Nicodemus National Historic Site
Fort Larned National Historic Site
Tallgrass Prairie National Preserve
Brown vs. Board of Education National Historic Site
Fort Scott National Historic Site


南北戦争が終了し、自由の身分となった南部の黒人は、シカゴ、ニューヨークなど北部の工業地帯に渡り労働者になった者もいれば、南部にとどまり小作人として従来と変わらない生活を強いられた者もいた。また、中には新天地を求めて開拓者となり、黒人の町を建てた人々もいた。カンサス州のNicodemus(ニコディーマス)は、ミシシッピー川以西に残る黒人開拓者最古の町である。厳しい気候と貧しい土地にも挫けず、西部に根付いた黒人だけの町は、今も小さなコミュニティーとして息づいている。
1876年の大統領選挙では、民主党候補の
Samuel Tilden(サミュエル・ティルデン)が得票数では共和党候補の
Rutherford Hayes(ラザフォード・ヘイズ)を上回り、選挙人の獲得数ではティルデンが19人差でヘイズを上回り、20人の選挙人の行方が最後に紛争となった。選挙管理委員会は、最後の20人はヘイズと裁定したため、南部諸州の民主党は激怒し、再び連邦離脱を示唆するようになった。国の統一を優先するため、ヘイズは南部の民主党が要求するReconstruction(レコンストラクション:復興)の終了を飲み、1877年に連邦軍を南部諸州から引き揚げることとなった。連邦軍が撤退すれば、南部保守派の復権や黒人に対する圧制の復活は時間の問題で、南部の黒人は、南部に残ってリンチや差別の横行する社会に生きていくか、新たな新天地を求めて生まれ故郷を去るかという選択を迫られた。
宣教師であった黒人のW.H. Smith(W.H.スミス)と白人の不動産開発業者W.R. Hill(W.R.ヒル)は、1877年にNicodemus Town Company(ニコディーマス・タウン会社)を設立し、南部から黒人を募り、黒人の町をカンサスに設立する計画を建て、ケンタッキー州などで、土地が肥沃で秋には収穫の溢れる「西部のエデン」、「約束の土地」への移住を盛んに説いた。ニコディーマスは、黒人奴隷としてアメリカに連れて来られながら後に自由を買い取った人物の名前であり、カンサスへの移住は、さながらイスラエルの民のエジプトからの脱出に例えられ、ニコディーマスの宣伝を手伝ったBenjamin Singleton(ベンジャミン・シングルトン)は黒人のモーゼと呼ばれ、カンサスに移住した人々はExodusters(脱出者)と呼ばれた。
1877年9月、308名の最初の移住者を乗せた列車はカンサスに到着し、そこから55マイル(88km)離れたニコディーマスまで徒歩で移動した。期待に胸を膨らませ到着したニコディーマスで彼らを待っていたのは、作物など何も育ちそうにない強風が吹きすさぶ荒涼とした大地であった。この頃までには条件の良い西部の土地には既に白人が入植しており、残されていた土地はほとんど耕作には適さない荒れ地だけであった。この風景にショックを受けて60名は直ちに引き返した。緑豊かな肥沃な土地を想像して来た脱出者は、種子、耕作道具、資金などを持たないまま、冬に備えなければならなかった。強風が吹きすさぶ大地ではまともな家を建てることはできず、斜面に穴を掘って土と泥で粗末な住居をこしらえた。見かねたOsage(オサゲ族)は食料や薪などを援助した。

当時の住居(近くのSanta Fe Trail Centerにて)
翌年春には第2陣の開拓団が到着し、夏には第3陣の開拓団が加わった。厳しい気候とやせ衰えた土地を相手に開拓民は土地を切り開き、教会、学校、公会堂などを建設し、コミュニティーを建設していった。1880年ごろには500名が住む、それなりの規模のコミュニティーとなり、雑貨屋、郵便局、薬局、ホテル、新聞社などを備えていた。

学校

St. Francis Hotel(セント・フランシス・ホテル)
次第に大きくなるニコディーマスの土地に鉄道を通そうという機運が高まっていった。ニコディーマスは建設債の発行を決め、Union Pacific Railroad(ユニオン・パシフィック鉄道)と交渉を持ったが折り合いがあわず、鉄道はニコディーマスから離れたところを通ることになってしまった。19世紀末、鉄道の通らない町からは次第に賑わいが遠ざかっていった。20世紀に入り、大恐慌、旱魃などの天災が次々とこの小さなコミュニティーを襲い、人口減少に拍車がかかり、1935年にはわずか76名の人口となってしまった。
今日ではわずか20名ほどが残るばかりとなってしまったが、年に1回7月の最後の週末は奴隷解放を記念して町には全米からニコディーマス出身者とその家族、子孫がニコディーマスを訪れる。このときばかりは、ニコディーマスは、かつての賑わいを取り戻す。1996年にニコディーマスは、町全体が国立史跡に指定され、貴重な最古の黒人開拓団の町の保存の取組みが行われている。
(国立公園局のHP)

1851年ララミー砦条約では、オレゴン・トレールの幌馬車隊を襲わない代わりに、アラパホ族、シャイアン族を含むプレーリーの原住民の伝統的な土地の領有を保障するとともに、補償金が支払われることとなった。これによって、ワイオミング州東南部、ネブラスカ州南東部、コロラド州東部、カンサス州西部にまたがる広大なアラパホ族、シャイアン族の土地は守られたはずであった。一方、米墨戦争により西南部に広大な領土が追加され、サンタフェ・トレールの通行量が急増したことに危機感を募らせたコマンチ族、アパッチ族ら原住民の襲撃からサンタフェ・トレールの利用者を保護するため、連邦政府は、サンタフェ・トレールのルート沿いに
ユニオン砦などの砦を建設し、エスコート部隊を駐在させた。
1858年にコロラド・スプリングス近郊で金が発見されると、サンタフェ・トレールを通り、アラパホ族、シャイアン族の土地を横切って、コロラドに金採掘に向かう人のラッシュが生じた。危機感を募らせたアラパホ族、シャイアン族は、カンサス、コロラドでサンタフェ・トレールを襲い始めた。コロラド、カンサスでのサンタフェ・トレールの利用者を保護するため、連邦政府は、これらの地域にも
砦を建設することとした(PDF)。この一環で、1859年Pawnee River(ポーニー川)がアーカンソー川と合流する地点の近くにCamp Alert(アラート駐屯地)が設置された。1860年6月には、より堅固な砦をその西に建設し、当時の陸軍主計監Benjamin Larned(ベンジャミン・ラーニッド)大佐の名前からラーニッド砦と名付けられた。

ラーニッド砦
事態を打開するため、1861年2月18日、コロラド州のFort Wise(ワイズ砦)にアラパホ族、シャイアン族の和平派の酋長が集められ、新たな条約が結ばれた。この条約で、アラパホ族、シャイアン族は1851年ララミー砦条約で保障された土地の大部分(12/13)を放棄し、コロラド東南部に設定された居住区に移り住むこととし、連邦政府は衣服、食料、毛布などの必需品を提供することを約束した。ラーニッド砦には、原住民監督官のEdward Wyncoop(エドワード・ウィンクープ)、Jesse Leavenworth(ジェス・レベンウォース)らが駐在した。毎年秋には、ラーニッド砦の周辺に必需品を受け取りに来た原住民のテントが立ち並んだという。
しかし、アラパホ族、シャイアン族の主戦派は、ワイズ砦条約は自分たちの了承なく結ばれたもので無効であると主張し、コロラド東部、カンサス西部での伝統的な狩りを止めることはなく、Dog Soldiers(ドッグ・ソルジャー)と呼ばれるグループを組織し、サンタフェ・トレールの利用者や開拓民を襲撃した。このため、とりわけコロラドの東部でアラパホ族、シャイアン族らの戦闘派と連邦軍、コロラド民兵らの間で戦闘が繰り広げられた。1864年には、コロラドの民兵がSand Creek(サンド・クリーク)の畔でキャンプ中の和平派のアラパホ族、シャイアン族を襲い、虐殺するという痛ましい事件も起きている。この結果、ラーニッド砦より以西のサンタフェ・トレールは軍のエスコート付きでなければ通行禁止となった。1865年10月に必需品を提供する代わりにオクラホマ・カンサスへの居留区に移住すること等を内容とするLittle Arkansas Treaty(リトル・アーカンソー条約)が結ばれるが、すぐに崩壊し、1867年に入り、ミズーリー地区司令官
Winfield Hancock(ウィンフィールド・ハンコック)少将はラーニッド砦よりシャイアン族らへの討伐隊を派遣したが、効果的な戦果は得られなかった。1867年10月には居留区の面積をさらに削減するMedicine Lodge Treaty(メディスン・ロッジ条約)が結ばれた。これによってシャイアン族、アラパホ族はオクラホマの居留区に移住し、ラーニッド砦における原住民監督官は廃止となった。
しかし、1868年にはこれに不満を覚えるシャイアン族の一派がサンタフェ・トレールの幌馬車隊を襲い、テキサスまで踏み込み、開拓民を襲撃するという事件が起きた。ミズーリー地区司令官
Philip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将は、
George Custer(ジョージ・カスター)中尉率いる第7騎兵隊を討伐のため派遣した。(この続きは、
Washita Battlefield National Historic Site(ワシタ戦場跡国立史跡)のところで。)この結果、カンサスでの組織的な原住民の抵抗は消滅した。1870年代に入ると鉄道がカンサスまで延伸され、鉄道建設労働者の安全確保がラーニッド砦の兵士の重要な任務となった。鉄道の到来により、サンタフェ・トレールはもはや意義を失い、1878年にはラーニッド砦も放棄された。
現在のラーニッド砦は、1868年の頃の様子を今に伝えている。ここの建物は、武器庫や守衛所に用いられた6角形のBlockhouse(丸太小屋)を除けば、オリジナルの建物である。このため、ラーニッド砦は、1860-70年代のプレーリーの原住民との紛争が激しかった当時の西部の砦の様子を正確に伝える貴重な遺跡となっている。

士官の部屋
(国立公園局のHP)


見渡す限りの草原が風に揺れ、ゆるやかな丘が波打つように地平線に広がる。大草原の小さな家のローラが目にした大草原は、インガルス一家がカンサスに入植したころ、アメリカ中西部で一般的な風景であった。北はカナダから南はテキサスまで、大草原は延々と続いていた。大草原の中でもインガルス一家が家を構えた地域は、Tallgrass(トールグラス)と総称される背の高い草で覆われた草原であった。かつてはバッファローの群れが彷徨い、カンサス州の名前の由来となったKansa(カンサ族)、カンサス州に町の名前を残すWichita(ウィチタ族)、Osage(オサゲ族)などが狩りを行っていた。バッファローは毛皮のために乱獲により姿を消し、トールグラスの大草原もアメリカ人の入植に伴い農場に変えられていき、次々と姿を消した。Tallgrass Prairie National Preserve(トールグラス・プレーリー国立自然保護区)では、ごくわずかとなったトールグラスの草原を保護する努力が行われている。
アメリカ人の入植の前には、アメリカ中西部には、トールグラスの草原が
南北に縦断し、その面積は1.4億エーカー(57万平方キロ)あったと言われるが、現在ではその4%未満しか残されていない貴重な生態系である。トールグラスは、
Big Bluestem(ビッグ・ブルーステム)、
Indiangrass(インディアン・グラス)といった比較的丈の高い草の総称で、1.5~2m程度まで育つため、普通の人もすっぽり隠れてしまうほどだ。トールグラス・プレーリー国立自然保護区では、このトールグラスの草原が10,894 エーカー (44平方キロ)保護されている。
アメリカの幅広い地域で姿を消したトールグラスの草原がなぜカンサス州の東部の一部に残っているのか。その秘密はその土地にある。ここはFlint Hill(フリント・ヒル)と呼ばれる場所で、その名前の通り、火打石の丘である。今から2-3億年前、この地方は温暖な浅い海であった。浅い海で砂や貝殻、海洋生物の死骸などが堆積し、それらは長い年月を経て、石灰岩、頁岩に変わっていた。とりわけ石灰岩は二酸化珪素が凝縮した部分を含み、長年の浸食により柔らかい石灰岩や頁岩は削られ、硬い火打石の部分が残っていった。このため、フリント・ヒルには硬い地盤からなる丘が残された。硬い地盤は農業には不向きであるため、牧畜に使用され、トールグラスの草原は残されることとなったのである。

フリント・ヒル
トールグラスの草原は、自然あるいは人工の野火によって若木や外来種が淘汰されることで生育を助けられてきた。このため、トールグラス・プレーリー国立自然保護区でも冬に野火を放ち、環境のコントロールに努めている。ここには400種類以上の植物が見られ、とりわけ背丈の高い草は小さな鳥を呼び、鳥類も150種類近くを数えるという。トレールを歩くと、あちこちで小鳥のさえずりが聞こえてくる。
また、自然保護区のある場所は、かつてSpring Hill Farm and Stock Ranch(スプリング・ヒル農場/ストック牧場)という牧場があった場所である。1878年にコロラドから移って来たStephen Jones(スティーブン・ジョーンズ)が始めた牧場である。この土地の地盤を形成する石灰岩のカルシウムは土壌に溶け込み、ミネラルの豊富な牧草が育ったことから、ジョーンズの牧場は成功を収め、ここに大邸宅を構えるに到ったという。この邸宅は1881年に石灰岩を用いて建設されたものであり、さながらトールグラス牧場御殿とでもいうべきものだろう。

訪問したのが春先であったため、緑の大草原の海原が見られなかったのは残念である。
(国立公園局のHP)

アンドリュー・ジョンソン大統領の拒否権を覆して成立した1866年公民権法、さらにそれを格上げした1868年の憲法第14修正条項は、黒人への市民権の付与ととともに、権利の平等を確立するはずであった。南部の保守派層は、KKKを結成し、暴力に訴えるとともに、「平等」の解釈を歪めることによって、白人の絶対的優位の維持を企んだ。1868年にはアラバマで黒人、白人を隔離する学校制度が始められた。1875年の公民権法は公共施設への平等なアクセスを義務付けたが、南部ではその施行は無視された。逆に南部諸州では、黒人と白人を隔離しても、同等のサービスなどが受けられるのであれば憲法に違反しないとの解釈の下、この解釈を制度化する法律(Jim Crow Acts)が次々に可決された。この考えは法曹界も支配するようになり、1883年に最高裁は、1875年公民権法を違憲とした。1896年のPlessy v. Ferguson(プレッシー対ファーガソン)の判決で、最高裁は、ルイジアナ州の鉄道が黒人と白人の車両を分けていても憲法に違反しないとの判断が下され、人種隔離政策に合憲のお墨付きを与えるに至った。1908年のBerea College vs. Kentucky(ベレア大学対ケンタッキー州)で、最高裁は私学にも人種隔離政策を強制することも合憲であると判断を広げた。こうして南部を中心として社会の隅々に黒人と白人を隔てる壁が形成されていった。
このような壁を打破するため、1909年に
W.E.B. Du Bois(W.E.B.デュボア)らによってNational Association for the Advancement of Colored People(全米有色人種地位向上協会:NAACP)が結成され、リンチの廃止などを求めたが、黒人と白人を隔てる壁は厚く高かった。NAACPは、社会変革の糸口を司法に求め、1939年にLegal Defense and Educational Fund(法律弁護教育基金)を設け、人種隔離政策を法廷で争う専門組織を立ち上げた。第2次世界大戦により活動は中断したが、1946年には、Morgan vs. Virginia(モーガン対ヴァージニア州)において州際バスで人種隔離することは憲法違反との最高裁判決を勝ち取った。1948年には軍隊での人種隔離が禁止された。NAACPの次なる狙いは学校教育であった。
1949年からNAACPは、原告となる黒人家庭を募り、公立学校での人種隔離政策を法廷に持ち込み始めた。その一つがBrown vs. Board of Education of Topeka(ブラウン対トピーカ市教育委員会)である。1950年、カンサス州トピーカ市の20人の黒人生徒が白人校への入学を求め、教育委員会に拒否された。この結果、子供たちは遠くの黒人校Monroe School(モンロー校)に通わなくてはならなくなった。これを受けて13名の父兄は、1951年2月、NAACPの支援を受けて、トピーカ市教育委員会を相手取り訴訟を提起した。原告であるOliver Brown(オリバー・ブラウン)牧師が原告リストの一番上に乗っていたため、この訴訟はブラウン対トピーカ市教育委員会として知られることとなる。地方裁は、人種隔離政策は黒人の師弟に悪影響を与えているとの事実認定を行いつつも、プレッシー対ファーガソンを引用し、公教育での人種隔離政策は合憲であるとの判断を下した。決定は直ちに上訴された。

モンロー校
同様の訴訟は、各地でも提起された。デラウェア州でBelton (Bulah) vs. Gebhart(ベルトン対ゲブハート)、ワシントンDCでBolling vs. Sharpe(ボーリング対シャープ)、サウスカロライナ州でBriggs vs. Elliott(ブリッグス対エリオット)、ヴァージニア州でDavis vs. Prince Edward County School Board(デービス対プリンス・エドワード郡教育委員会)が提起され、これら同種の訴訟は、最高裁審理の際に、一本にまとめられ、Brown vs. Board of Education(ブラウン対教育委員会)と呼ばれるようになった。これらの訴訟の原告たちは、近くの良い学校で子供に良い教育を受けさせたいと願う普通の人々であった。NAACPの首席弁護士であった
Thurgood Marshall(サーグッド・マーシャル)は、隔離自体が平等でないと強く訴えた。
1954年5月17日、最高裁の判決が下された。最高裁長官
Earl Warren(アール・ウォレン)は、白人と黒人を隔離すること自体が違憲であるとの判決を下した。全会一致の判断であった。公教育における人種隔離政策については違憲であるとの判断が下されたが、南部諸州の保守派の抵抗は強く、これを実現するためには、さらなる道のりが待っていた。(この続きは、
Little Rock Central High School National Historic Site(リトル・ロック・セントラル高校国立史跡)のところで。)
この訴訟の舞台となったカンサス州トピーカ市のモンロー校は、ビジターセンターが置かれ、公民権運動の歴史を展示する博物館が併設されている。この展示物を見ると自由と平等の国アメリカのもう一面が見えてくる。
(国立公園局のHP)


ミネソタ州、アイオワ州、ミズーリー州、アーカンソー州、ルイジアナ州の西は、かつては原住民の領土として区別され、アメリカ人の入植は禁止されていた。原住民とアメリカ人開拓者との間の紛争を防止するために、このかつてのフロンティアに沿って南北の要所要所に砦が建設された。Fort Scott(スコット砦)も、その一つである。これらの砦には、Dragoon(竜騎兵)と呼ばれる歩兵兼騎兵の部隊が配置された。竜騎兵は機動力を活かして周囲の治安維持に努めた。
1821年のミズーリー州設定以降、ミズーリー州の西は原住民居住区とされた。当時ミズーリーの西に住んでいたKansa(カンサ族)から土地を取得し、そこから東に住む原住民を次から次にミズーリー以西に移り住まわせた。1830年のIndian Removal Act(原住民強制移住法)成立以降、この動きは加速した。増える原住民からの襲撃を恐れるアメリカ人開拓民は、軍の部隊の駐留を望んだ。習慣も伝統も出身地も違う原住民が隣り合って住むようになったほか、さらに西に住むプレーリーの原住民とも接触するようになり、原住民間の紛争も勃発した。
こうした状況を背景に、スコット砦は、かつての原住民とアメリカ人との居住区の境であるミズーリー州の西境を少し超えたところに、1842年に建設された。スコット砦には、竜騎兵2大隊、130名が配備された。初代司令官にはBenjamin Moore(ベンジャミン・ムーア)大尉が任命された。当時の軍の最高司令官
Winfield Scott(ウィンフィールド・スコット)にその名前は由来する。

スコット砦
スコット砦の任務には、原住民とアメリカ人開拓者の間の紛争防止、現在のカンサス州に居留する原住民間の紛争防止、当時の交易ルート、
サンタフェ・トレールの通行の安全の確保が主なものであった。スコット砦の竜騎兵は、1843年には、2度サンタフェ・トレールを行くキャラバン隊のエスコートのための遠征を行っている。1844年には、北のFort Leavenworth(レーブンウォース砦)の部隊ともにPawnee(ポーニー族)とSioux(スー族)との争いに介入するための遠征を行っている。1845年には、
Stephen Kearny(スティーブン・カーニー)大佐による、99日2,200マイルにわたるプレーリー原住民居留区域の大遠征に随行している。米墨戦争にも2大隊が派遣され参加している。しかし、この間もサンタフェ・トレールや
オレゴン・トレールを利用して人々は次々と西に移住を続け、米墨戦争の勝利で大きく西部の領土が広がると、フロンティアはすっかり西に過ぎ去ってしまい、スコット砦の任務は事実上終了し、1853年に放棄された。1855年に建物はオークションで売却され、これが現在のフォート・スコットの町の原型となった。
1855年に、ネブラスカとカンサスがアメリカ人入植者に開放されると、今度は奴隷問題に関する新しい州の立場を巡って、とりわけカンサスでは奴隷制度賛成派と反対派が血みどろの争いを行うようになった。スコット砦も旧士官官舎は奴隷反対派のホテルとなり、旧歩兵営舎は奴隷賛成派のホテルとなったほか、フォート・スコットの大部分の住民は奴隷賛成派で、その周囲の住民は奴隷反対派というように、二分化した。これらの事実上の内乱を鎮圧するために、連邦軍は、1857年と1858年の2度に渡って部隊をスコット砦に派遣し、治安維持に当たらせた。さらに南北戦争が始まると、スコット砦には、地区司令部、補給基地として機能したほか、カンサスは初めて黒人兵士のリクルートを行った州であり、黒人部隊の訓練がスコット砦で行われた。ミズーリーやアーカンソーなどの戦乱を避けて、ここに避難して来る人々も多かった。南北戦争が終了するとこれらの臨時の任務も終わりを告げ、砦の建物は再びオークションにかけられ、フォート・スコットの町の中心街に変わっていった。これらの建物の多くは、その後もそのまま使用されたため、Fort Scott National Historic Site(スコット砦国立史跡)に指定された今も、当時の様子を伝えている。
(国立公園局のHP)
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