Hawaii Volcanoes National Park
Pu'uhonua o Honaunau National Historical Park
Kaloko-Honokohau National Historical Park
Haleakala National Park
Pu'ukohola Heiau National Historic Site
USS Arizona Memorial


ハワイ島に残る活火山を保存するHawaii Volcanoes National Park(ハワイ火山国立公園)は、ハワイ諸島が海底火山の活動でできた島々であることを思い起こさせてくれる国立公園である。過去7000万年の火山活動はハワイ諸島を創り上げ、現在も活動が続いている。とりわけハワイ火山国立公園の中心をなすKilauea(キラウェア)山は、20世紀中に45回も噴火を起こしているピカピカの活火山である。辺り一帯に残される溶岩流の爪痕は生々しく、地球が生きていることを思い起こさせてくれる。
太平洋の絶島、ハワイは、マントルで形成されるマグマが煙のように地殻まで立ち上り、地表に噴出するホット・スポットによって形成されている。ホット・スポットの上を太平洋プレートが1年に4インチ(12cm)ずつ北西の方に動いており、これにあわせて火山活動の中心地も少しずつずれていっている。かつては他の島々が中心であった火山活動も現在はハワイ島に移り、とりわけキラウェア山とその北側にそびえるMauna Loa(マウナ・ロア)山は、世界でも最も活発な活火山に属する。マウナ・ロア山は、海面から4169mの高さまで盛り上がっているが、海中から測ると、その高さは17,000mに達し、世界一高いエベレスト山をはるかに上回る。ハワイ島の火山から流れ出る溶岩は玄武岩質の比較的粘性の低い、さらさらとした溶岩であるため、溶岩流は広い範囲に到達し、海水と出会って冷やされ、陸地を広げている。
ハワイ火山国立公園には、キラウェア山のカルデラを1周する10.6マイル(17.1km)のCrater Rim Drive(クレーター・リム・ドライブ)と小さな噴火口の跡を辿りながら、かつての溶岩流を横切り、海岸に達するChain of Craters Road(クレーターの鎖道路)19マイル(30km)が整備されており、ドライブをしながら、ダイナミックな火山活動の跡を訪れることができる。クレーターの鎖道路の先端部分は、1983年以降の噴火による溶岩流で埋め尽くされており、通行することはできない。

キラウェア・カルデラ
クレーター・リム・ドライブでは、まず巨大なキラウェア・カルデラとその中にあるHalema’uma’u Crater(ハレマウマウ・クレーター)を目にすることができる。キラウェア・カルデラは、6km四方の大きさで、深さが165mあり、溶岩の流出により、500年前から230年前にかけて少しずつ形成されていったものである。その内側にあるハレマウマウ・クレーターには、1924年まで溶岩が一杯溜まっていたが、この年、溶岩湖のレベルが下がり、地上水が流れ込み、大爆発を起こした。ここはその後も溶岩の流出が繰り返されている場所で、1967年の噴火が最新となっている。現在でも二酸化硫黄が噴出している。このクレーターは、火の女神が住んでいると信じられている、ハワイ原住民にとって神聖な場所である。

ハレマウマウ・クレーター
Keanakako’i Crater(キアナカコイ・クレーター)は、1877年に噴火したクレーターであるが、その後、キラウェア火山の1971年と1974年の噴火で流出した溶岩がその底に溜まっている。

キアナカコイ・クレーター
キラウェア・カルデラの東側にあるKilawea Iki Crater(キラウェア・イキ・クレーター)は、500年前から350年前の噴火の跡が350年前から200年前に陥没して形成されたものと考えられており、最近では1959年に噴火し、吹き上げる溶岩が記録されている。キラウェア・イキによって破壊された森林を通るDevastation Trail(デバステーション・トレール)は0.5マイル(0.8km)と手ごろである。

キラウェア・イキ・クレーター
その近くには、Thurston Lava Tube(サーストン溶岩チューブ)と呼ばれる溶岩流の跡がトンネルになっている場所がある。サーストン溶岩チューブは、キラウェア・イキ・クレーターを形成した噴火のときに同時にできたものである。チューブ自体は120mほどの長さで、大きく歩きやすい。

サーストン溶岩チューブ
クレーターの鎖道路は、1969年から1974年にかけて主にEast Rift(イースト・リフト)と呼ばれるキラウェア・カルデラより東側の裂け目から噴出した巨大な溶岩流の跡を縫って海岸のほうへ下りていく。途中、古くからあるPu’u Huluhulu(プウ・フルフル)と呼ばれる火砕丘と1969年から1974年の噴火でできたMauna Ulu(マウナ・ウル)に向かう往復2.6マイル(4.2km)のトレールがあり、人気のトレールとなっている。このときの噴火で旧クレーターの鎖道路は埋め尽くされ、現在の新しいルートとなった。このトレールは、さらにMakaopuhi Crater(マカオプヒ・クレーター)、Napau Crater(ナパウ・クレーター)を通り、Pu’u O’o(プウウ・オオ)と呼ばれる1983年以来現在まで活動中の火山が見える場所まで続くのだが、現在は通行禁止となっている。クレーターの鎖道路は、1200mの高度差を駆け下りるため、所々海まで見下ろせ、気持ちがよい。

プウ・フルフルとマウナ・ウル
クレーターの鎖道路を終点近くまで下りていくと、
Pu’u Loa(プウウ・ロア)では原住民の岩面彫刻を見ることができるほか、海岸線ではHolei Sea Arch(ホレイ海岸アーチ橋)と呼ばれる波で浸食され、アーチ状になった溶岩流でできた岩を見ることができる。

ホレイ海岸アーチ橋
クレーターの鎖道路の終点からは、少しプウウ・オオから流れ出た溶岩流の上を歩くことができる。現在も、プウウ・オオからは溶岩が流れ出ているそうだが、危険なため近づくことは禁止されているので、溶岩が海水とぶつかり煙を上げるシーンを見ることはできない。それでも切り立った溶岩流でできた岩に波がぶつかる様子は迫力がある。

プウウ・オオ溶岩流

火山は生きており、その時々で状況が変化するため、最新の状況を把握して行動することが必要だ。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


Pu’uhonua o Honaunau National Historical Park(プウホヌア・オ・ホナウナウ国立歴史公園)は、コナ地区の酋長の宮殿とプウホヌアと呼ばれた、罪人が許される聖域を保存する国立公園ユニットである。このプウホヌアは、ホナウナウと呼ばれた土地区画にあったため、このような名称となっている。
酋長の宮殿といっても特別きらびやかな建物が建っているわけではない。10ほどの瓦葺の建物が建つだけである。むしろ宮殿は、他の人々が住むところと区別された場所にあることに意味がある。宮殿の敷地内にあるRoyal Grounds(王の土地)は、何の変哲もない通路に見えるが、ここには常に兵士が配備され、一般人は立ち入ることは許されず、その影すら触れてはならなかった。また、Keone’ele(ケオネエレ)と呼ばれた船着場には、酋長とそのお付きの者しかカヌーを寄せることができなかった。敷地内にあるHeleipalala(ヘレイパララ)と呼ばれる池では酋長が食べる魚が飼育されていた。ハワイを統一した
カメハメハ1世の曽祖父のケアウェ2世もこの宮殿に暮らしていた。

王の土地
この宮殿のすぐ横、巨大な石垣で仕切られた場所がプウホヌアである。宮殿の敷地とプウホヌアの区域と区別する石垣は、1550年頃に築かれたものである。ハワイの原住民の社会では、kapu(カプ)と呼ばれた様々な掟が存在した。掟には、例えば、「一般人は酋長を見てはならず、近寄ってもならない」、「一般人は酋長の所有物に触れてはならない」「一般人は酋長の歩いた後を歩いてはならない」、「一般人は王の土地に影を落としてはならない」、「女性は神に捧げる食物を食べてはならない」、「女性は男性の食事を用意してはならず、一緒に食事をしてもいけない」など、事細かなルールが含まれていた。しかも、この掟を破った場合、死をもって償うこととされていた。死をもって償わなければ、神が火山噴火、津波、地震、飢饉などの災いをもたらすと信じられていた。従って、この掟を犯した者は、追われ、殺された。ただし、プウホヌアに逃げ込めば、僧侶によって贖いの儀式が行われ、罪を許されて共同体に復帰できることとされていた。この他にも、戦争中は兵士以外の者はプウホヌアに安全を求め、打ち負かされた兵士はプウホヌアで戦いの勝敗が決するのを待った。プウホヌアは、いわば駆け込み寺として機能していた。

宮殿とプウホヌアを区別する石垣
このプウホヌアが許しの力を持つのは、代々の酋長の先祖の霊によって清められると信じられていたためである。プウホヌアの入口には、歴代の酋長の遺骨を納める建物が立ち、これを保護するためにKi’i(キイ)と呼ばれる木彫りの像が立てられた。

そしてプウホヌアの区域の中には、神殿が建てられた。現在ここには1650年頃に建てられた’Ale’ale’a(アレアレア)と呼ばれたケアウェ2世を祀る神殿跡とその前の時代の神殿跡も残されている。神殿には、入口と同様に、瓦葺の建物が建てられ、キイが立ち並んでいたと推測されている。

アレアレア
プウホヌアには、カメハメハ1世のお気に入りの夫人であった
Ka’ahumanu(カアフマヌ)が夫婦喧嘩をした際に隠れたと言われる岩がある。連れていた犬の鳴き声のために、居場所が知れ、カメハメハ1世と夫人は仲直りをしたという。カアフマヌは、カメハメハ1世の死後、
カメハメハ2世及び
カメハメハ3世の時代に宰相として権力を振るった。

カアフマヌが隠れた岩
プウホヌアにある浅瀬の岩場や宮殿内の船着場ケオネエレの付近には、アオウミガメがよく姿を現す。プウホヌアは、旧来の掟、風習、宗教儀式を禁止したカメハメハ2世によって廃止されたが、アオウミガメの現われるこの場所は、現在も癒しの場所となっている。

ケオネエレにて
(国立公園局のHP)


ハワイにいつ頃から人々が住み始めるようになったのかは定かではない。ハワイの原住民の祖先は、ポリネシアの人々であると考えられている。ハワイ島の西岸部は、Hualalai(フアラライ)火山から流れ出た溶岩流で覆いつくされ、荒涼とした大地を形成している。しかし、このような一見人を寄せ付けないような土地にも、ポリネシアから渡って来たハワイ原住民の祖先は根を下ろし、自然と共生する生活を送っていた。ハワイ島コナ空港のすぐ南に、ハワイ原住民の暮らした痕跡が残されている。
ハワイでは、Ahupua'a(アフプアア)と呼ばれる山岳地帯から沿岸地帯にわたって縦に土地が分割され、その土地ごとに共同体が形成されていた。縦に土地を分割した方が共同の土地の中に様々な環境と植物相が含まれることになるため、サバイバルには好都合となるためであった。それぞれのアフプアアは石を積み上げて境界線を明示していた。土地は単に暮らす場所ではなく、精霊が宿る場所と考えられていた。
それぞれの共同体は、支配者層であるali’i(アリイ)、僧侶のほか、兵士、商人、一般人に分かれ、土地ごとにkonohiki(コノヒキ)と呼ばれる管理者が任命されていた。食糧確保のために、様々な知恵が用いられた。パンの実、タロイモなどは山腹に栽培した。沿岸部では、溶岩が固まった岩だらけの土地では食物の生育が困難であるため、この岩を用いてプランターを作り、そこでスイートポテトやウリなどを栽培した。
魚は網や釣竿で捕獲される場合もあったが、周囲に豊富な岩を用いて工夫が施された。この岩を用いて海との間に間仕切りを作り、魚の養殖場を造った。また、同じような仕掛けで、満ち潮時には海水が流入し、干潮時には潮溜りとなる場所を作り、魚を捕獲した。公園内には、Kaloko Fishpond(カロコ養殖場)と酋長に捧げる魚を養殖した’Aimakapa Fishpond(アイマカパ養殖場)が残されている。カロコ養殖場では、海水を入れ替えるため溶岩石を積み上げて造られた水門が再建されている。

カロコ養殖場
また、捕獲装置としては、’Ai’opio Fishtrap(アイオピオ定置罠)の跡が保存されている。アイオピオ定置罠の辺には神殿の跡も残されている。

アイオピオ定置罠
公園内には、1830年代に整備された街道であるMamalahoa(ママラホア)が溶岩の跡が広がる中を横切っている。

ママラホア
これらのハワイ原住民の遺跡の間に、Honokohau Beach(ホノコハウ・ビーチ)が横たわり、アイオピオ定置罠の周りは日光浴でくつろぐ人が散見される。また、その周辺の岩場は、アオウミガメの餌場となっており、のんびりと岩についたコケを食む姿を見ることができる。絶滅が心配されるアオウミガメは、個体管理が行われており、甲羅にはそのための番号が書き込まれている。ときおり、呼吸のため、顔をぽっかり水面から出す様子はヒューモラスで癒される。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


ハワイで2番目に大きな島、マウイ島にそびえるHaleakala(ハレアカラ)火山は、丸ごと国立公園となっている。ハレアカラ国立公園は、2つの顔を持っている。一つはマウイ島の面積の3/4も占める巨大な火山の顔と、もう一つはアメリカの国立公園で最も絶滅危惧種を多く抱える独特の生態系を備える自然公園の側面である。3055mのPu'u'ula'ula(プウウラウラ)の頂から眺める景色は絶景で、ハワイ島やモロカイ島などを臨むことができるほか、マウイ島を眼下に見下ろすこともでき、高い場所が好きな人には堪えられない場所である。

頂上からの風景
太平洋のど真ん中に、忽然として現われる楽園ハワイは、大陸や他の島から隔絶されており、その存在自体が唐突な感じがする。ハワイの島々はいずれもが海底火山が海面から浮上したものである。このため、どの島の山も海面から鋭く天に突き出ている。ハワイは、マントルで造られたマグマが地表に突き上げてくるホット・スポットとして知られており、ハワイのホット・スポットは、断続的にマントルからマグマが吹き上げてくることが特徴となっている。ハワイの火山は、いずれも粘性の低い玄武岩質のマグマが爆発を起こさず、溶岩として積み重なり、緩やかな傾斜を造り出す盾状火山と言われる種類の火山である。ハレアカラの山も盾状火山の一種で、ハワイ島以外では、最近唯一火山活動が生じた場所である。最後の噴火は17世紀ごろに起きたものと現在では推測されている。マウイ島はもともと2つの島であったが、ハレアカラ火山からの溶岩により間が埋め尽くされ、地続きになったものである。

プウウラウラ
ハレアカラには、急傾斜の道路を伝って、山頂近くまで車で上ることが可能となっている。このコースは、サイクリングの人気コースとなっており、多くのバイカーが使用している。山頂近くのビジターセンターの裏にあるPa Ka'oao(パ・カオアオ)の頂や途中のKalahaku Overlook(カラウハウ展望所)やLeleiwi Overlook(レレイウィ展望所)からは、まるでカルデラ火口の中に色とりどりの火砕丘がいくつも重なるような風景を目にすることができる。山頂の窪地(クレーター)は、火山の噴火によってできたものではなく、ハレアカラ山の浸食により刻まれた谷が山頂付近で交わっているため、火口のように窪むこととなったものである。この窪地にはトレールが巡らされており、他の惑星に着陸したような気分が味わえる。また、ハレアカラの山頂付近は、いくつもの天体観測所が並んでいることからもわかるとおり、夜は星空を見るのに最高の場所である。

クレーター
ハレアカラ山は地表から3000mを超える高度に達するとともに、年間降雨量が400インチ(1,200cm)を超える雨の多い南東斜面と年間降雨量が10インチ(30cm)に満たない乾燥した他の部分とに分かれているため、熱帯雨林から高山植物まで多様な植物相の生育が可能な環境を提供している。風、波と鳥によって運ばれた種がハワイに到着することは稀であるが、皆無ではない。ハワイへの種の到着が稀に起きると隔絶された環境の中で独自の進化を遂げることができる環境が整っている。珍しい動植物を保護するため、ハレアカラ国立公園の東部は立入りが禁止された保護区となっている。南東部のKipahulu Valley(キパフル峡谷)の熱帯雨林の中をくぐる3.7マイル(6km)のトレールを辿れば、まるでロビンソン・クルーソーの話に出てくるような
Makahiku Falls(マカヒク滝)や
Waimoku Falls(ワイモク滝)を見ることができる。
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


Pu'ukohola Heiau(プウコホラ・ヘイアウ)は、ハワイ諸島を統一する
Kamehameha I(カメハメハ1世)によって一族の戦争の神に捧げられた神殿である。プウコホラは、クジラの形をした丘を、ヘイアウは神殿を意味する。予言者の言葉どおり、1791年にプウコホラ神殿を建てたカメハメハ1世は、1810年にハワイ諸島を統一し、王国を建国することとなる。プウコホラ神殿は、カメハメハのハワイ統一という大事業が始まった場所と言える。
カメハメハ1世の生れた年は正確にはわかっていない。夜空に彗星が現われるとき偉大な指導者が生れるとの予言があり、カメハメハは、夜空にハレー彗星が出現した後に生れたと言われている。カメハメハ1世は、幼名をPaiea(パイエア)といい、ハワイ島北部のKohala(コハラ)地区の貴族の家に生れた。父親のKeoua(ケオウア)は、ハワイ島の大半を治めたケアウェ2世の孫という名門の出であった。ケアウェ2世の死後、跡目争いが生じ、Alapai(アラパイ王)が勝ち残った。アラパイ王の跡は、息子のKeaweaʻopala(ケアウェアオパラ)が継いだが、カメハメハの叔父に当たるKalaniopuu(カラニオプウ)がクーデターにより王位を奪取した。これに協力したカメハメハは、カラニオプウ王の側近として引き立てられた。
1782年にカラニオプウ王が亡くなると、王位は息子のKiwalao(キワラオ)に譲られ、カメハメハは、戦争の神守護職に任ぜられた。背が高く立派な体格のカメハメハは、次第に信望を集め、コナ地区の酋長はカメハメハを王に担ぎ出した。Mokuohai(モクオハイ)の戦いでキワラオを破ったカメハメハは、ハワイ島の半分を治めるようになった。1790年にはマウイ島、ラナイ島、モロカイ島を攻め落とし、ハワイ島南東部のPuna(プナ)地区を攻めたが、この隙にハワイ島南西部のKau(カウ)地区を治める彼の従兄弟であるKeoua(ケオウア)がカメハメハに反旗を翻した。カメハメハは、予言者Kapoukahi(カポウカヒ)に指導を仰いだところ、カポウカヒから、一族の戦争の神であるKukailimoku(クカイリモク)に捧げる神殿をクジラ丘に建立すれば、ハワイ諸島を統一できるとのお告げをもらった。クジラ丘は、カメハメハの祖先の神殿であるMailekini Heiau(マイレキニ神殿)のすぐ裏にあった。その神殿は、海水に洗われて角のとれた溶岩流からできた岩で建てなければならず、20マイル(32km)もの列を組んで、岩を南の海岸から運んだ。この間にマウイ島、ラナイ島、モロカイ島の酋長は失地を回復し、勢いを借りて、ハワイ島に侵攻したが、カメハメハに撃退された。工事には1年を要し、1791年夏に完成した。カメハメハは、神殿の献呈式に従兄弟のケオウアを招待した。ケオウアがこれに応じたところ、ケオウアは殺害され、彼の遺体は神殿に捧げられた。ここにハワイ島の統一がなされた。

プウコホラ神殿跡
カメハメハは、ハワイ諸島統一に乗り出すに当たり、2人のイギリス人の助けを借りた。彼らは、Isaac Davis(アイザック・デービス)とJohn Young(ジョン・ヤング)で、ハワイ島に取り残されたイギリスの船乗りであった。この二人は、孤独の人を意味するカメハメハの側近の軍事顧問となった。彼らは、イギリスやアメリカから銃と弾薬を手に入れ、カメハメハの軍隊を訓練した。マイレキニ神殿は砦に改造された。ジョン・ヤングは、カメハメハの留守中ハワイ島の統治を任されるほどカメハメハの信頼が厚かった。1794年にカメハメハは、マウイ島、ラナイ島、モロカイ島を再び奪取し、1795年に激戦の末オアフ島を平定した。カメハメハは、カウアイ島、ニイハウ島への侵攻を図るが、ハワイ島での謀反や部隊への疫病の流行などに挫かれた。しかし、この間も軍備増強に余念なく、外国製のスクーナー船やカヌーなどで史上最大の水軍力を整備した。この状況を見て、1810年、カウアイ島、ニイハウ島は戦わずしてカメハメハの軍門に下り、ここにハワイ諸島が統一されることとなった。

ジョン・ヤング邸跡
プウコホラ神殿を保存するPuukohola Heiau National Historic Site(プウコホラ神殿国立史跡)には、プウコホラ神殿跡のほかに、マイレキニ神殿跡、ジョン・ヤング邸宅跡などが残されている。

マイレキニ神殿跡
(国立公園局のHP)(国立公園局の地図)(PDF)


USS Arizona Memorial(米海軍戦艦アリゾナ号記念碑)は、1941年12月7日の日本軍の真珠湾攻撃により沈没した米海軍戦艦アリゾナ号とその乗組員1,177名の犠牲を悼む記念碑である。沈没した米海軍戦艦アリゾナ号はそのまま記念碑として残されており、国立公園ユニットとしては真珠湾攻撃をアメリカの視点から振り返るものとなっている。
1931年の満州事変をきっかけとして高まった日米間の緊張は、1937年の日中戦争によりさらに高まり、1940年のインドシナ侵攻を受けて米国は日本への石油禁輸措置に踏み切り、このことはさらに日本をオランダ領東インド(インドネシア)の石油資源確保に走らせる結果となった。日本は、1941年初め頃から、日本軍の南進を支援するため、アメリカの太平洋艦隊を無力化させるため太平洋艦隊が駐留する真珠湾の攻撃作戦の検討に入った。
連合艦隊司令官山本五十六は、真珠湾を空から攻撃する案の作成を命じた。真珠湾は水深が平均で12mと浅く、当時の航空魚雷は潜行深度が深く、真珠湾では全て海底に突き刺さってしまうため、新しい魚雷の開発が必須となった。日本軍は、木製の舵をとりつけ着水時の走行安定性が高い魚雷の開発に成功し、鹿児島での超低空飛行訓練とあわせて真珠湾での攻撃に目途をつけた。11月5日の御前会議で帝国国策遂行要領により、外交交渉が結実しない場合には12月8日に対英米蘭と開戦することが決められた。外交交渉は、11月26日にアメリカ側が日本軍のインドシナ、中国からの即時撤退と日独伊三国同盟からの脱退等を要求するハルノートを提示するに至り、行き詰った。同日
南雲忠一中将率いる空母機動部隊は択捉島を出発し、ハワイへ向かった。12月1日の御前会議で開戦が決定された。この決定は、翌日「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号で空母機動部隊に伝えられた。
12月7日早朝、アメリカ海軍駆逐艦ワードは、真珠湾外で国籍不明の潜水艇を発見して撃沈したが、これが日本海軍の特殊潜水艇だったということには気がつかなかった。ハワイの監視レーダーは、航空機群をレーダーに捕捉したが、当日カリフォルニアから飛来する予定の友軍のB17爆撃機と勘違いし、日本軍の襲撃を見逃してしまった。この結果、全く無警戒の中、7時49分日本軍による真珠湾係留中の185隻の太平洋艦隊への魚雷攻撃が始まった。魚雷爆撃機の指揮官
淵田美津雄中佐は、7時53分、作戦の成功を意味する「トラ、トラ、トラ」を打電した。7時55分には、高橋赫一少佐率いる急降下爆撃機隊による航空機基地に対する攻撃が開始された。総勢353機による奇襲であった。アメリカ軍は全くの不意打ちを受けた。弾薬庫には鍵がかかり、飛行場には軍用機が密集し、対空砲には誰も配置されていなかった。7時58分、アメリカ海軍航空隊は「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」との警報を発した。8時40分ごろには、嶋崎重和少佐率いる第2波爆撃隊による太平洋艦隊と航空機基地に対する攻撃が開始された。
8時6分、
戦艦アリゾナは弾薬庫に800kgの爆弾が命中し、大音響と伴に大破し、1,177名の乗組員と伴に真珠湾の底に
沈んだ。
戦艦オクラホマには、4発の魚雷が命中し、415名の乗組員と伴に横転転覆した。
戦艦ネバダは、真珠湾脱出を試みるが、魚雷と爆弾の攻撃を受け、航行の障害にならないような位置で座礁放棄された。
戦艦カリフォルニアと
戦艦ウェスト・ヴァージニアは魚雷の攻撃を受け、係留中のまま放棄され、沈没した。
戦艦ユタは魚雷を2発受け58名の乗組員と伴に転覆した。
戦艦メリーランド、
ペンシルベニア、
テネシーも奇襲の被害を受けた。
駆逐艦Shaw(ショー)は2つの爆弾を弾薬庫に受けて大破し、
軽巡洋艦へレナは魚雷により撃沈され、
敷設艦Oglala(オグララ)はその余波で転覆した。
駆逐艦Cassin(カッシン)は転覆し、
駆逐艦Downes(ダウンズ)は大破、沈没した。遅まきながら開始された対空砲による反撃は、その多くがホノルル市内に落ち、市民に被害をもたらした。太平洋艦隊司令官
Husband Kimmel(ハズバンド・キンメル)海軍少将とハワイ守備隊司令官
Waleter Short(ウォルター・ショート)中将はなす術もなかった。
これらの結果、アメリカ太平洋艦隊は、戦艦5隻が沈没、3隻が大破、駆逐艦2隻が沈没、1隻が大破、巡洋艦3隻が大破、その他1隻沈没、3隻大破し、甚大な損害を被った。航空機は164機が大破し、159機が破損した。総勢で2,390名が犠牲となり、1,178名が負傷した。日本軍の被害は、パイロット55名と特殊潜航艇乗組員9名にとどまった。
翌12月8日、ルーズベルト大統領は、議会への演説で真珠湾攻撃の日をa day which will live in infamy(汚名のうちに生きる日)と呼び、議会は日本に戦線を布告した。Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)が合言葉となった。沈没、座礁、被弾した戦艦は、アリゾナ、オクラホマとユタを除き、全て引き揚げられた後に、修理され、前線に復帰した。主力空母は、全て真珠湾の外で輸送業務などに従事していたために無傷であった。
アリゾナは、沈んだ状態のまま、真珠湾で亡くなった兵士・市民に捧げられた記念碑となった。1950年には、
Arthur Radford(アーサー・ラドフォード)太平洋司令官の指令により、国旗掲揚のポールと祈念のプレートが設置された。建築家Alfred Preis(アルフレッド・プレイス)のデザインによる現在の記念碑の形になったのは、1962年のことである。真珠湾に沈んだ戦艦アリゾナからは今もなお涙を流すように油の流出が続いている。この場所は、国立墓地と同様に、厳粛な場所であるため、ツアーの際にはおしゃべりなどは厳禁となっており、マナーは守りたい。

米海軍戦艦アリゾナ号記念碑
(国立公園局のHP)* 2008年12月5日に、USS Arizona Memorial(米海軍戦艦アリゾナ号記念碑)は、アリューシャン列島のAttu Island(アッツ島)や カリフォルニア州に設けられた日系人収容所Tule Lake War Relocation Center(チュール湖戦争移住センター)などとともに、 World War II Valor in the Pacific National Monument (太平洋における第2次世界大戦の勇敢を記念する国定公園)に指定されました。
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