Fort Donelson National Battlefield
Shiloh National Military Park
Andrew Johnson National Historic site
Big South Fork National River and Recreation Area
Obed Wild and Scenic River
Stones River National Battlefield
Great Smoky Mountains National Park


南北戦争の端緒では、西部戦線は、境界州を南北どちらが握るかが鍵となった。境界州であったケンタッキー州は、知事が南部親派、議会が北部親派であったため、どちらかに肩入れすることができず、中立を宣言した。これに対して、1861年9月3日、
Leonidas Polk(レオニダス・ポーク)少将率いる南軍は、ケンタッキー西部のミシシッピー川のほとりにあるColumbus(コロンバス)を占拠した。北軍もUlysses S. Grant(ユリシス・S・グラント)准将がその北東にあるPaducah(パドゥーカ)を占拠し、南部のケンタッキー支配を防いだ。これに続いて、グラントは、ミシシッピー川の支流、テネシー川、カンバーランド川を押え、テネシー州への侵攻のルートを確保し、ケンタッキー州とテネシー州中西部の掌握を図るため、両河川に近接するFort Henry(ヘンリー砦)とFort Donelson(ドネルソン砦)の攻略をハレックに進言し、一度は拒否されるが、リンカーンからの作戦行動要請があり、承認された。
グラントは、すかさず海軍の
Andrew Hull Foote(アンドリュー・ハル・フット)司令官との連携により、テネシー川東岸に位置するヘンリー砦の攻略に着手する。グラントは部隊を2手に分け、ヘンリー砦の北方とテネシー川を隔てた対岸に1連隊ずつ配備した。ヘンリー砦には3,000名が駐留していたが、Lloyd Tilghman(ロイド・ティルマン)准将は、洪水でほとんど重火器が使用不能となっている状況であったため、ヘンリー砦からその東のカンバーランド川の辺にあるドネルソン砦にほとんどの兵を移した。1862年2月6日、フットの指揮する7隻がヘンリー砦に砲撃を浴びせたところ、ほとんど戦闘不能の状態であったため、ティルマン准将はヘンリー砦を明渡した。これによってテネシー川の航行権は北軍が制することとなった。
グラントはすかさず部隊をドネルソン砦に向けて進軍させた。ドネルソン砦を守るのは、
John B. Floyd (ジョン・B・フロイド)准将以下17,000の兵士であった。フロイド准将は、戦前ブキャナン政権下で戦争長官を務め、南部諸州の連邦離脱前夜連邦軍兵士を全国に散らすとともに、連邦軍の武器・弾薬を南部に移し、南部諸州の連邦離脱を助けたため、北部から追求されている政治家であった。南軍は、ドネルソン砦の周囲に塹壕を築いて部隊を配備した。

南軍陣地近くに立つ南軍記念碑
2月14日、フットの6隻の艦隊がドネルソン砦に砲撃を加えたが、ドネルソン砦からの砲撃で2隻が撃沈され、残りも大きな打撃を受けて逆に退却を迫られた。しかし、この間にグラントの率いる北軍には、応援部隊が追加されて、総勢兵力は24,000に達し、南軍の防衛網をぐるりと取り囲んだ。

ドネルソン砦砲台
この情勢にドネルソン砦の司令官たちは、このまま包囲が続けば降伏せざるを得ないと考え、ドネルソン砦を脱出することを決めた。15日、南軍
Gideon J. Pillow(ギデオン・J・ピロー)准将の師団が北軍
John McClernand(ジョン・マクラーナンド)准将の師団に攻撃を開始した。このときグラントは、フットと作戦協議を行っており、戦線を離れていた。ピローの師団は、マクラーナンド師団を押し返し、北軍右翼に脱出経路が開かれた。しかし、同時に攻撃するはずの
Simon Buckner(サイモン・バックナー)准将の師団との連携が悪く、その間に北軍は
Lee Wallace(リー・ワレス)准将配下の連隊が応援に駆けつけた。(ここまでの両軍の動きは、
ここを参照。)

ドネルソン砦入り口
だが、ピローは、補給が必要と考え、脱出経路が開いているにもかかわらず攻撃を中止してしまった。グラントは、戦線に戻り、
C.F. Smith(C.F.スミス)准将に手薄になった右翼への攻撃を命じた。フロイドは、この時点で防衛網が突破されることを怖れ、全軍に引揚げを命じてしまった。この結果、北軍は失った陣地を取り返すことができた。
その夜、フロイドは自力での脱出は困難だし、翌日の右翼への攻撃は持ちこたえられないが、自分が降伏すれば反逆罪に問われるおそれがあるため、指揮をピローに委ねて脱出することにした。ピローもバックナーに指揮を委ね、脱出することとし、バックナーは翌日降伏することとした。
Nathaniel Bedford Forrest(ナザニエル・ベッドフォード・フォーレスト)は、降伏を拒否して700名を連れて、脱出した。16日、バックナーは停戦を申し入れ、降伏の条件を尋ねた。バックナーは、グラントが軍隊から離れたときに金銭支援をしたことがあったため、グラントからは厳しくない条件が出されるであろうと期待した。しかし、グラントの回答は、”Unconditional Surrender”(無条件降伏)であった。バックナーにはこれを受け容れるしか選択はなかった。13,000もの南軍兵士が投降した。

降伏が行われた南軍HQのDover Hotel(ドーバー・ホテル)
グラントはこの勝利で一躍北部のヒーローに踊り出て、少将に昇格した。グラントの名前の最初の2つの頭文字U.S.をもじって、”Unconditional Surrender” Grant(無条件降伏のグラント)と呼ばれるようになった。また、この勝利によりカンバーランド川の航行権を確立し、北軍は、ケンタッキーに加え、テネシーの中西部も支配下に置くこととなった。南軍の西部戦線の総司令官の
Albert S. Johnston(アルバート・S・ジョンストン)大将は、兵力をミシシッピー州の北部のCorinth(コリンス)に結集し、挽回を期すこととした。南北両軍は、ミシシッピー州との境界近くのテネシー州
Shiloh(シャイロー)で激突することとなる。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)

Fort Henry(ヘンリー砦)とFort Donelson(ドネルソン砦)を失った南軍は、ケンタッキー州、テネシー州中部を明渡さざるを得なくなり、ミシシッピー州北部のCorinth(コリンス)で勢力の再結集を図り、巻き返しを図ろうと考えた。南軍の西部戦線司令官
Albert S. Johnston(アルバート・S・ジョンストン)大将は、ここに55,000の兵力を集め、再結集した部隊をArmy of Mississippi(ミシシッピー軍)として再編した。一方、北軍の西部戦線の司令官となった
Henry Halleck(ヘンリー・ハレック)は、グラントのArmy of the Tennessee(テネシー川軍)にテネシー川を遡り、
Don Carlos Buell(ドン・カルロス・ブーエル)少将の率いるArmy of the Ohio(オハイオ川軍)と合流し、ジョンストン率いる南軍を討つように指令した。(ハレックは、グラントのことを快く思っておらず、グラントを解任し、グラントの部下であった
C.F. Smith(C.F.スミス)准将に遠征部隊の司令官を任せようと画策していたところ、リンカーンの介入でグラントが率いることとなったとの経緯がある。)
グラントは、49,000の兵を率いて南に下り、テネシー州南部のミシシッピー州との境に近いShiloh(シャイロー)と呼ばれる場所にあるテネシー川の港Pittsuburg Landing(ピッツバーグ・ランディング)でブーエルを待つこととし、その間を部隊の多くを占める新兵の訓練に充てた。このとき、南軍の攻撃を予想せず、部隊は散らばってキャンプを行い、塹壕建設など防御体制を整えなかったことが後に大きな問題となる。ジョンストンは、北軍に奇襲をかけることを選択し、1862年4月3日、コリンスを出発した。南軍も新兵が多く、進軍が遅い上に敵に動きを察知してくれと言わんばかりの行動をとっていたことから、NO.2の
P.G.T. Beauregard(P.G.T. ビューリガード)大将はいったん遠征を中止することを進言したが、ジョンストンはあくまでも攻撃を指示した。

ピッツバーグ・ランディング
4月6日、ようやく攻撃態勢を整えた南軍は、早朝、無防備な北軍に襲い掛かった。しかし、南軍の攻撃も、散らばった北軍部隊に合わせて部隊を展開したため、部隊間の連携はほとんど困難となり、北軍の左翼に攻撃を集中させ、北軍をテネシー川から切り離し、退路と援軍を断つとの作戦を実施することが困難となった。戦場は混乱を極めたが、南軍の先制攻撃を予想していなかった北軍は驚きと混乱に陥り、新兵の多くは、持ち場を離れ、ピッツバーグ・ランディングに向けて退却を始めた。しかし、混乱の中で、北軍左翼の
W. H. L. Wallace(W. H. L. ワラス)准将と
Benjamin Prentiss(ベンジャミン・プレンティス)准将の師団の一部は、天然のくぼ地を塹壕として利用し、南軍が62の重火器による集中砲撃を行うまで7時間も南軍の攻撃を食い止めた。ワラス准将は戦死し、プレンティス准将は捕虜となった。ここは
Hornet’s Nest(スズメバチの巣)と後に呼ばれるようになり、ここでの奮闘は、グラントに北軍を再結集させる時間的余裕を与えた。ジョンストンは、付近の兵士を結集し、自らこれらの兵を率いて、北軍の左翼へ攻撃を仕掛けた。ジョンストンは、膝裏に被弾するが、後方に退くことを拒否し、そのまま指揮をとりつづけたところ、出血多量で亡くなってしまう。グラントは、退却してきた兵士を鼓舞し、ピッツバーグ・ランディングの手前に重火器53基を備えて最終防衛ラインを敷いた。ジョンストンの後、指揮を引き継いだビューリガードは、この最終防衛ランを攻撃するが、跳ね返され、こう着状態になり、夜を迎えた。夜のうちに、ブーエルの18,000の応援部隊が到着した。(ここまでの両軍の配置は、
ここを参照。)
翌7日早朝、前日の攻勢に勢いを駆って、ビューリガードは、ブーエルの援軍が到着したことを知らずに、北軍に総攻撃を仕掛けた。しかし、55,000に膨れ上がった北軍は、これを跳ね返し、数で劣る南軍をじわじわとシャイロー教会の付近まで押していった。ビューリガードは、Water Oaks Pond(ウォーター・オークス池)で北軍の右翼に反対攻勢をかけ、北軍の進軍を食い止めるが、打ち破るに至らなかった。弾薬も底をつきかけ、ビューリガードはコリンスへの撤退を余儀なくされた。(両軍の配置は、
ここを参照。)

シャイロー教会
シャイローの戦いは、死傷者が両軍あわせて24,000に上り、両軍とも兵力の1/4近くを失う大激戦となった。このため、シャイローの戦いで勝利を収めたものの、グラントは初日の失敗の責任を責められ、彼を解任すべきとの声が上がった。しかし、リンカーンは、"I can't spare this man; he fights."(この男をはずすことはできない。彼は戦うからだ。)と述べ、グラントを擁護した。だが、この後、グラントはハレックに干されてしまう。北軍は、この間、コリンス、メンフィスに進軍し、テネシー州西半分の支配を確保し、ミシシッピー州侵攻への足がかりを築いた。ハレックは、北軍全体の司令官に登用されてワシントンに赴任し、これによってようやくグラントは復権することができた。グラントの次なるターゲットは、ミシシッピー川を見下ろす要塞都市
Vicksburg(ヴィックスバーグ)を攻略し、ミシシッピー川の航海権を握り、南部を東西に分断することであった。

南軍記念碑
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


貧しい生い立ちから立身出世するストーリーがアメリカのサクセス・ストーリーならば、この人物ほどアメリカのサクセス・ストーリーを体現した人もあまりいないだろう。彼の名前は、
Andrew Johnson(アンドリュー・ジョンソン)。洋服の仕立屋から大統領になった男だ。大統領時代には、合衆国憲法を信奉するその姿勢は、しばしば議会とぶつかり、よくも悪くも穏健派としての姿勢を貫いたために、あやうく弾劾されそうになった大統領として不名誉な歴史を残している。しかし、公に捧げる心は生涯変わらず、大統領後も上院議員として働いた経歴をもつ。テネシー州東部のGreenville(グリーンビル)の街に彼の邸宅などが保存されている。
ジョンソンは、1808年12月29日にノースカロライナ州のRaleigh(ラレイ)に生れた。生家は貧しく、ホテルのポーターとして働く父親も川で溺れそうになった知り合いを助けて後、体調を崩し、3歳のときに亡くしている。このため、小さいときから洋服の仕立屋に奉公に出されたが、15歳のときにそこを逃げ出し、カロライナ、テネシーを彷徨った後、1826年にテネシー州のグリーンビルに落ち着き、洋服の仕立ての仕事を始めた。翌年、靴屋の娘であった
Eliza McCardle(エリザ・マッカードル)と結婚した。教育をほとんど受けたことがなかったジョンソンは、エリザの手ほどきで、読み書き、算数を学んだ。仕事中に書を読んでくれる人を雇うほど、熱中した。そして地元のディベート・クラブにも参加し、弁舌の腕を磨いた。彼のビジネスも成功し、町の有力者として認められるようになった。

ジョンソンの洋服仕立屋
1828年には、グリーンビルの市会議員に選ばれたのを皮切りに、ジョンソンの政治家としての人生は始まり、1830年にグリーンビル市長、1835年にテネシー州下院議員に選ばれた。1837年の再選は失敗するが、1839年に返り咲き、1841年にはテネシー州の上院議員に当選した。1843年に合衆国下院議員に当選し、4期務めた。合衆国議員としては、農業の振興、財政規律の保持、州の権利の維持、憲法の遵守を基本思想とし、連邦保有地の払い下げ、テキサスの連邦加入を支持した。一方で、南部の議員としては珍しく、州の権利よりも憲法の規定を重んじる考えをとり、他の南部出身の議員としばし衝突した。1851年に家族ともどもより広い家に移り、その家をHomestead(ホームステッド)と呼んだ。

ホームステッド
1855年にはテネシー州知事に当選し、公立学校の改革や図書館の普及に務めた。そして1857年には合衆国上院議員に当選した。上院議員として、
ホームステッド法の成立に尽力する一方で、南北戦争の前夜、奴隷問題への介入は州の権利に対する不当介入であり、南部諸州は連邦離脱も辞さないと叫ぶ南部出身の同僚議員を尻目に、連邦離脱は憲法違反であると主張し、南部出身議員と鋭く対立した。このために1861年に暗殺されかかる事件が発生した。リンカーンの大統領就任を機に、南部諸州が連邦を離脱し、南部の同僚議員が次々と辞職していく中で、ジョンソンは唯一その職にとどまった南部選出の上院議員となった。彼の自宅は接取され、軍の病院に変えられた。家族も命からがら南軍占領区域を突破し、ナッシュビルにたどり着いた。北軍によるメンフィスとナッシュビルの占領により、東部を除き、テネシーが北軍の勢力に入ると、リンカーンはジョンソンを知事に任命した。ジョンソンは、期待に応え、テネシーの反連邦勢力を封じ込めた。1864年の大統領選挙で、リンカーンは、戦後の南部との融和をにらみ、南部出身で民主党のジョンソンを副大統領候補に選び、リンカーンの再選により、ジョンソンは副大統領となった。しかし、その直後、ジョンソンの運命は大きく変わる。リンカーン大統領の暗殺である。リンカーン大統領の死により、1865年4月15日、ジョンソンは第17代合衆国大統領に就任した。
ほどなく南北戦争は終了し、南部のリコンストラクションが始まった。議会は、急進的な共和党で占められ、連邦政府による徹底的な権利の平等の実現を迫った。ジョンソンは、リンカーンの立場を引き継いで、南部諸州の早期連邦復帰を図るため、奴隷制度を廃止さえすれば、戦前と同じ状態で復帰を認めるとの立場をとった。このため、ジョンソンは、黒人の契約締結権、提訴権、証言権、財産権などを保障する1866年公民権法や市民権の付与、権利の平等、デュー・プロセスの保障を謳った憲法修正第14条などに反対した。議会は、南部から急進派が追放されることを恐れ、議会の承認なく大統領が重要ポストにある者を解任することを禁じる法案(Tenure of Office Act:公務員任期法)を可決した。1866年の中間選挙で、共和党が躍進し、大統領の拒否権を覆すに足る3/4の議席を占め、大統領の拒否権を無効化させた。
1868年にジョンソンは、議会の急進派と手を組む、戦争長官の
Edwin Stanton(エドウィン・スタントン)を解任しようとした。議会は、これを公務員任期法違反と主張し、ジョンソンは、公務員任期法がそもそも憲法違反であると主張した。同年2月24日、議会下院は、ジョンソン大統領の弾劾を決議し、舞台は上院に移った。上院が2/3以上で大統領の有罪を評決すると、ジョンソンは解任されることとなる。上院は、3月30日からヒアリングを開始し、5月16日に投票が行われた。有罪35票、無罪19票で、わずか1票の差で無罪となった。最後の無罪票は、カンサス州選出の
Edmund Ross(エドマンド・ロス)上院議員によって投じられた。なお、1926年に公務員任期法は最高裁により憲法違反と判断された。
ジョンソンは、大統領任期中、1867年にロシアからアラスカを購入したほか、1868年のクリスマスの日に南軍従事者の恩赦を決定した。これらは、当時激しく批判された。1868年の大統領選挙で大統領候補に選ばれることなく、1869年にグリーンビルに帰った。しかし、国政への思いは断ちがたく、1868年に上院、1872年に下院に出馬するが、いずれも敗退し、上院議員として国政に復帰するのは、1874年の選挙のことであった。ジョンソンは、大統領任期終了後上院議員を務めた唯一の大統領となった。ジョンソンの大統領としての評価は議論を呼んでいる。
(国立公園局のHP)


Big South Fork National River and Recreation Area(ビッグ・サウス・フォーク国立河川・レクリエーション地域)は、ミシシッピー川の支流であるCumberland River(カンバーランド)の南側の支流流域123,000エーカー(500平方キロ)の広大な地域を対象とし、テネシー州とケンタッキー州の両州にまたがっている。公園内には、カンバーランド川南支流とさらにその支流であるNew River(ニューリバー)、Clear Fork(クリア支流)、North White Oak Creek(北ホワイト・オーク川)などが流れ、Cumberland Plateau(カンバーランド高原)を深く刻み、鋭く切り立った深い峡谷と白波を立てて流れる激流は、多くの急流下りを愛する冒険家を魅惑している。
カンバーランド高原は、ペンシルベニア州西部の高原地帯Allegheny Plateau(アレゲニー高原)が西南に延びたもので、3.5億年前に暖かい浅い海の底で形成された石灰岩の上に、3億年ほど前に堆積した土砂、泥などが砂岩として重なったものでできている。これらの地層はおよそ2億8,500万年前に2,000フィート(600m)の高さまで隆起し、比較的やわらかく削られやすい地層であるため、河川などによる浸食が進んだ。このため、ビッグ・サウス・フォークの流域にも、アーチ、メサ、尖塔などの自然の彫刻を見ることができる。なお、この石灰岩の層には石油や天然ガス、砂岩の層には石炭が含まれている。このため、カンバーランド高原は、19世紀初頭の岩塩の採取に始まり、19世紀後半には石炭の採掘、森林の伐採が行われた。公園内にある
Blue Heron(青サギ)炭鉱跡は、1932年から1967年まで採掘が行われた炭鉱である。最近では石油や天然ガスの採掘が行われている。
ビッグ・サウス・フォークとその支流は、クラスI(初心者レベル)からクラスIVレベル(上級者レベル:急流、岩、大きな波あり)まで様々な流れがある。大岩と切り立つ崖に囲まれた峡谷をすり抜けていくスリルは多くのPaddler(パドラー)を魅了して止まない。この中でもニューリバーとクリア支流の合流地点直下の
Double Falls Rapid(二段急流)(WMV)、
Washing Machine(洗濯機)(WMV)、
The Ell(エル)(WMV)と続く急流地帯はビッグ・サウス・フォークの3大急流と呼ばれ、パドラーの挑戦心をかきたてている。
Angel Falls(エンジェル・フォールズ)は船から下りて船をかついで下ることが勧められているので注意が必要だ。
柔らかい砂岩層は、長い年月を経て自然の彫刻刀に削られ、ハイカーが楽しめる数々の眺望が形成されている。園内には合計で300マイル(480km)以上のトレールが設定されており、ビッグ・サウス・フォークとその支流が刻んだ見事な風景を楽しむことができる。まずは切り立った崖の上から風景を眺めてみよう。園内には川に沿って、East Rim Overlook(イースト・リム展望地点)、
Devil’s Jump Overlook(悪魔のジャンプ展望地点)、
Bear Creek Overlook(ベア川展望地点)、
Angel Falls Overlook(エンジェル・フォールズ展望地点)、
Honey Creek Overlook(ハニー川展望地点)など多くの展望地点が設定されている。公園の北側に位置する
Yahoo Falls(ヤフー滝)は高低差が113フィート(34m)あり、ケンタッキーでも最も落差の大きい滝となっている。公園の東部に位置する
Twin Arch(双子アーチ)や公園の北部に位置する
Split Bow Arch(スプリット・バウ・アーチ)は、米国東部では珍しい石のアーチで、人気の場所となっている。

イースト・リム展望地点から
また、園内には180マイル(288km)以上の乗馬用トレールが整備されており、乗馬も人気のアクティビティーとなっているほか、公園の北側には観光用のBig South Fork Scenic Railway(ビッグ・サウス・フォーク景観鉄道)が走っており、古のKentucky & Tennessee Railway(ケンタッキー=テネシー鉄道)の路線の一部16マイル(26km)の旅を楽しむことができる。ビッグ・サウス・フォーク国立河川・レクリエーション地域は、冒険家から家族連れまでバラエティーに富む楽しみ方をすることができる公園となっている。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


ミシシッピー川の支流であるテネシー川の支流に自然そのままの手付かずの姿を残し、カヤック、ラフティングの愛好家に人気の川がある。その名前は、
Obed River(オベド川)。Cumberland Plateau(カンバーランド高原)を縫ってEmory River(エモリー川)そしてテネシー川に注ぐこの川の周辺は、切り立った崖に囲まれ、農業に適しない土地であるため、人間生活の介入を拒み、開発を免れてきた。国立公園局は、オベド川とその支流Daddys Creek(ダディーズ川)、Clear Creek(クリア川)、あわせて45マイル(72km)を保護している。アクセスの道路も限定的で、その景観はヨーロッパ人が来る以前と変わらず、ほぼそのまま保存されている。
きれいな清流を楽しむのであれば、カヤック、ラフティングであろう。オベド川とその支流は、クラスII(初心者レベル)からクラスIVレベル(上級者レベル:急流、岩、大きな波あり)まで様々な流れがある。その中には、Ohmigod(オーマイゴッド)、90 Left 90 Right(左に直角、右に直角)といったユニークな名前の急流もある。水量は春と秋に豊富となるので、これらのときが下りどきとのこと。切り立った崖は、水面から500フィート(150m)に達する場所もあり、ロッククライミングの人気スポットにもなっている。特にLilly Bridge(リリー橋)近辺の崖や大岩には、人気のルートが設定されている。

切り立った崖は景色のよい場所でもある。クリア川を200フィート(60m)の崖からクリア川を望む
Lilly Bluff Overlook(リリー崖展望地点)は、道路でアクセスが可能なため、人気の場所となっている。ここから3.8マイル(6km)のPoint Trail(ポイント・トレール)を歩けば、
Lily Arch(リリー・アーチ)に出会える。公園の東端のオベド川とエモリー川の合流地点付近にかかる
Old Nemo Bridge(旧ニモ橋)は、絵になる場所である。この橋は現在徒歩でのみ使用が可能となっている1931年竣工のオベド川にかかる最も古い鉄鋼製の橋である。また、ニモからDevil’s Breakfast Table(悪魔の朝食テーブル)までダディー川からオベド川に沿って14マイル(22km)のトレールが設定されており、本格的なハイカー向けのコースとなっている。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


南北戦争における西部戦線では、境界州であるケンタッキー州、テネシー州の帰趨が一つの鍵となった。これらの州では、北部親派と南部親派が入り乱れ、政治的にはどちらにも転びかねない状況にあった。しかし、ケンタッキー奪取を目指した南軍
Braxton Bragg(ブラクストン・ブラッグ)将軍のArmy of Mississippi(ミシシッピー軍)は、1862年10月8日のBattle of Perryville(ペリービルの戦い)で北軍の
Don Carlos Buell(ドン・カルロス・ブエル)将軍のArmy of the Ohio(オハイオ川軍)に敗れ、テネシー州Murfreesboro(マーフリーズボロ)に撤退した。ブラッグの軍には、
Kirby Smith(カービー・スミス)将軍のArmy of Kentucky(ケンタッキー軍)が加わり、Army of Tennessee(テネシー軍)に改組された。ブラッグを追走しなかったブエルは解任され、
William Rosecrans(ウィリアム・ローズクランズ)将軍にテネシー攻略の任が下り、オハイオ川軍はArmy of the Cumberland(カンバーランド川軍)に改組された。ローズクランズ率いる43,000のカンバーランド川軍は、12月26日にナッシュビルを出発し、マーフリーズボロでキャンプする38,000のブラッグのテネシー軍を目指した。
ローズクランズの軍は、12月30日にマーフリーズボロに到着し、町の北西にNashville & Chattanooga Railroad(ナッシュビル=チャタヌガ鉄道)をまたいで兵を配置し、町の南東にナッシュビル=チャタヌガ鉄道とStones River(ストーンズ川)をまたいで兵を配置するブラッグの軍とわずか1/2マイル(800m)の距離しか離れていなかった。その夜は、すぐそばで野営する北軍、南軍の兵士間で歌合戦が繰り広げられた。両将の作戦は、奇しくも同じであった。双方とも相手郡の右翼を攻撃し、後ろに回り込み、兵站を断ち切る作戦であった。双方とも同じ作戦、相応の兵力であったため、勝利の帰趨はどちらが先に攻撃をしかけるかに帰せられた。

先に動いたのは南軍であった。南軍は夜明けと同時に、
William Hardee(ウィリアム・ハーディー)中将の部隊が
Leonidas Polk(レオニダス・ポーク)中将の部隊の支援を受けて、北軍右翼の
Alexander McCook(アレクサンダー・マククック)少将の部隊に対する攻撃を始めた。不意を突かれた北軍は、ナッシュビル=チャタヌガ鉄道付近まで後退を余儀なくされ、早朝の攻撃を予期し準備を怠らなかった
Philip Sheridan(フィリップ・シェリダン)准将の師団が辛うじて南軍の猛攻を食い止めている状況に陥った。シェリダンが南軍の波状攻撃を受けた場所は、
The Slaughter Pen(殺戮の檻)と呼ばれた。ローズクランズは、危険を顧みず前線に立ち
兵の再集結を図り、左翼の
Thomas Crittenden(トーマス・クリッテンデン)少将の部隊から兵を回し、押し寄せる南軍を食い止めた。ブリッグは、それまで戦闘に加わっていなかった
John Breckinridge(ジョン・ブレッキンリッジ)少将配下の兵を差し向けたが、ブレッキンリッジの師団の動きは鈍く、兵の逐次投入を招き、北軍に効果的な攻撃を加えることはできなかった。この日最も戦闘が激しかった場所、Round Forest(ラウンド・フォーレスト)は、Hell’s Half-Acre(地獄の半エーカー)と呼ばれるようになった。現在この場所には、Hazen Brigade Memorial(ヘイゼン旅団記念碑)が建てられている。ヘイゼン旅団記念碑は1863年にヘイゼン旅団の生存者により建てられたもので、各地に多数ある南北戦争の記念碑で最も古い記念碑として知られている。(第1日目の戦闘については、
ここ(PDF)を参照。)

ヘイゼン旅団記念碑
翌1863年1月1日は両軍にらみ合ったまま動かず、次なる戦闘は1月2日に再開した。ローズクランズは、クリッテンデンの部隊をストーンズ川の東の小高い丘に移動させ、南軍の右翼ブレッキンリッジの師団を脅かす位置に配備した。危機を感じたブリッグは、夜明け前にブレッキンリッジに先制攻撃を命じ、クリッテンデン兵団の排除を図った。ブレッキンリッジの師団は、クリッテンデンの部隊を丘陵地から駆逐し、さらにストーンズ川の
McFfaden's Ford(マクファーデンの浅瀬)に向けて追撃を行ったところ、対岸に待ち構えていたJohn Mendenhall(ジョン・メンデンホール)大尉指揮の砲撃団の58基の大砲の集中砲火を浴びせられた。瞬く間に南軍に1,800の死傷者が出た。この隙を突いて
James Negley(ジェームス・ネグリー)准将の師団が丘陵地を駆け上がり、再びこれを占領した。(この日の戦闘については、
ここ(PDF)を参照。)
2日間の戦闘で北軍13,000、南軍10,000の死傷者を数え、死傷率は全兵士の30%程度にのぼり、南北戦争の主な戦闘の中で最も高い死傷率を誇る戦いとなった。2度にわたる戦闘の結果は引き分けであったが、1月3日に北軍に支援物資が届けられたのを見て、ブラッグはマーフリーズボロからチャタヌガに向けて撤退したため、形式上北軍の勝利となった。形式上の勝利とは言え、ヴァージニア州のFredericksburg(フレデリックスバーグ)での完敗の後の勝利であったため、北軍とリンカーン大統領の志気を大いに高めた。この結果、戦いの舞台は、テネシー川の畔の鉄道結節点チャタヌガに移ることとなった。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


シェナンドア国立公園からブルーリッジ・パークウェイを南に下ると、アパラチア山脈南部のノースカロライナ州とテネシー州の境に山深き国立公園が横たわる。これがGreat Smoky Mountains National Park(グレート・スモーキー・マウンテン国立公園)である。
グレート・スモーキーとの愛称から伺えるとおり、山々には雲がかかり、雲の煙をたたえる山々は荘厳な雰囲気を醸し出している。10万エーカー(400km
2)にわたる原生林が保存されている。野生動物も豊富で、ブラック・ベアーが多く住むところとしても知られている。

山から南東・北西にそれぞれ流れ出す川、Oconuluftee River(オコナルフティー川)とLittle Pigeon River(リトル・ピジョン川)に沿って縦断ルートが形成されている。これがUS441号線Newfound Gap Road(ニューファウンド・ギャップ・ロード)だ。その名前のとおり、新しくみつかった割れ目を意味し、1872年にスイス人技師Arnold Henry Guyotによって付近で最も低い峠として発見された。この峠にはロックフェラーの記念碑が建っている。1934年の国立公園の設立に当たり、付近の土地の買収のために500万ドル寄贈したのだとか。
この国立公園には全米一周旅行の途中で立ち寄ったのだが、ニューファウンド・ギャップ・ロードの坂道の途中で雲のたなびく姿を写真にとっていると、キャンピングカーに乗った老夫婦から写真をとってくれと頼まれた。聞いてみると、リタイヤしてキャンピングカーを買い、全米中を旅行している途中なのだとか。アメリカ人らしい老後の過ごし方と感心した。
グレート・スモーキーでは、ぜひトレールを歩きたい。特に滝に通ずるトレールが幾つもあり、自分の足と相談して歩いて見るとよい。私たちは、Trillium Gap Trail(トリリアム・ギャップ・トレール)をGrotto Falls(グロット滝)まで歩いた。往復2.6マイル(4km)の比較的短いトレールであったが、運動不足だったため、なかなか到着せず、途中沢のようなところ渡り、スニーカーを少し濡らしたものの、滝に着いたときには爽快な気持ちとなり、帰り道では他のトレッカーに「あと少し」などという余裕もできた。また、時間があれば、馬に乗ってみると、開拓者の気分に浸れるだろう。

グロット滝
この辺りは、元々Cherokee(チェロキー)族の土地であったが、アンドリュー・ジャクソン大統領(1829-1837)のときにミシシッピー川以東の原住民はオクラホマに強制移住させられた。チェロキー族14,000人も強制的に移住させられ、移動の6ヶ月の間に寒さ、飢え、病気などでその1/3を失ったという。この6ヶ月の旅路は、Trails of Tears(涙の道)と呼ばれ、歴史に刻まれている。このときにグレート・スモーキーに隠れて強制移住を免れたチェロキー族もいる。このグループの子孫は今もグレート・スモーキーの麓のノースカロライナ州の自治区に住んでいる。
公園内には、西部開拓時代の家、納屋、水車小屋などが数多く点在しており、大きな山々とのコントラストは、開拓時代を思い起こさせるに違いない。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)
ここにきれいなグレート・スモーキーの写真が載っています。
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