとAndrew Humphreys(アンドリュー・ハンフリーズ)少将の兵団に南軍と対峙させる隙に、騎兵隊がボイドトン・プランク道路のワゴンを襲う作戦に出た。リーは、A.P.ヒルとJohn B. Gordon(ジョン・B・ゴードン)少将の兵団を派遣し、ボイドトン・プランク道路を死守させるべく攻勢に出た。しかし、北軍は塹壕に立て篭もり、三度の攻撃を跳ね返した。6日、南軍は北と西からの攻撃に出たが、北軍も援軍を派遣し、踏みとどまり、7日には、5日のポジションまで押し返した。

(6)南軍最後の攻勢

シェナンドア・ヴァレーでの南軍の敗退は、リーのオプションを狭めた。座して最後を待つよりも、ピーターズバーグを脱出して、ノースカロライナのJoseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)将軍の軍に合流する手立てが必要であった。ゴードン少将は、南軍の陣営に最も近いFort Stedman(ステッドマン砦)を夜明けに総攻撃し、北軍が驚き、包囲網が緩んだ隙に、物資を奪い、ピーターズバーグを脱出する作戦を上奏し、承認された。3月25日未明に、南軍の攻撃が開始され、ステッドマン砦は難なく南軍の手に落ちたが、物資を探すうちに、北軍のJohn Hartranft(ジョン・ハートランフト)准将らの部隊がギャップを埋め、南軍の進撃を食い止めた。ハートランフトは、重火器でステッドマン砦を叩き、奇襲して奪還した。南軍は3,000の大きな犠牲を払ったが、効果を上げることができず、これが最後の攻勢となった。
ステッドマン砦

(7)補給ルートの遮断

グラントは、3月29日、すぐにシェナンドア・ヴァレーから復帰したPhilip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将の騎兵隊とウォーレンの兵団を西に派遣し、ボイドトン・プランク道路の奪取を命じた。南軍はLewis Farm(ルイス農場)近くで応戦するが、度重なる北軍の攻撃に持ちこたえられず、White Oak Road(ホワイト・オーク道路)の塹壕まで退却した。この結果、ついにボイドトン・プランク道路は、北軍のものとなり、南軍の補給ルートはその西にあるSouth Side Railroad(サウス・サイド鉄道)のみとなった。

リーは、George Pickett(ジョージ・ピケット)少将の師団を応援に派遣し、シェリダンにサウス・サイド鉄道に近づかせないように牽制させた。31日、ウォーレンはホワイト・オーク道路に立て篭もる南軍に攻撃に向かった。これをBushrod Johnson(ブシュロッド・ジョンソン)少将の師団が迎え撃ち、ウォーレンの兵団を押し返した。そこにJoshua Chamberlain(ジョシュア・チェンバレン)少将の師団が応援に駆けつけ、南軍を再びホワイト・オーク道路まで押し戻した。この結果、ピケットは、シェリダンを南に押し返したもの、孤立してしまい、南軍の他の部隊の右翼にあるFive Forks(ファイブ・フォークス)まで引き下がらざるをえなくなった。ピケットは、リーよりファイブ・フォークスの絶対死守を命じられた。しかし、怒涛の北軍の攻撃の前に戦線が延びきった南軍には対抗する余力がもはや残っていなかった。

4月1日、夕刻、ウォーレンの兵団は南軍の左翼に攻撃をかけた。そして素早く後ろに回りこみ、退路となるFord’s Road(フォードの道路)をさえぎった。同時に正面と右翼にも攻撃を浴びせた。三方を囲まれた南軍は持ちこたえることができず、北西へ退却することしかできなかった。この戦いでリーの息子のFitzhugh Lee(フィッツー・リー)少将は、騎兵隊とともにしんがりを務め、度重なるGeorge Custer(ジョージ・カスター)少将の攻撃を食い止めた。しかし、南軍の防御ラインの崩壊により、サウス・サイド鉄道も北軍の手に落ちてしまった。ファイブ・フォークスでの敗退を知ったリーは、ジェファーソン・デービス大統領にリッチモンドを脱出するよう進言した。
ファイブ・フォークス

(8)ピーターズバーグ・リッチモンドの陥落

翌4月2日、グラントは、南軍に対する総攻撃を命じた。戦線が延びきり、十分な兵士の配置ができない南軍は、総崩れとなった。この日、南軍は、また大きな犠牲を払った。南部の崩壊を生きて見たくはないと語っていたA.P.ヒルは、戦闘の最前線に討って出て戦死した。なお、トーマス・ジャクソン将軍は死ぬ間際”Order A.P. Hill to prepare for action!”(A.P.ヒルに行動準備を命じよ)とうわ言で叫び、リー将軍も死ぬ間際うわ言で”Tell Hill, he must come up.”(ヒル将軍に上がってくるよう伝えろ)とうめいたと言われている。多くの南軍兵士は、その夜、唯一の脱出路北西を抜けて、ピーターズバーグを脱出した。4月3日に首都リッチモンドも北軍の手に落ちた。もはや、リーには、ジョセフ・ジョンストンの軍に合流することしか、手立てが残されていなかった。南軍は、Amelia Court House(アメリア・コートハウス)で待つはずの食料を目指した。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

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▲ by shiraok4563 | 2007-11-17 23:15 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Richmond National Battlefield Park

ヴァージニア州Richmond(リッチモンド)は、南部の首都であったため、南北戦争の当初からここを攻め落とすことは、北軍の1つの目標であった。南北戦争においては、大きく分けて2度、リッチモンドを包囲する戦いが行われた。Richmond National Battlefield Park(リッチモンド国立戦場跡公園)は、これらの戦いの跡を残すとともに、公園には南軍の軍事行動を背後で支えた製鉄所や当時の医療に関する博物館が含まれている。

1.Seven Days War(7日間戦争)

(1)Peninsular Campaign(半島作戦)

第1次マナサスの戦いの結果、連邦政府には、相当本腰を入れてかからない限り、戦争を早期に終わらせることは不可能であることがわかった。そのためには志願兵だらけの軍隊を訓練して戦う組織に変える必要があった。リンカーンは、Army of the Potomac(ポトマック川軍)の司令官に、ウェスト・バージニアでの小競り合いで勝利を収めて名を上げたGeorge McClellan(ジョージ・マクレラン)少将を任命した。Young Napoleon(若きナポレオン)と称された35歳の若き司令官は、軍隊を鍛え、督励し、検閲し、兵士たちのモラルは揚がった。1861年11月1日には、連邦軍の最高司令官に任命された。しかし、マクレランには大きな問題があった。南軍の勢力を常に過剰評価し、それを上回る兵力を求め、常に慎重に過ぎる判断を下すことであった。兵の訓練を続ける中、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬がやって来た。リンカーンは業を煮やし、マクレランに南軍攻略計画の提出を求めた。マクレランの作戦は、北ヴァージニアに駐留する南軍を迂回し、大量の兵士をヴァージニア半島に上陸させ、そこから一気に西に兵を進め、リッチモンドを攻略するというものであった。しかし、さらなる準備が必要として一向に動く気配がなかったため、リンカーンは2月22日までに軍事行動を起こし、北ヴァージニアの南軍を討つ命令を下した。ここに至り、マクレランはようやく腰を上げ、ヴァージニア半島からの上陸開始をポトマック川軍に命令した。北軍10万5千の大軍は、3月17日、ヴァージニア半島のFort Monroe(フォート・モンロー)に上陸を開始し、ゆっくりと注意深くHampton Road(ハンプトン道)を西に進んだ。

南軍のArmy of Northern Virginia(北ヴァージニア軍)を率いるJoseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)大将は、Yorktown(ヨークタウン)にJohn B. Magruder(ジョン・B・マグルーダー)少将率いる1万余りの兵団に3重の防御線を張らせ、時間を稼ぐように命じた。4月5日、これに出くわしたマクレランは驚き、ヨークタウンの包囲を命じた。マグルーダーは、前線で大きな音を立てさせ、大軍がいるかのようにマクレランに思い込ませた。マクレランはさらに慎重になり、重火器のさらなる調達を行った。5月5日に重火器で総攻撃をかけようとしたところ、南軍はWilliamburgs(ウィリアムズバーグに)退き、もぬけの殻となっていた。ウィリアムズバーグには3万2千の南軍が防御線を張っていた。これにマクレランの前進部隊4万1千が衝突したが、夜には南軍はさらに西へと撤退した。マクレランは、南軍の防御をかい潜るため、一部部隊にヨーク川を遡らせ、West Point(ウェスト・ポイント)から上陸させようとするが、5月7日、ジョンストンの派遣したG.W. Smith(G.W.スミス)少将の兵団に止められた。5月15日には、海軍が5隻の軍艦でJames River(ジェームズ川)を遡り、リッチモンドに近づくが、Drewry's Bluff(ドゥリューリーの崖)に築かれた砲台による反撃を受け、退却を余儀なくされた。迂回ルートを阻まれたマクレランは、仕方なく陸路慎重に西へ兵を進めた。5月末にはマクレラン軍10万5千はリッチモンド北の郊外を流れるChickahominy River(チッカホミニー川)に到達した。川を越えた南には、ジョンストン率いる南軍6万が待ち構えていた。5月31日、ジョンストン率いる南軍は、マクレランの軍の左翼と中央・右翼が川を挟んで股割きになっているところ、Seven Pines(セブン・パインズ)に取り残されたマクレランの左翼(2兵団3万)を襲った。しかし、ジョンストンの作戦は複雑で、部隊間の連携がうまく行かず、次々に戦場に兵を逐次投入する結果となったため、南軍の攻撃はErasmus Keyes(エラスムス・キーズ)准将 の兵団は駆逐したものの、Samuel Heintzelman (サミュエル・ヘイツルマン)准将 の兵団と応援にかけつけたJohn Sedgwick(ジョン・セドウィック)准将の師団を圧倒することができなかった。しかし、このときジョンストンは被弾し、戦線から離れてしまう。翌日、南軍は攻撃を再開するが、さらに北軍の応援が到着し、攻撃は功を奏しなかった。南軍では、負傷したジョンストンに代わり、G.W.スミスが一時司令官となるが、デービス大統領は自分の軍事顧問を司令官に送り込んだ。Robert E. Lee(ロバート・E・リー)将軍である。マクレランは、激しい南軍の抵抗を見て、一旦進軍を中止し、増派を要請した。この時間を利用して、リーは、リッチモンドの周囲に多数の砦を築き、防御をさらに強化するとともに、シェナンドア・ヴァレーで徹底的に北軍を撹乱し、撃破したThomas Jackson(トーマス・ジャクソン)少将を呼び戻した。(これまでの両軍の動きについては、ここを参照。)

(2)7日間戦争(1862年6月25日-7月1日)

北軍はチッカホミニー川の北に3万、南に6万に分かれていた。リーは、慎重なマクレランの性格を見抜き、少ない手勢を大胆に2つに分け、南の北軍を牽制しながら、北の3万に兵力を集中させて、これを撃破する作戦を立てた。しかし、この作戦は複雑で、成功するためには多くの部隊間の連携を必要とした。南軍が攻撃を開始する前に、北軍がリッチモンド侵攻に有利となるように、6月25日に重火器を南に移動させようとしたことから、小競り合いが生じたことが戦いの幕開けとなった。翌26日、南軍の作戦が開始された。チッカホミニー川北のFitz Porter(フィッツ・ポーター)准将の兵団をジャクソンの兵団が右翼から襲い、塹壕から出てきたところを、左翼からA.P. Hill(A.P.ヒル)少将の師団が攻撃する手はずであったが、ジャクソンの師団の動きは鈍く、これを待ちきれなくなったヒルは先に正面のGeorge McCall(ジョージ・マッコール)准将の師団に攻撃を開始した。マッコールの師団は後退を余儀なくされたが、ポーターは、すぐに他の師団を派遣し、Beaver Dam Creek(ビーバー・ダム川)付近に兵力を集中させ、一気に反撃し、度重なるヒルの攻撃を跳ね返した。一方で、チッカホミニー川南の撹乱は功を奏し、マクレランは南軍の大軍がいると思い込み、南東に兵を引いてしまった。
ビーバー・ダム川

翌日、リーは、ジャクソン、A.P.ヒル、James Longstreet(ジェームズ・ロングストリート)少将、D.H. Hill(D.H.ヒル)少将の師団にGaine’s Mill(ゲインズ・ミル)付近に後退したポーターの兵団の総攻撃を命じた。しかし、この日もジャクソン師団の動きは鈍く、夕方になり戦線に到着する始末であった。部隊間の連携が今一つ悪く、戦線の隙間を作ってしまったため、その隙をポーターに反撃され、ポーターの兵団を圧倒することができなかった。翌日、早朝、ポーターは、チッカホミニー川南に退却した。(ここまでの両軍の兵の動きは、ここを参照。)
ゲインズ・ミル付近

この時点でマクレランは、もはやリッチモンド攻略をあきらめ、撤退を開始した。南東に後退する北軍を南軍が追跡した。6月29日、マグルーダー師団がリッチモンド=ヨーク川鉄道のSavage’s Station(サベージ駅)付近で北軍に追いつき、これを攻撃したが、援軍に来るはずのジャクソン師団の到着がまたしても遅れ、マグルーダー師団は北軍の反攻に跳ね返された。(ジャクソン師団は、シェナンドア・ヴァレーでの戦闘、その後の強行軍によるリッチモンド防衛戦参加のため、極度に疲労していた。)しかし、北軍の退却も連携がとれていないため、30日、Glendale(グレンデール)のボトルネックにぶつかり、渋滞を生じてしまった。この機会をとらえ、リーは、ここに南軍の軍勢を終結させ、一気に北軍を攻撃しようとしたが、部隊間の連携は悪く、A.P. ヒルとロングストリートの師団しか攻撃をしかけることができず、しかもその攻撃も逐次の兵の投入となり、北軍の反攻に跳ね返された。(ここまでの両軍の動きは、ここを参照。)
サベージ駅

北軍は、さらに下がり、Malvern Hill(マルヴァーン丘)を占拠し、撤退を防御するため、ここに重火器を設置した。7月1日、南軍も重火器で応戦し、その後歩兵隊による攻撃を行うが、高台に設置された北軍の重火器攻撃の威力に負け、かつ、南軍の攻撃も連携がとれず、その勢力の半数しか投入できず、北軍の反攻に跳ね返された。北軍はHarrison's Landing(ハリソンズ・ランディング)からジェームズ川に撤退した。(ここまでの両軍の動きは、ここを参照。)
マルヴァーン丘

南軍の勝利は、リーの評価を一気に高める一方で、マクレランの評価は地に落ち、北軍最高司令官の任は解かれ、John Pope(ジョン・ポープ)少将率いるArmy of Virgnia(ヴァージニア軍)の補強に回るよう、リンカーンに命じられた。リー、ポープと司令官は代わったが、南北両軍は再びマナサスの地で見えることとなる。


2.The Battle of Cold Harbor(コールド・ハーバーの戦い:1864年5月31日-6月12日)

スポッツィルベニア裁判所の戦いの後も攻撃の手を緩めようとしないグラント率いる北軍は、リーの後ろに回り込もうとし、リーはそれをさせまいと南に兵を交代させ、北軍を迎え撃つ、この動きが繰り返されて、とうとう両軍は、リッチモンド北郊外で相対することとなった。1864年5月31日、Philip sheridan(フィリップ・シェリダン)少将率いる騎兵隊は、重要な交差路であるOld Cold Harbor(オールド・コールド・ハーバー)を南軍より奪還した。グラントは、ここに北軍の勢力を結集させ、南軍に対峙しようとしたためである。6月1日にリーは、ここを取り戻そうとするが、現場にはRichard Anderson(リチャード・アンダーソン)少将の部隊しか到着せず、アンダーソンの攻撃はカービン銃による激しい射撃にあい、失敗に終わる。その後、北軍のHoratio Wright(ホレーシオ・ライト)少将の兵団、William Smith(ウィリアム・スミス)少将の兵団が到着し、北軍の軍勢は膨れ上がった。(ここまでの両軍の動きは、ここを参照。)グラントは、早く攻撃を仕掛けたかったが、北軍の兵士は揃わず、早く着いたWinfield Hancock(ウィンフィールド・ハンコック)少将の兵団の兵士たちも強行軍で衰弱していたことから、攻撃の開始を6月3日まで待った。この間に、リーは、ヒルの兵団をアンダーソンの兵団に加え、塹壕を築き、重火器を配備し、迎撃体制を整えた。新たに到着した北軍のG.K. Warren(G.K. ウォレン)少将とAmbrose Burnside(アンブローズ・バーンサイド)少将の兵団には、Jubal Early(ジュバル・アーリー)中将の兵団を当てた。7マイル(11km)にわたり塹壕で固められた前線は、準備万端であった。
南軍の塹壕

6月3日、北軍10万1千は南軍6万2千に対して正面から総攻撃を仕掛けた。兵力の差にも関わらず、結果は火を見るより明らかであった。攻撃開始からわずか1時間で厚い防備の南軍の陣営から発せられる銃弾の嵐に北軍7,000人がなぎ倒された。グラントは攻撃の続行を指示しようとしたが、各兵団長から諌められた。グラントは後に、この攻撃は最大の失敗の一つであったと語っている。
南軍の重火器

6月4日から12日まで9日間、両軍は塹壕に立てこもったままにらみ合いが続いた。この間も重火器や狙撃兵による応戦が続いた。リッチモンドの戦いは、長期戦の様子を呈してきた。リーは、南軍やリッチモンドへの圧力を弱めるために、アーリー中将に命じて、シェナンドア・ヴァレーを撹乱し、あわよくばワシントンの背後を脅かすため、部隊を割いた。

グラントは考えた。これまでのようにリーの後背に回り込もうとしても、チッカホミニー川周辺の沼地が迅速な行動を邪魔する。しかし、退却はありえない。包囲戦を試みるとしても、リッチモンドの周囲には多数の砦や砲台が築かれ、簡単には攻められない上、南のPetersburg(ピーターズバーグ)の街から鉄道が走り、補給も可能であった。そこで気が付いた。リッチモンドを落とすためには、ピーターズバーグを落とす必要があると。グラントは、次の標的をピーターズバーグに定めた。リーは、グラントの次の手が何か、読めなかった。グラントの軍がジェームズ川に向かっているとの情報に接したとき、リーは焦った。ピーターズバーグには僅かの守備隊しか残っていないからだ。リーは急いで兵を割いてピーターズバーグに向かわせた。


3.The Battle of Chaffin’s Farm(1864年9月29日-30日)

ピーターズバーグ包囲戦のときに、グラントが仕掛けたリッチモンド、ピーターズバーグ同時攻撃のリッチモンドでの戦場跡も保存されている。1864年9月29日、Benjamin Butler(ベンジャミン・バトラー)将軍率いる部隊は、ジェームズ川北の高台New Market Heights(ニュー・マーケット・ハイツ)を奪取した。この戦いでは北軍の黒人連隊が投入され、活躍した。また、Edward Ord(エドワード・オード)率いる別働隊がリッチモンド郊外南部の南軍守備隊の残るFort Harrison(ハリソン砦)を急襲し、これを奪った。しかし、その周囲のFort Gregg(グレッグ砦)、Fort Gilmer(ギルモア砦)、Fort Johnson(ジョンソン砦)は奪うことができなかった。また、Fort Hoke(ホウク砦)は南軍から奪ったものの、援軍がなく、放棄せざるを得なかった。北軍は、奪ったハリソン砦の名前をFort Burnham(バーンハム砦)に改名した。バーンハムは、29日の戦いで死亡した北軍の将校の名前である。翌30日、南軍はハリソン(バーンハム)砦の奪還を試みるが、失敗に終わった。その後、両軍は、にらみ合いを続けることとなる。
ハリソン(バーンハム)砦

4.その他

この他、リッチモンド市街には、Tredegar Iron Works(トレドガー製鉄所)の跡が保存されている他、Chimborazo Hospital(チンボラゾ病院)のあった場所に医療博物館が公開されている。トレドガー製鉄所は、南北戦争が始まる以前の、1836年に設立されたもので、戦前にはリッチモンドを有数の製鉄の町にのし上げ、戦中は南軍の鉄需要をまかない、破壊を免れたため、戦後はリッチモンド復興の助けとなった。チンボラゾ病院は、1861年10月に開設された南部で最も大きな病院で、3,200人の患者が収容可能であった。南北戦争中は総勢で76,000人がここで治療を受けた。当時としては最新鋭の病院であったが、病原菌の知識、外科手術の消毒、抗生物質もなかった時代であるため、入院患者の10人に2人は亡くなったと言われている。
トレドガー製鉄所跡

この他、国立公園ユニットではないが、リッチモンドには、南部の大統領邸宅や博物館などもあり、南北戦争に興味がある人はぜひとも訪れるべき場所であろう。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

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▲ by shiraok4563 | 2007-11-16 08:44 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Maggie L. Walker National Historic Site

ヴァージニア州の州都であるRichmond(リッチモンド)のダウンタウンにJackson Ward(ジャクソン区)と呼ばれる地区がある。ここは、19世紀終わりから20世紀始めにかけて、黒人の中小企業経営者が軒を連ね、繁栄した場所である。この街を舞台に奴隷の子供に生まれながら、銀行経営者となった黒人女性がいる。その女性の名前は、Maggie L. Walker(マギー・L・ウォーカー)。慈愛あふれる敬虔なクリスチャンであった。

マギーは、1867年7月15日に、リッチモンドで生まれた。母親はElizabeth Draper(エリザベス・ドレーパー)といい、南北戦争中に北軍のスパイであったElizabeth Van Lew(エリザベス・ヴァン・ルー)の家で働いた元奴隷である。父親は、Eccles Cuthbert(エクレス・クスバート)という白人の反奴隷運動家であったという。母親は、その後ヴァン・ルー家の執事であったWilliam Mitchell(ウィリアム・ミッチェル)と結婚した。しかし、マギーが9歳のとき、義父が不慮の死を遂げたため、母親は洗濯婦となり、家計を支えた。マギーは、地元の公立学校に通う傍ら、母親を手伝い、洗濯物の回収・配達をして過ごした。11歳のとき、First African American Baptist Church(第1黒人バプティスト教会)で洗礼を受け、教会活動を通じて、黒人同士の相互扶助に目覚めていく。14歳のときにIndependent Order of St. Luke(聖ルカ相互扶助会)に入会し、黒人の病人、老人などへの奉仕を始めた。16歳でRichmond Colored Normal School(リッチモンド黒人普通校)を卒業し、3年間地元の小学校で教職に就いた。夜間には簿記を勉強した。

1886年にレンガ職人のArmstead Walker Jr.(アームステッド・ウォーカー・ジュニア)と結婚し、当時のルールでは既婚者は教職を続けられなかったことから、教職を退いた。結婚後は、家庭と相互扶助会活動に精力を傾けた。コミュニティー活動を通じて、黒人と白人との間の経済格差の解消、公平な雇用の確保、平等な人権の実現などを目指した。聖ルカ相互扶助会では、青年部の設立に尽力し、1899年には、聖ルカ相互扶助会の書記長に就任し、財政再建に取り組んだ。彼女のコミュニティー活動はさらに幅を広げ、1902年にはSt. Luke Herald(聖ルカ・ヘラルド)を発刊し、翌年には黒人のための銀行であるSt. Luke Penny Savings Bank(聖ルカ1セント貯蓄銀行)を設立した。この銀行は、黒人実業家への貸し渋りを解消するために設立された銀行であり、黒人女性によって設立された最初の銀行であった。マギーは、銀行の初代頭取を務めた。現在もこの銀行は、Consolidated Bank and Trust Companyと名前を変え、運営されている。黒人女性の地位向上にも熱心で、National Association of Colored Women(全米黒人女性協会)やNational Association for the Advancement of Colored People(全米黒人地位向上協会)のメンバーとしても活躍した。

1904年に、マギーは、現在Maggie L. Walker National Historic Site(マギー・L・ウォーカー国立史跡)が置かれている住居を購入した。この住居は、当初は9部屋だけであったが、息子夫婦が同居するなど家族が増えて、最終的には28部屋を数えるまでに拡張された。1915年には夫のアームステッドが泥棒と間違えられ射殺され、1928年にはマギーも糖尿病が進み下半身不随となり、車椅子の生活を余儀なくされるという悲劇も起きている。しかし、マギーの情熱は衰えることはなく、その生涯を黒人の地位向上のために捧げ、その最後まで聖ルカ相互扶助会の書記長と自らが創立した銀行の会長を務めた。


(国立公園局のHP)

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▲ by shiraok4563 | 2007-11-15 10:38 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Cedar Creek & Belle Grove National Historical Park

Cedar Creek and Belle Grove National Historical Park(セダー・クリーク&ベル・グローブ国立歴史公園)は、18世紀のプランテーションとその付近を舞台に行われた南北戦争のセダー・クリークの戦いの跡を保存する歴史公園である。ベル・グローブでは、穀倉地帯シェナンドア・ヴァレーのジェントリーの暮らしぶりを垣間見ることができる。セダー・クリークの戦いは、南北戦争末期、シェナンドア・ヴァレーでの南北の雌雄を決した戦いである。

1.ベル・グローブ

物語は1731年に遡る。ドイツ移民のJost Hite(ジョスト・ハイト)とそのパートナーRobert McKay(ロバート・マッケイ)らは未開拓の土地であったシェナンドア・ヴァレーの北部の14万エーカー(566平方キロ)の土地を取得し、ここに移住して小麦などの栽培を始めた。ハイトの孫であり、独立戦争にも従事したIsaac Hite Jr.(アイザック・ハイト・ジュニア)少佐は、1783年に父親のアイザック・ハイトより、Nelly Conway Madison(ネリー・コンウェイ・マディソン)との結婚祝いに483エーカー(193ha)の土地を譲り受け、ここに1794年から4年かけて、石灰岩を用いた豪華な屋敷を建て、ベル・グローブと名付けた。この屋敷の設計は、トーマス・ジェファーソンが手伝ったという。ハイト少佐の妻ネリーは、合衆国憲法の草案を手がけたJames Madison(ジェームズ・マディソン)、後の4代大統領の妹であったため、この屋敷にはマディソンもよく訪れたという。1802年にネリーが亡くなり、ハイト少佐はAnn Tunstall Maury(アン・タンストール・モーリー)と再婚したが、2回の結婚で12人の子供がここで育つこととなり、家が手狭となったため、1815年に西側に屋敷を拡張した。ハイト少佐の下で、プランテーションの経営は成功し、ハイト少佐は、最盛期には7,500エーカー(3,000ha)の土地と103人の奴隷を所有し、農場のほかにも、製粉所、製材所、醸造所を有していた。ハイト少佐は1836年に亡くなり、妻のアンが1851年に亡くなってから、ベル・グローブは所有者を転々とすることとなる。
ベル・グローブ

2.セダー・クリークの戦い

シェナンドア・ヴァレーに戻ったJubal Early(ジュバル・アーリー)中将率いる南軍を討つために、グラントは、新たに組織したPhilip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将率いるArmy of the Shenandoah(シェナンドア川軍)4万を派遣した。リーは、Petersburg(ピーターズバーグ)からさらにRichard Anderson(リチャード・アンダーソン)の兵団を割いて、アーリーの応援に向かわせた。1864年8月21日、アーリーとアンダーソンの部隊は、ウェスト・ヴァージニアのCharlestown(チャールズタウン)付近に集まるシェリダンの部隊を攻撃した。シェリダンの軍は、戦いながらHalltown(ホールタウン)まで引き下がった。この隙に南軍は、ボルチモア&オハイオ鉄道を略奪するが、シェリダンは、アーリーの軍が広がった機会をとらえて、9月19日、Winchester(ウィンチェスター)付近の南軍を攻撃した。アーリーは部隊を再結集して防戦を張ったが、圧倒的な数の前にして、Fisher’s Hill(フィッシャーズ丘)に退いた。シェリダンは、9月21日にこれを追撃し、南軍はシェナンドア・ヴァレー深く撤退を余儀なくされた。この後、シェリダンは、南軍の穀倉地帯であるシェナンドア・ヴァレーの小麦畑、製粉所、穀物倉庫などを徹底的に焼打ちし、南軍の補給能力を弱体化させようとした。

シェリダンは、アーリーの南軍は弱体化したと見て、Horatio Wright(ホレイシオ・ライト)少将配下の兵団をピーターズバーグに帰そうとした。しかし、アーリーの南軍は終わっていなかった。セダー・クリークで宿営中のシェリダン軍に斥候を出してきた。アーリー軍の動きを察知したシェリダンは、ライトに帰還命令を出した。セダー・クリークの北軍を偵察したところ、アーリーは北軍の左翼に隙があることを発見した。アーリーは夜間行軍を行わせ、翌日の攻撃の準備を整えた。(両軍の配置は、ここを参照。)

10月19日早朝、John B. Gordon(ジョン・B・ゴードン)少将の師団が北軍の左翼のGeorge Crook(ジョージ・クルック)少将の兵団を攻撃した。左翼から、しかも早朝の攻撃を予期していなかったクルックの兵団は総崩れとなった。この攻撃に南軍からはJoseph Kershaw(ジョセフ・カーショー)少将の師団が加わり、クルックの兵団の右のWilliam Emory(ウィリアム・エモリー)少将の兵団も総崩れとなった。そして南軍は、最後の部隊であるライト少将の兵団に攻撃を加えた。ライトは、攻撃を受けながらも、じりじりと後方に退却していった。この時点で勝利を確信したアーリーは、北軍の追撃の手を緩めた。兵士たちは、十分な食料を得ていなかったため、お腹が空き、北軍の残した食料の略奪に夢中になった。
模擬戦での南軍兵士

この頃には、攻撃開始時に前線にいなかったシェリダンは、退却する北軍兵士を再結集させ、態勢を整えていた。午後3時にアーリーが再び攻撃開始を命令したときには、北軍の態勢はすっかり整っており、逆にエモリー兵団にGeorge Custer(ジョージ・カスター)の騎兵部隊が加わり、反転に出た。終わったと思った北軍からの再攻撃を食い止める余力はお腹を空かせた南軍に残っておらず、南軍は総崩れとなった。
模擬戦での北軍兵士

この戦いにより、南軍はワシントンDCを脅かす戦力もシェナンドア・ヴァレーを防御する力も失った。北軍総司令官グラントは、再びピーターズバーグに立て籠もる南軍に全精力を注ぐことができるようになった。

(国立公園局のHP)

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▲ by shiraok4563 | 2007-11-08 11:58 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Manassas National Battlefield Park

ワシントンDCからインターステート66号線で南西に35マイル(56km)行ったところにManassas(マナサス)という町がある。今日ではワシントンDCのベッドタウンであるが、ここはワシントンDC、リッチモンド、シェナンドア・ヴァレーへの鉄道が交差する重要な交通の要であった。この交通の要を巡って、南北戦争中2度大きな戦いが繰り広げられた。Manassas National Battlefield Park(マナサス国立戦場跡公園)は、この2度のマナサスの戦いのあった場所を保存する公園である。

1.第1次マナサスの戦い(1861年7月16日)

1861年4月の南軍によるサウスカロライナ州のFort Sumter(サムター砦)への攻撃によって南北戦争は幕を開けたとされるが、第1次マナサスの戦いは、南北戦争最初の本格的な戦いと言える。南部諸州が連邦を離脱し、アメリカ合衆国連合を結成したものの、多くの人々は、南北が一度大きな戦いを戦えば、その勝敗により、その後のアメリカの歴史は決せられると考えていた。北部(連邦政府)が勝てば、南部諸州は連邦に復帰せざるを得ないだろうし、南部が勝てば、連邦政府はアメリカ合衆国連合を独立国として承認せざるを得なくなるだろうというのが多くの味方であった。リンカーンが75,000の志願兵の3ヶ月間の招集を呼びかけたところ、世紀の決戦が参加する前に終わってはいけないと思い、大量の志願兵がたちまち集まった。

サムター砦への爆撃を指揮したP.G.T. Beauregard(PGTブーリガード)准将は、来る北軍のヴァージニア侵攻に備えて、22,000の兵をヴァージニア州北部に進めた。リンカーンは、東部戦線を戦うArmy of Northeastern Virginia(北東ヴァージニア軍:後のArmy of the Potomac(ポトマック川軍))の司令官にIrvin McDowell(アーヴィン・マクダウウェル)准将を選んだ。マクダウウェルは、酒もタバコもコーヒーも紅茶も飲まないまじめな将軍であった。マクダウウェルは、軍事教練もまともに受けていない志願兵の集団からなる軍を見て不安に思ったが、リンカーンからは「こちらも素人ならあちらも素人」と説得され、議会から迅速な攻撃を求められ、かつ、3ヶ月の徴兵期間も過ぎようとしていたことから、素人軍団を率いてブーリガードに対峙することとし、1861年7月16日に35,000の兵を率いてワシントンを出発した。ブーリガードは、マナサスのBull Run(ブル・ラン)と呼ばれる川のほとりで北軍の到来に備えるとともに、シェナンドア・ヴァレーで北軍に対峙するJoseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)准将に10,000の援軍を求めた。ジョンストンは北軍を撹乱しながら、この援軍を鉄道で派遣した。

18日、マクダウェルは、マナサスから5マイル(8km)のところにあるCenterville(センタービル)に到着し、物資を運ぶワゴンが到着するのを待った。そして、ブル・ランに展開するブーリガードの南軍の状況を探った。20日には、ジョンストンの援軍が到着し、兵力は南北互角となった。マクダウウェル、ブーリガードともに、正面にフェイントの攻撃を仕掛け、同時に相手方の左翼に回りこみ、退路を断つ作戦を立てていた。しかし、この作戦が成功するためには、スピードが必要であったが、素人集団には無理であった。しかし、ワシントンからは多くの見物客が北軍の勝利を見にピクニックに来ていた。

21日夜明けに、北軍の作戦は開始した。中央の石橋を北軍のRobert Schenck(ロバート・シェンク)准将率いる旅団が攻めるが、南軍守備隊のNathan Evans(ネイザン・エヴァンス)大佐は、この攻撃がフェイントであることを見抜き、一部の兵を残して、Matthew’s Hill(マシューの丘)の南軍左翼の応援に向かい、ここで北軍と激しい戦闘になった。これを見てBarnard Bee(バーナード・ビー)准将とFrancis Bartow(フランシス・バートー)大佐の旅団が救援に向かったが、20,000の兵を擁する北軍の攻撃は激しく、南軍は崩れて敗走しはじめた。(両軍の兵の配置はここを参照。)しかし、その中で微動だにせず、北軍の攻撃を食い止める旅団があった。Thomas Jackson(トーマス・ジャクソン)大佐率いる旅団であった。これを見て、ビー准将は、”There stands Jackson like a stone wall! Rally behind the Virginians”(そこにジャクソンが石壁(ストーンウォール)のように立っている。ヴァージニア軍のもとに参集せよ。)と敗走する兵士の再結集を呼びかけた。この直後、ビーは狙撃を受け、帰らぬ人となった。司令官のブーリガード、ジョンストンも駆けつけ、Henry’s Hill(ヘンリーの丘)で南軍の再結集を行った。南軍の敗走を食い止める防御を行ったジャクソンは、この後ストーンウォールと異名をとることとなる。(この時点での両軍の兵の配置はここを参照。)
ジャクソンの像

午後はこのヘンリーの丘を巡る攻防となったが、南軍がシェナンドア・ヴァリーから到着したばかりのJubal Early(ジュバル・アーリー)大佐とKirby Smith(カービー・スミス)准将の旅団を追加投入し、Chinn Ridge(シン・リッジ)の北軍の右翼を攻撃する(ここを参照。)と、疲れきった北軍は持ちこたえられなくなり、退却を始めた。当初退却は整然と行われたが、次第に退却する兵士はパニック状態となり、武器もワゴンも捨ててワシントンを目指して逃げ帰った。さらにピクニックに来ていたワシントンからの観光客もこれに混じり、現場は大混乱となった。この混乱の中、ピクニックに来ていた下院議員Alfred Ely(アルフレッド・イーライ)は馬車と離れ離れになり、南軍兵士に捕らえられ、6ヶ月リッチモンドに抑留された。
ヘンリーの丘

戦闘が終わってみれば、北軍死傷者2,900、南軍死傷者2,000となり、あまりの死傷者の多さに世間は驚愕した。一方で、この戦いは、南北双方の指導者に、本格的な長期戦が訪れることを予感させた。リンカーンは、50万人の志願兵の3年間の招集に踏み切った。Jefferson Davis(ジェファーソン・デービス)大統領(南部)も40万人の志願兵の募集を呼びかけた。そして人々は、マナサスでの驚きが、単なる序章に過ぎなかったことを知ることになる。連邦政府は、南部の首都リッチモンドを目指して大攻勢をかけることとなる。

2.第2次マナサスの戦い(1862年8月28日-30日)

1862年6月のリッチモンド攻防戦でGeorge McClellan(ジョージ・マクレラン)少将率いるポトマック川軍をワシントンに追い払ったRobert E. Lee(ロバート・E・リー)には、次なる脅威が待ち構えていた。リンカーンは、同月、ヴァージニアに展開する4部隊、John Fremont(ジョン・フレモント)少将率いるMountain Department (山地局)、アーヴィン・マクダウウェル少将率いるDepartment of the Rappahannock(ラパハノック川局)、 Nathaniel Banks(ナザニエル・バンクス)少将率いるDepartment of the Shenandoah(シェナンドア川局)、Samuel Sturgis(サミュエル・スタージス)准将率いるワシントン守備隊の一旅団を統合して、Army of Virginia(ヴァージニア軍)を設立し、その司令官に西部戦線で功を挙げたJohn Pope(ジョン・ポープ)少将を充てた。この人事にかつて大統領候補であった気位の高いフレモントは反発し、辞任した。ポープは、食料その他の調達はヴァージニアで行い、命令に逆らう南部の住民は容赦なく銃殺するとの方針を発表した。リーは、ポープの軍がマクレランの軍と合流する前にこれを叩く必要があると考え、ジャクソンを派遣して、ポープ軍を誘い出す作戦に出た。

ジャクソンは、8月9日、Cedar Mountain(シーダー・マウンテン)でナザニエル・バンクスの部隊を発見し、これを打ち破った。リーは、James Longstreet(ジェームズ・ロングストリート)少将率いる部隊30,000をジャクソンの24,000の部隊に合流させた。そして、今度はマナサスにあるポープの補給基地を破壊するため、ジャクソンの部隊を大きく迂回させて、ラパハノック川付近に駐留するポープ軍の背後に回らせた。ジャクソンの部隊は、2日間で50マイル(80km)を走破し、8月25日、マナサスの補給基地を略奪し、焼き払った。この知らせを聞いたポープは、マナサスに兵を向け、ジャクソンの部隊を追った。ジャクソンは、マナサスのGroveton(グローブトン)の森に兵を移動させた。リーは、ロングストリートの部隊を急ぎ北上させた。

28日、ジャクソンは、ポープの軍が結集する前にグローブトンで攻撃を仕掛けた。そして夜のうちに兵を移動させ、その北にある未完成の鉄道勾配の背後に配備した。翌日、ポープは、ジャクソンの部隊を援軍が到着する前に叩くため、鉄道勾配の背後に構えるジャクソンの部隊に向けて63,000の軍勢で攻撃を仕掛けた。北軍は急勾配の傾斜地を登り、攻撃を仕掛けた。これに対して、ジャクソンの部隊は塹壕から銃弾を浴びせた。数で圧倒的に勝る北軍兵士は倒されても倒されても次々と坂を上がってきた。やがてロングストリートの応援部隊が到着し、ジャクソンの右に展開し、北軍の攻撃を制止した。
ポープの司令部が置かれた場所

30日、ポープは、再びジャクソンの部隊を総攻撃した。前日と同様に、激しい戦闘となり、ジャクソンの部隊も所によっては銃剣や投石で対抗する状況に追い込まれた。このために手薄となったポープ軍の左翼にロングストリートの部隊が怒涛の攻撃を仕掛けた。この攻撃によって、ポープ軍は大混乱に陥った。北軍は、西から東に追い込まれる中、辛うじてヘンリーの丘で踏みとどまり、総崩れになるのを免れた。その夜のうちにポープ軍は、ブル・ランを渡り、ワシントンへと撤退した。(戦いの様子については、ここを参照。)北軍の死傷者は14,000、南軍の死傷者は9,000を数え、犠牲者の数は第1次マナサスの戦いの4倍以上となった。
ジャクソンの部隊が立て籠もった鉄道路線跡

リーは、このマナサスでの勝利に勢いを駆り、さらに大胆な作戦に打って出る。それは、ポトマック川を越えてメリーランドに侵攻するというものであった。両軍は、メリーランドのAntietam(アンティータム)で激突することとなる。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)


Tags:#南北戦争 
▲ by shiraok4563 | 2007-10-18 03:51 | Virginia | Trackback | Comments(0)
Colonial National Historical Park










Colonial National Historical Park(コロニアル国立歴史公園)は、アメリカの植民地時代の歴史的な2つの場所を保存する歴史公園である。1つはJamestown(ジェームズタウン)、アメリカ大陸で初めて成功したイギリス植民地である。2つ目は、Yorktown(ヨークタウン)、独立戦争でイギリス軍が降伏した場所である。この歴史的な2つの場所は、ともにヴァージニア州のヴァージニア半島にあり、13マイル(21km)のColonial Parkway(コロニアル・パークウェイ)で結ばれている。

1.ジェームズタウン

1606年にロンドンで設立されたVirginia Company(ヴァージニア会社)は、新大陸での植民地の設立の特許を国王ジェームズ1世から得た。同年の終わりに、3隻の船、Susan Constant(スーザン・コンスタント号)、Discovery(ディスカバリー号)、Godspeed(ゴッドスピード号)は、総勢104名を乗せて、Christopher Newport(クリストファー・ニューポート)キャプテンの指揮の下、ロンドンを出航し、新大陸を目指した。5ヶ月にわたる航海の後、現在のヴァージニア州Cape Henry(ヘンリー岬)と呼ばれる岬に到達した。より定住に向いた土地を探して、現在のヴァージニア半島やチェサピーク湾を探検した後、1607年5月14日、植民地の運営委員会の会長に選ばれたEdward Wingfield(エドワード・ウィングフィールド)大尉が大西洋から40マイルほど内側に入ったジェームズ川に浮かぶJames Island(ジェームズ島)を新しい植民地の場所に定めた。この島は、蚊の繁殖した小さな沼地の島で、ジェームズ川の水は半分海水という厳しい条件であったが、原住民が近くに住んでいないため、この島が選ばれた。新しい植民地は、ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと名付けられた。


乗組員の中には、John Smith(ジョン・スミス)大尉がいた。スミスは、航海中に問題を起こし、あやうく処刑になりそうになるが、ヴァージニア会社からの指示により、植民地のリーダーに指名されたため、あやうくこれを免れた。その年の12月に食料を探してChickahomny(チカホミニー)川の付近を歩いていたところ、Powhatan(ポーハタン)族に捕らえられ、Wahunsonacock(ワフンソナコック)酋長の前に引き出された。スミスによれば、ワフンソナコックはスミスの処刑を命じたところ、酋長の娘が身を挺してスミスの命を救ったという。酋長の娘の名前は、Pocahontas(ポカホンタス)といった。ポカホンタスのおかげで、植民者のイギリス人と原住民との間に平和が保たれたが、やがて土地が侵略されることを警戒する原住民たちは、ジェームズタウンのリーダーたちを招いて暗殺しようとした。ポカホンタスは、この計画を事前にスミスに知らせて警戒させ、彼の命を2度も救ったと言われている。
ジョン・スミス

スミスは、1608年9月には植民地運営委員会の会長に選ばれ、スミスは"He who does not work, will not eat."(働かざる者食うべからず)の方針を堅持し、植民地建設を指揮した。翌年の補給船で到着した新しい植民者の中にガラス職人が含まれており、彼らはジェームズタウンにガラス工場を建設した。現在その当時の工場を再現したものが建てられ、職人がガラス作りのデモンストレーションを行っている。しかしながら、食料は不足し、生活環境は厳しく、多くの植民者たちが命を落とした。その上、原住民との関係も悪化し、植民者とポーハタン族との戦争に発展した。スミスは、1609年に火薬の暴発の怪我で本国への帰還を余儀なくされた。
ガラス工場

1609年から1610年にかけて食糧不足ため、植民者の8割が亡くなったとされている。6月にLord De La Warr(デ・ラ・ワー卿)の率いる補給船が到着し、新しい植民者とともに多くの物資が補給され、一息をついた。彼らの航海も大変であった。前年にイギリスを出航したものの、バミューダで遭難し、そこで再び船を建造して、物資を積み込み、ヴァージニアにようやく到着したのであった。船の乗客には、John Rolfe(ジョン・ロルフ)という人物が含まれていた。彼は、航海の途中で、航海中に生れた子供と妻をなくし、失意のうちにあった。彼がバミューダで手に入れた種は、ヴァージニアの土地で芽吹き、ヴァージニアにまた新たな産業をもたらした。タバコである。この頃、ポカホンタスは、植民者たちに誘拐され、ポーハタン族に捕らえられたイギリス人の交換材料にされようとした。しかし、捕虜交換は行われなかった。ポカホンタスがイギリス人との共存を望んだためである。ポカホンタスは改宗し、レベッカの名前をもらった。このポカホンタス(レベッカ)と出会い、ロルフは恋に落ちてしまう。1614年に二人は結婚し、これが原因で植民地とポーハタン族との関係は改善され、再び平和のときが訪れた。1619年にはアメリカ最初の議会がジェームズタウンに誕生している。
ポカホンタス

ヴァージニア会社は、植民地への入植者が一向に増えないことから、植民地キャンペーンを行うことを思い立ち、1616年にロルフとポカホンタスらをイギリスに招いた。二人は、生れたばかりのThomas(トーマス)を連れてイギリスに向かった。イギリスでポカホンタスは国王や貴族にもてなされた。また、スミスとの再会も果たした。1617年3月、ポカホンタスらはヴァージニアに帰る船に乗ってすぐ、まだテムズ川の上で、ポカホンタスは病気になり、Gravesend(グレーブセンド)で亡くなった。なお、トーマスは、母の死後、イギリスにとどまってイギリスで教育を受け、1635年にヴァージニアに戻り、部族のリーダーとなったという。現在もアメリカにはトーマスの子孫が多く暮らしているらしい。

平和は長く続かず、1622年には、Opchanacanough(オプチャナカナフ)の下、ポーハタン族が蜂起し、当時の人口の1/3に当たる300人以上の植民者が犠牲となった。1624年にジェームズ1世はヴァージニア会社に与えた特許を剥奪し、ヴァージニア植民地を国王直轄地とした。1644年に再びオプチャナカナフの下、大規模なポーハタン族の蜂起が起きるが、今度はオプチャナカナフは捕らえられ、拘留中に殺された。この結果、ポーハタン族の組織的抵抗は終了した。イギリス人がジェームズタウンを建てる前に、ポーハタン族のシャーマンはポーは端族が東から来る人々によって滅ぼされることを予言していたが、果たしてそのとおりとなった。

ジェームズタウンはオリジナルの場所の東側に発展を続けるが、1676年のNathaniel Bacon(ナザニエル・ベーコン)の反乱で焼け落ちてしまい、その後復興する。この頃建てられた教会の跡が今も残っている。しかし、1698年の火事で再び議会が焼け落ちてしまったことから、これを建て直すことなく、1699年に首都は近隣のWilliamsburg(ウィリアムズバーグ)に移された。やがてジェームズタウンは寂れていった。

教会跡

オリジナルのジェームズタウンは、長年の地形の変化により、ジェームズ川に水没してしまったと考えられていたが、1994年に始まった考古学調査の結果、1996年にオリジナルのジェームズタウンの場所が特定された。今年は、ジェームズタウン設立400周年記念に当たり、エリザベス女王を初めとして多くの人々がジェームズタウンを訪れている。オリジナルのジェームズタウンは今も発掘が続けられている。
発掘現場

(国立公園局のHP:ジェームズタウン)

2.ヨークタウン

Guilford Court House(ギルフォード・コートハウス)の戦いでアメリカ軍に勝利を収めたイギリス軍であったが、兵の1/4を消耗してしまった。このため、Lord Cornwails(コーンウェリス卿)は、Nathanael Greene(ナザニエル・グリーン)率いるアメリカ軍を追うのをあきらめ、ノースカロライナのWilmington(ウィルミントン)に引き揚げ、兵と兵站の補充を行った。ここでコーンウェリスは、グリーンへの支援がヴァージニアからもたらされていることから、ヴァージニアがイギリス軍に落ちていない限り、両カロライナやジョージアの占領は保てないと考え、ヴァージニア侵攻を決意する。イギリス軍は、ヴァージニアに侵攻し、馬を途中で調達し、奴隷を解放しながら進んだ。そして物資と増兵を待つため、8,000の兵とともにヨークタウンに駐留することとした。コーンウェリスは、ネルソン邸に本部を構えた。
ネルソン邸

ワシントンは、この情報を聞きつけ、フランス軍のRochambeau(ロシャンボー)将軍と相談し、ニューヨークを占領する将軍とHenry Clinton(ヘンリー・クリントン)総司令官率いるイギリス軍本隊を釘付けにするのに十分な兵以外は、ヴァージニアに兵を向けることとした。フランス軍は、西インド諸島からDe Grasse提督率いる海軍を急遽チェサピーク湾に北上させることとした。

De Grasse提督は、1781年9月5日、Thomas Graves(トーマス・グレーブス)提督率いるイギリス海軍をチェサピーク湾で撃退し、コーンウェリスは外部からの支援の望みを断たれた。コーンウェリスは、クリントンに応援部隊の派遣を要請する一方で、陸上からの攻撃に備えるため、砦や砲台を次々と建設した。
イギリス軍砲台

9月28日に、ワシントンとロシンボー率いる米仏連合軍16,000がヨークタウンに到着し、イギリス軍を包囲し、イギリス軍から800m離れた場所に塹壕を築いて、10月9日には大砲による攻撃準備をとった。米仏連合軍は、連日イギリス軍に対して大砲による攻撃を加えた。このとき愛国者で知られたヴァージニア民兵部隊を率いるThomas Nelson Jr. (トーマス・ネルソン・ジュニア)准将は、コーンウェリスの本部となっている自宅を砲撃するよう進言したと言われている。この攻撃でイギリス軍の大砲の多くが使用不能となった。米仏連合軍は、さらに近づき、イギリス軍から400m離れた場所に第2次塹壕の建設にとりかかった。このためにはイギリス軍の前線の砦が邪魔となったため、10月14日、米仏連合軍は、イギリス軍砦9と10を急襲して制圧した。クリントンからの援軍は遅れるとの連絡があった一方で、食料・弾薬はどんどん尽きていった。10月16日には、イギリス軍は、フランス軍砲台を破壊するため、攻撃を仕掛けるが失敗に終わり、脱出作戦も悪天候のため阻まれた。
アメリカ軍砲台

万策尽きたコーンウェリスは、10月17日に休戦を申し出、翌日Moore’s House(ムーア邸)で降伏の条件が協議された。10月19日、降伏のセレモニーが行われた。コーンウェリスは病気を理由に出席を拒否し、序列が次のCharles O'Hara(チャールズ・オハラ)准将が降伏の剣をもたらしたため、この剣は、ワシントンではなく、Benjamin Lincoln(ベンジャミン・リンカーン)少将に渡された。イギリス軍は、アメリカ軍とフランス軍が並ぶ間をヨークタウンから隊列を組んで歩き出て、武器を置いた。その日クリントンからの支援部隊がニューヨークを出発していたとは知る由もなかった。
ムーア邸

ヨークタウンでのイギリス軍降伏のニュースは瞬く間にアメリカ、イギリスに広まり、1782年3月、イギリス首相のノース卿は辞任してウィッグ党の新政権が成立し、アメリカとの平和条約の交渉に入った。5月には、ヨークタウンでの失敗の責任をとらされ、クリントン将軍は司令官を解任された。この結果、実質的なイギリス軍によるアメリカでの戦闘は終結した。1783年にはパリ条約が結ばれ、アメリカの独立はここに確立された。
ヨークタウン戦勝記念碑

(国立公園局のHP:ヨークタウン)

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#独立戦争 #植民地時代 
▲ by shiraok4563 | 2007-10-17 08:10 | Virginia | Trackback | Comments(3)
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