America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~ usnp.exblog.jp
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私がこれまでに訪れたアメリカの国立公園ユニット390+αを少しずつ紹介します。
by shiraok4563

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カテゴリ:New Mexico
  • Salinas Pueblo Missions National Monument
    [ 2008-02-26 09:09 ]
  • Capulin Volcano National Monument
    [ 2008-02-24 08:30 ]
  • Gila Cliff Dwellings National Monument
    [ 2007-12-16 09:37 ]
  • El Morro National Monument
    [ 2007-11-04 08:03 ]
  • El Malpais National Monument
    [ 2007-11-03 08:34 ]
  • Petroglyph National Monument
    [ 2007-11-02 08:21 ]
  • Bandelier National Monument
    [ 2007-11-01 10:37 ]
  • Pecos National Historical Park
    [ 2007-10-31 10:22 ]
  • Fort Union National Monument
    [ 2007-10-30 08:38 ]
  • Chaco Culture National Historical Park
    [ 2007-10-29 05:32 ]
Salinas Pueblo Missions National Monument

ニューメキシコ州最大の都市アルバカーキーから南東の山中にひっそりと17世紀の廃墟が佇んでいる。廃墟は3箇所に点在しているが、いずれも17世紀のスペインのフランシスコ派修道院による原住民への伝道拠点の跡である。乾燥した大地で古来より塩(スペイン語でSalinas)が採れることで知られた土地(Salinas Valley(サリナス盆地))に因んで、これら3箇所の伝道拠点は、総称してSalinas Pueblo Missions(サリナス・プエブロ・ミッション)と呼ばれ、国立公園局が保存を行っている。

ニューメキシコ中央部は、アナサジ文化とMogollon(モゴロン)文化双方の影響を受けた地域である。後にフランシスコ派による伝道の対象となったTompiro(トムピロ族)、Tiwa(ティワ族)の人々も双方の影響を受けた人々であった。10世紀までには、この地方にはモゴロンの人々の集落が建設され、人々は狩猟採取を中心とした生活を簡易農業で補いながら生活していた。赤や茶色のシンプルな土器を生産し、最初は竪穴式住居に、後には簡易なプエブロ式住居に住むようになった。12世紀後半には、アナサジ文化の影響を受け、銃葬式の本格的なプエブロ式住居が建設されるようになった。周囲との交易も盛んに行われ、乾燥気候に適したメーズ、ナッツ、豆類、スカッシュそして塩などがバッファローの肉と皮、火打石や貝殻などと交換された。17世紀には人口は1万人程度に達していたものと推測されている。

このような繁栄の中、現れたのがスペイン人である。金銀で装飾された伝説の都市Quivira(クイビラ)を求めて、1540年Coronado(コロナド)らがこの地方を訪れ、ティワ族と衝突した。1598年にはDon Juan de Onate(ドン・ファン・デ・オニャーテ)らがこの地を訪れ、スペインへの忠誠を誓わせた。オニャーテは、この地方に豊富な塩に驚くも、金銀を発見することはできなかった。スペインは、金銀をあきらめ、原住民を強制労働に使用して農業で成果を挙げることを試みるが、乾燥した気候の下では思ったほどの成果は挙がらず、ニューメキシコでの植民地経営は半ばあきらめ、フランシスコ派の修道士による伝道活動が中心となった。サリナス盆地でも伝道拠点が建設された。そのうち、Abo(アボ)、Quarai(クアライ)、Gran Quivira(グラン・クイビラ)の3つが今日に残されている。伝道拠点は、他のフランシスコ派の伝道拠点と同様に、教会を中心に、自給自足の生活共同体として形成された。伝道活動に当たっては、原住民の伝統的なKachina(カチーナ)の踊りやKiva(キバ)での宗教儀式が問題となった。一方でこれらを完全に禁止することは困難であったことから、カチーナの踊りやキバでの宗教儀式を巡っては寛容と厳正の両極間を揺れ動くこととなった。

アボでの伝道活動は、1622年に始められ、1629年にアボに配属されたFrancisco de Acevedo(フランシスコ・デ・アシビド)修道士によって最初の教会が建てられた。その後、現在遺跡として残る赤壁の教会が建設された。
アボ

また、1630年にEstevan de Perea(エステバン・デ・ペレア)修道士によってクアライに赤壁の教会が建てられた。サリナス盆地の伝道拠点の本部は、クアライに置かれ、異端審判もここで行われた。
クアライ

サリナス盆地最大の伝道拠点が伝説の黄金都市クイビラの名前を冠したグラン・クイビラである。1627年にAlonso de Benavides(アロンソ・デ・ベナビデス)修道士がこの地で伝道を開始した。最初の教会は、1636年にアボのアシビド修道士によって建てられた。2つ目の教会は1659年にDiego de Santander(ディエゴ・デ・サンタンダー)修道士によって建設が始められたが完成することはなかった。
グラン・クイビラ

1660年代に入るとサリナス盆地の伝道拠点に危機が訪れた。旱魃が度々この地域を襲い、人々は飢え、これに水疱瘡などの伝染病の流行が追い討ちをかけた。グランド・クイビラでは一冬に480名以上が犠牲になった年もあった。これらに加えて、アパッチ族の襲撃に悩まされるようになった。グランド・クイビラでは500名程度に人口が減り、食うに食えず、1670年には住民はアボへ移住を開始し、1672年にはグランド・クイビラは完全に放棄された。状況は他の伝道拠点でも同様であり、やがてクアライも1670年ごろには脱出し始め、1674年にはクアライは放棄された。アボからも1672年から1678年にかけて人々は流出し、さらに北のリオ・グランデ川流域の集落に吸収されていった。アボ、クアライ、グランド・クイビラなどの伝道拠点は二度と復活することはなかった。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#スペイン #原住民 
▲ by shiraok4563 | 2008-02-26 09:09 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
Capulin Volcano National Monument

ニューメキシコ州の北東の角に当たる地域には、左右対称できれいな形をしたCapulin Volcano(カプリーン火山)と呼ばれる火砕丘が残されている。カプリーン火山は、今から6.2万年前から5.6万年前にかけて形成された火砕丘であり、ニューメキシコ州北東部一帯を覆ったRayton-Clayton(レイトン/クレイトン)火山域と呼ばれる火山地帯の活動の一環として起きた火山活動の跡である。カプリーン火山とその周囲は、現在Capulin Volcano National Monument(カプリーン火山国定公園)として保存されている。

レイトン/クレイトン火山域は、9百万年前から3万年前にかけて繰り返し噴火が生じた場所である。900百万年前には、この地帯の北端と南端部で玄武岩質の溶岩の大量流出が置き、680万年前から630万年前にかけて流紋岩質の溶岩が大量に噴出し、Red Mountain(レッド・マウンテン)という火山ドームを形成した。今から3百万年前ごろには、この地域の主に西方で火山活動が活発化した。この時期には、Sierra Grande(シエラ・グランデ)と呼ばれるこの地域最大の火山を残している。この次に起きた大規模な活動は、170万年前から6万年前まで継続した火山活動で、このときにカプリーン火山を残している。カプリーン火山の北にあるBaby Capulin(小カプリーン)と呼ばれる火砕丘は、最後の活動である4万年前から3万年前の火山活動の残した跡である。現在火山活動は終息し、これらの火山自体は死火山と考えられているが、レイトン/クレイトン火山域が活きているかどうかは不明である。
カプリーン火山

カプリーン火山は、麓から1,300フィート(400m)ほどそびえ、標高8,182フィート(2,494m)の山を形成している。中央のクレーターは火砕丘を形成する元となった噴火口で、噴火口から真っ直ぐ上に吹き上げた溶岩がそのまま真下に落ちたため、左右に均等な山を形成した。周囲には溶岩流の跡が残るが、これは中央の噴火口ではなく、火砕丘の斜面から流れ出たもので、溶岩流は、最初に東側の斜面の割れ目から東方へ広がり、噴火の終わりごろ、今度は西側の斜面の割れ目から流れ、南方、南東、北方の順に流出していった。ビジターセンターからカプリーン火山の頂上まで道路が整備されており、頂上には噴火口へ下りていくトレールと噴火口の周りを一周するトレールが整備されている。
噴火口跡

噴火口まで上ると、溶岩流の流れた跡や周囲の火山活動の跡を鳥瞰することができ、火山活動の範囲を想像することができる。また、カプリーン火山はニューメキシコ州の北東の隅に位置するため、天気がよい日には頂上からテキサス、オクラホマ、コロラド州まで見ることができる。
溶岩流の跡

なお、カプリーンとは、この地方によく見られるchokecherry(チョークチェリー)と呼ばれる植物のスペイン語名をとったものである。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#火山活動 
▲ by shiraok4563 | 2008-02-24 08:30 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
Gila Cliff Dwellings National Monument
ニューメキシコ州南西部のGila National Forest(ヒーラ国有林)の奥深くに、かつて原住民が築いた断崖住居の集落がひっそり残されている。ヒーラ国有林付近は、アメリカで初めてWilderness(原野)に指定された場所で、開発が禁じられた原生林が広がっており、断崖住居が建てられた頃と周囲の景色は変わっていない。こんな山奥にも集落があったことが驚かされる。天然のくぼみを利用した断崖住居は、Gila Cliff Dwellings National Monument(ヒーラ断崖住居国立遺跡)として保存されている。

この地域に最初の原住民の集落の痕跡は、竪穴式住居跡で、およそ100年から400年ごろに使用されたものと推定されている。ここに住み着いた部族は、Mogollon(マグヨン族)と呼ばれている。この部族は、トウモロコシや豆類を栽培するとともに、狩猟採集活動で生活を支えた。茶色の素焼きの土器を使用していた。さらに1000年ぐらいになると、四角い石造りの建物に住むようになり、白に黒い模様を施した土器を使用するようになった。

断崖住居は、1270年代の終わりから1280年代に造られたもので、南東に向いた山の斜面にある天然のくぼみを利用して造られており、5箇所の洞穴に40部屋ほどの断崖住居が確認されている。建築に使用された木材は今もオリジナルのものが残されている。おそらくは10から15家族ぐらいの小さな集落であったと想像される。メサの上や川沿いで農業を営み、スカッシュ、トウモロコシ、豆類などを栽培していた。これを狩猟採集活動で補っていた。土器やバスケットの製作が行われ、周囲の部族との交易の跡も残されている。しかし、この部族も14世紀初めには何らかの理由でこの住居を放棄し、忽然と姿を消している。この農業を営む部族が姿を消してからしばらくたって、この周辺はアパッチ族の領域となった。
断崖住居

ヒーラ断崖住居国立遺跡は、アメリカの国立公園ユニットらしく、とてつもなく辺鄙な場所に存在する。48州でアクセスが最も困難な国立公園ユニットと言えよう。断崖住居跡は、一番近郊の町Silver City(シルバー・シティー)から43マイル(69km)離れた山奥に位置する。シルバー・シティーからはニューメキシコ15号線が通っているが、細く急傾斜の目が回るようなヘアピン・カーブの連続が延々と2時間あまり続く。山道があまり好きでない人には地図上は遠回りに見えるが、ニューメキシコ35号線経由をお勧めする。


(国立公園局のHP)


Tags:#原住民 
▲ by shiraok4563 | 2007-12-16 09:37 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
El Morro National Monument

「落書きも100年経てば文化遺産」という川柳があるかどうかは知らないが、ニューメキシコ州西部にアナサジ族、スペイン人、アメリカ人などの残したメッセージが刻まれた崖がある。ここは、El Morro National Monument(エル・モロ国立遺跡)。国立公園ユニットの中でも珍しい「落書き」を保存する国立遺跡である。

エル・モロとは、スペイン語で「崖」を意味する。エル・モロの崖は、下から200フィート(60m)の高さまで突き上げた砂岩でできた崖である。この崖は、太古の砂漠の砂の上に1億年前浅い海の砂が堆積して押し固められ、その後の上昇運動と海砂でできた重い砂岩にはさまれて縦にひびが入り、雨水が隙間から入り込み、それが夜間凍るなどして、隙間を広げて浸食していったものである。このため、石柱が並んだような形をしている。浅い海の底でできた砂岩の大部分は既に削られており、このまま浸食が進めば、やがてはこの崖も消滅していく。この崖を伝って下に降りていった雨水や雪解け水が泉を作っており、この泉が乾燥したこの地域のオアシスとなり、旅の途中の休憩場所として古くから人々を呼び集めた。
     エル・モロ

エル・モロの上には、Zuni(ズニ)族がA'ts'ina(アッツィナ:書き込みのある岩のある場所)と呼ぶアナサジ族の遺跡がある。この遺跡は、1275年頃に建てられたプエブロ式住居で、875の部屋からなり、1,000-1,500人ほど収容できたものである。しかし、この集落は50-60年程度しか使用されず、その後放棄されている。ズニ族は、アナサジ族の子孫と考えられており、ズニの人々はこの土地を聖地として崇めている。エル・モロには、アナサジ族の岩面彫刻が残されている。
岩面彫刻(茶色いところ)

次にこの土地に現れたのは、スペイン人である。エル・モロのオアシスは、旅人をここに引き寄せた。1583年にAntonio de Espejo(アントニオ・デ・エスペホ)が行方不明となったフランシスコ派の宣教師を探して旅をした途中にエル・モロに寄ったとの記述を残している。エル・モロ最初の書き込みは、初代ニューメキシコ知事であったDon Juan de Onate(ドン・ファン・デ・オニャーテ)が1605年に残している。彼は、部下30名とともにカリフォルニア湾探検の旅からの帰還中にここに立ち寄った。「ドン・ファン・デ・オニャーテ知事、南の海の発見からの帰りにここに寄る。1605年4月16日。」しかし、彼はカリフォルニア湾の発見者ではなく、エル・モロに立ち寄るのもこれが初めてではなかったという。
ドン・ファン・デ・オニャーテの書き込み

その後、多くのスペイン人の知事、兵士、僧侶などがエル・モロを通り、書き込みを残していった。書き込みは、身元が判明しているものもあれば、不明なものもある。例えば、身元の判明しているものでは、1620年のニューメキシコ知事Eulateの書き込み、1680年の原住民の反乱で一時失ったニューメキシコを回復するために1692年に送り込まれたDon Diego de Vargas(ドン・ディエゴ・デ・ヴァルガス)将軍の書き込み、ニューメキシコ知事Don Feliz Martinez(ドン・フェリッツ・マルチネス)の1716年の書き込みなどがある。その多くは、ここの通過を記すものであるが、中には詩を刻んだものもある。

現在エル・モロに残されている落書きの大多数は、スペイン語のものである。1849年にJ.H. Simpson(J.H.シンプソン)中尉とR.H. Kern(R.H.カーン)がこの地を訪れ、2日間かけて書き込みを調べたところ、スペイン語の書き込みしかなかったという。シンプソンとカーンのものがアメリカ人最初の書き込みである。彼らの後にも、ここを通って西に向かった初めての開拓者たちなどの書き込みもある。
上側がシンプソンとカーンの書き込み

書き込みの中には黒ずんだものがあるが、これは1920年代に書き込み保存のため、鉛筆でなぞった痕跡である。現在は違う保存方法がとられている。なお、ここに落書きするのは、1906年以来、禁止されているので、くれぐれも落書きなどしないように。

(国立公園局のHP)


Tags:#スペイン #原住民 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-04 08:03 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
El Malpais National Monument

El Malpais(エル・マルパイス)は、スペイン語でBadlands(バッドランド)を意味する。溶岩流によって形成された荒れた地形は、旅人の行く手を阻む障害であった。火山活動は、何度も生じ、古くはおそらく10万年前、最近では2000-3000年前の溶岩流が地表の風景を塗り替えた。公園内には、かつての溶岩流を起源とするバッドランドの他に、火砕丘、溶岩トンネル、溶岩溝、氷穴なども点在する。溶岩トンネルは、総延長が17マイル(27km)に及ぶ。この風景の中で、原住民が暮らし、やがて開拓者が暮らした。彼らの足跡は、今もEl Malpais National Monument(エル・マルパイス)国定公園に残されている。

国定公園の形はH状になっており、大きく東地区と西地区に分けられる。国定公園の周囲は、El Malpais National Conservation Area(エル・マルパイス国立保護地域)として同じ内務省のBureau of Land Management(国土管理局)によって管理されている。東地区は、McCartys Crater(マッカーティーズ・クレーター)が2000-3000年前に噴出した溶岩流の跡が今も生々しく残っている。Sandstone Bluff Overlook(サンドストーン崖展望所)から見ると、見渡す限り、ごつごつした溶岩流の跡が広がっている様子を観察することができる。この中をアナサジ族も通った片道7.5マイル(12km)のZuni-Acoma Trail(ズニ/アコマ・トレール)が通っている。
溶岩流の跡

さらにニューメキシコ117号線を南に進むと、ニューメキシコで一番規模の大きな自然が造った石のアーチであるLa Ventana Natural Arch(ラ・ベンタナ・ナチュラル・アーチ)を見ることができる。さらにその南には、Narrows(ナローズ)と呼ばれる砂岩の崖のぎりぎりまで溶岩が押し寄せている場所や溶岩流の跡が急傾斜で迫り来るLava Falls(溶岩滝)と呼ばれるところがあり、ハイキングの人気スポットとなっている。
ラ・ベンタナ・ナチュラル・アーチ

西側のEl Calderon(エル・カルデロン)と呼ばれるエリアは、115,000年前にエル・カルデロン火砕丘が噴火した場所で、3マイル(4.8km)のトレールがあり、これを周るとエル・カルデロン火砕丘の他、Junction Cave(ジャンクション洞窟)、Bat Cave(コウモリ洞窟)などの溶岩トンネルがいくつかある。溶岩トンネルの中には、実際にもぐって探検することができるものもあるので、懐中電灯を片手に反対側を目指してもぐってみよう。さらに大きな溶岩トンネルは、Big Tubes(ビッグ・チューブ)と呼ばれる地域にある。ただし、ここへのアクセスには4WDが必須である。
ジャンクション洞窟

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#火山活動 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-03 08:34 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
Petroglyph National Monument

ニューメキシコ州最大の都市アルバカーキーの郊外に、Petroglyph(ペトログリフ:岩面彫刻)の遺跡がある。他の原住民の遺跡でも岩面彫刻の遺跡は所々で見ることができるが、ここPetroglyph National Monument(ペトログリフ国立遺跡)にはその数およそ2万の岩面彫刻が残されている。まるでこの場所で一斉に岩面彫刻コンクールを開催したかのようである。他の原住民の遺跡で岩面彫刻を見るためには、通常長い距離トレールを歩かなければならないことが多いが、ここには岩面彫刻があふれており、岩面彫刻=辺鄙な場所という関係式がもろくも崩れ去る。

ここは15万年前に火山の爆発があり溶岩で埋め尽くされた場所である。公園の西側には今でも火砕丘を見ることができる。火山性溶岩が斜面に5フィート(1.5m)から50フィート(15m)積り、冷え固まり玄武岩となった。リオ・グランデ川の支流が玄武岩の下にある堆積物を浸食し、玄武岩は割れ、斜面に散らばった。その表面は長い年月の間に酸化し、黒っぽいつやを帯びるようになった。この黒沢を帯びた玄武岩を石で打ちつけると、酸化したフィルムの部分が削れる。これを利用して、動物、鳥、虫、人間、植物、幾何学模様などを描いたものが岩面彫刻である。ペトログリフ国立遺跡には、様々な時代や形の岩面彫刻が残されているが、古いものは再び酸化が進み、模様が黒っぽくなっている。ここには、紀元前1000年頃から1700年代までの岩面彫刻が残されており、その多くは原住民が残したものであるが、スペイン人が残したものもある。1275年から1300年にかけて米国西南部は厳しい旱魃に襲われ、この頃を境に放棄された集落が数多く遺跡として点在しているが、逆に水の豊富なリオ・グランデ川流域には他の地域から人々が集まり、集落が築かれるようになった。1300年頃から1600年頃にかけて彼らの残した岩面彫刻がここで見られるものの大多数を占める。16世紀末からはスペイン人の入植が始まり、反対に原住民の人口は減っていく。1692年には近くにスペイン人入植者によりAtrisco(アトリスコ)の町が建設されるに至り、新しい岩面彫刻は彼らの手によるものと考えられている。彼らは、十字架や牛や羊などを描いている。

岩面彫刻には、様々な模様が描かれているが、それぞれの絵の意味については、はっきりとしたことはわかっていない。原住民の社会では特定の動物は特定の部族や一族のシンボルを意味する場合があり、幾何学模様は天文現象などの方位を示す場合があるが、自然との調和を重んじる原住民の人生観を絵にしたのかもしれないし、単に昼下がりに落書きをしただけなのかもしれない。岩に刻まれた形を見ながら、何を描いているのかを想像するだけでも楽しい。

公園内には、岩面彫刻を見るために2つのトレールが整備されている。公園の南側には2マイル半(2.5km)のRinconada Canyon(リンコナダ峡谷)トレール、公園の北側にはBoca Negra Canyon(ボカ・ネグラ峡谷)トレールが整備されている。リンコナダ峡谷トレールは道が舗装されていないため、より自然のハイキングが可能であるが、ボカ・ネグラ峡谷トレールは舗装されているため、歩きやすい。私たちは、ボカ・ネグラ峡谷トレールを歩いたが、そのときに見た岩面彫刻のいくつかをここに紹介する。









 
              鳩?                      円盤?










            平和?                      狩人?       










          ユカの芽?                     踊る人?

解読にはかなりの高度な力が必要なようだ。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#原住民 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-02 08:21 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
Bandelier National Monument

サンタフェから車で1時間ほど北西に曲がりくねった険しい山道をたどっていくとFrijoles Canyon(フリヨレス峡谷)に到着する。この峡谷を見下ろす高台には、第2次大戦中、ひそかに原爆の開発が行われていたニューメキシコ州のロス・アラモス研究所がある。原爆の開発が行われるような人里はなれた山奥に、アナサジ族の遺跡が存在している。この遺跡は、Bandelier(バンデリア)遺跡と呼ばれている。19世紀末に、この遺跡を含め、ニューメキシコ、アリゾナ、メキシコの原住民の遺跡を調査した考古学・人類学者であるAdolph Bandelier(アドルフ・バンデリア)に因んで名づけられた遺跡である。

フリヨレス峡谷には、今から1万年前から狩人たちが行き来していた痕跡が残されているが、ここに定住集落が築かれたのは、1150年頃から1550年頃までのことである。フリヨレス川の水を利用して、フリヨレス峡谷を見下ろす高台(メサ)に畑を作り、コーン、豆類、スカッシュなどを栽培した。フリヨレス峡谷を形成する山壁は、火山性の凝灰岩でできており、これを利用して、レンガ状に加工して積み上げ、モルタルで接着し、プエブロ式の住居を築いた。より硬い玄武岩や黒曜石は研磨され、斧やナイフなどの道具として使用された。交易も行われ、綿、貝殻、トルコ石、オウムの羽などを手に入れた。ユカの葉を利用してバスケットを編み、白黒模様の土器を製作した。しかし、1550年頃には、旱魃の影響などで、フリヨレス峡谷の住民はここを旅立ち、リオ・グランデ川沿いの他の集落に移動した。口伝によれば、Cochiti Pueblo(コーチティー・プエブロ)の人々が彼らの子孫と言われている。

ここには、当時のプエブロ式住居の跡であるTyuonyi(チオニ)遺跡やキバの跡が残されているが、バンデリア遺跡の特徴は、フリヨレス峡谷の岩壁を削って造られた住居跡である。周囲の環境を活かして、柔らかい凝灰岩を削って穴を開けて住居とした。この岩壁には数多くの部屋が造られ、岩壁ごとマンションにしてしまったような感じである。どの穴も中はすすで黒くなっている。地表からは高いところにあるため、はしごで上り下りをしていたようである。トレールのはずれにあるAlcove House(アルコーブ・ハウス)は、140フィート(52m)もはしごを上らなければならず、チャレンジングである。
岩壁住居

子供がようやく通れるくらいの小さな穴もあり、いくつかの穴には実際に入ってみることができる。


ヘビの絵が描いてある穴があるので探してみよう。


付近は山深い場所であるため、トレールが整備され、山の散策もあわせてできるようになっている。この他、少し離れた場所にTsankawi(ツァンカウィ)遺跡が保存されている。ツァンカウィ遺跡は岩壁住居ではなくメサの上に築かれた住居跡で付近には岩面彫刻が多く残されている。トレールは4つのはしごを上り下りするなどこちらも歩きがいのあるコースとなっている。
ツァンカウィ遺跡

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#原住民 
▲ by shiraok4563 | 2007-11-01 10:37 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
Pecos National Historical Park

サンタフェから25マイル(40km)南東に下りたところに、Pecos National Historical Park(ペコス国立歴史公園)と呼ばれる国立公園ユニットがある。ここは、ペコスのアナサジ族の末裔と植民地支配を狙うスペインが出会った場所である。

ペコスには、800年ごろから竪穴式住居の跡が確認されている。1100年ごろには、プエブロ式住居が建てられ始めた。1450年ごろには、ペコスの小さな集落は、5階建てのプエブロ式住居が建つ、人口2,000人の都市に生まれ変わった。その理由には、農業の振興に必要な農地を生み出すために集落を集中させたという説や遊牧民である他の部族からの攻撃に対抗するために集合したという説などがあるが、よくわかっていない。ペコスに集まった人々は、Glorieta Creek(グロリエタ川)の水を活かして、とうもろこし、豆類、スカッシュなどを栽培した。遊牧の民とは、緊張関係にあったが、交易の主要なパートナーでもあった。ペコスの民は、アパッチ族などと穀物、衣料、土器などをバッファローの毛皮、石器、奴隷などと交換した。遊牧の民から手に入れた品は、他のプエブロの民などと、土器、オウムの羽、トルコ石などと交換された。

スペイン人との接触は、1541年のコロナド探検隊との出会いに遡る。ペコスの民は、黄金境を求めて探検を続けるコロナドたちを音楽とプレゼントでもてなしたという。コロナドは、ここに捕われていたプレーリーの原住民から東に豊かな町があると聞き、東に向けて出発したという記録が残っている。その後もスペインの探検家がニューメキシコを訪れるが、この場所では金も銀も発見されなかった。やがて、スペイン人たちは、貴金属の探索をやめ、この土地を植民地として経営し、そこに住む原住民をキリスト教に改宗させることを目的とするようになった。1598年にDon Juan de Onate(ドン・ファン・デ・オニャーテ)は、国王フェリペ2世からリオ・グランデ川上流域の植民地化を命ぜられ、400名の植民者、7,000頭の家畜、10名のフランシスコ派修道士とともにメキシコから北上し、リオ・グランデ川上流のニューメキシコをスペイン領と宣言した。彼は、ペコスにフランスコ派の修道士を派遣した。しかし、自然崇拝を行う原住民をキリスト教に改宗させることは容易ではなく、修道士は、原住民が崇拝の対象としていた偶像を破壊したため、緊張が高まった。

事態を憂慮したフランシスコ修道院は、1621年にベテラン宣教師Andres Juarez(アンドレス・フアレス)を派遣した。彼が原住民の病気を治癒して信頼を得ると、キリスト教の布教もスムーズとなり、1625年に教会を建てるまでになった。しかし、一部では、強制労働、貢物や忠誠を求めるスペインに対して反感が募り、それが1680年に原住民の大反乱となって噴出した。このとき僧侶らは殺害され、教会は破壊され、スペイン人はニューメキシコから追い出された。また、キリスト教への反感から、修道院敷地内に巨大なキバが設置された。

1692年にDiego de Vargas(ディエゴ・デ・ヴァルガス)は、部隊を引き連れ、失地の回復のためニューメキシコに帰ってきた。一部では戦闘となったが、ペコスは、スペインの部隊を平和裏に受け容れ、戦闘にはならなかった。フランシスコ派の宣教師たちも戻ってきたが、貢物は廃止し、穏健的に改宗を勧める方策をとった。1717年に教会は、同じ場所に再建されたが、キバはそのままにされた。ペコスは平和を取り戻したかに見えたが、1780年代にはコマンチ族の襲撃や疫病の流行などで、ペコスの人口は300に満たないまでに激減した。スペイン人の入植が進むと、ペコスの交易の中心地としての機能も衰え、サンタフェ・トレールが開通したころには、かつての隆盛は見る影も無くなっていた。1838年には最後の住人もペコスを去り、ペコスは廃墟と化してしまった。

ペコス国立歴史公園には、ペコス族の14世紀のプエブロ式住居があった場所のほか、スペイン人ミッションが建てた教会の跡、そのそばに残るキバの跡などが残されている。この他、公園では、一部で西部のゲチスバーグと呼ばれる南北戦争の戦いの一つ1862年3月のBattle of Glorietta Pass(グロリエッタ峠の戦い)の跡や1925年に開設されたForked Lighting Ranch(フォークド・ライティング牧場)の跡も敷地内に含まれている。
教会の跡

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#スペイン #原住民 
▲ by shiraok4563 | 2007-10-31 10:22 | New Mexico | Trackback | Comments(4)
Fort Union National Monument

1821年ミズーリー州に住むWilliam Becknell(ウィリアム・ベックネル)は、ラバを仕立てて、見知らぬメキシコの地サンタフェを目指して、西に向かった。彼が開拓したルートは、サンタフェ・トレールと呼ばれるようになり、ミズーリー州とメキシコとの取引の枢要なルートとなった。この道はそれ以来、多くの貨物を載せた場所が往来するようになった。ルートは、途中でアーカンソー川に沿って、Bent(ベント)兄弟の経営するTrading Post(交易所)を通ってサンタフェに到る安全だが時間のかかるマウンテン・ルートと斜めに突っ切る原住民襲撃の危険はあるが速いCimaron Route(シマロン・ルート)の2つのルートが使用された。サンタフェ・トレールを通って開拓民が入植し、ニューメキシコで牧場を始めるようになった。

1848年に米墨戦争の結果、ニューメキシコが米国領となり、サンタフェ・トレールの利用量が増えたことから、危機感を募らせたComanche(コマンチ族)、Ute(ウテ族)、Jicarilla Apache(ジカリラ・アパッチ族)らの原住民による、サンタフェ・トレールのキャラバン隊や開拓民に対する攻撃が激しくなった。このため、より機動的な軍事行動をとるために、サンタフェ・トレール付近に集約した軍事拠点を設ける必要性が高まった。1851年に、ニューメキシコを含む西南部の司令官であったEdwin Sumner(エドウィン・サムナー)中佐は、サンタフェから軍事拠点をサンタフェ・トレールの2つのルートが合流する地点にFort Union(ユニオン砦:第1次ユニオン砦)を設置し、兵士と物資の拠点とした。米軍は、ユニオン砦から、原住民掃討に赴くとともに、サンタフェ・トレールのキャラバン隊のための警備も行った。周辺の出先拠点には、ユニオン砦から武器・物資が配給された。

しかし、砦は周辺の材料で建てた簡易なものであったため、痛みも早く、より耐久性のある堅固な砦の建設が必要となった。1861年に南北戦争が始まると、職業兵士は他の戦線に抜かれ、砦には志願兵が詰めた。テキサスからの南軍の侵入の動きがあったため、ユニオン砦は早急な強化策が必要となった。Edward Canby(エドワード・キャンビー)大佐は、防御を強化するために、星型の土塁で覆われた新たなユニオン砦(第2次ユニオン砦)の建設を行った。1862年3月、ユニオン砦を出発したコロラド州志願兵と連邦軍により、南軍の侵攻はサンタフェ20マイル(32km)南東のGlorieta Pass(グロリエタ峠)の戦いで食い止められたため、第2次ユニオン砦が戦火を交えることはなかった。現在もこの土塁の跡が残っている。

南軍がテキサスに退き、ニューメキシコ侵攻の危険が去ったため、1863年、James Carleton(ジェームズ・カールトン)准将により、南西部の原住民に対応するために軍事機能と兵站機能を兼ね備えた本格的な砦(第3次ユニオン砦)の建設が始まった。完成までに6年を要したが、それまでの間にも、西のナバホ族、東のコマンチ族とキオワ族の連合軍との闘争は繰り広げられ、ユニオン砦から部隊が派遣された。1870年代に、一部のキオワ族、コマンチ族、シャイアン族がテキサス北部で反乱を起こした際にもユニオン砦から部隊が派遣された。1875年までに原住民との抗争は終わりを告げ、ユニオン砦は主として兵站基地としての機能を担うようになった。しかし、この機能も、1879年にサンタフェまで鉄道が通じると、次第に必要性が薄れていき、1891年にはその役割を終え、ユニオン砦は放棄された。

今日では、この最後の第3次ユニオン砦の建物の跡がわずかに残るばかりである。また、すぐ近くにはかつてのサンタフェ・トレールの轍の跡がくっきりと今でも残っている。第3次ユニオン砦の跡を見学できるようにトレールが整備されている。この辺りは、ガラガラヘビの宝庫なので、トレールからむやみに外れて草むらの中を歩かないようにしよう。私たちがトレールを歩いているときも、茂みの中から、ガラガラヘビが尻尾を震わせて出す独特のギーギーという音がそこここに響いていた。


(国立公園局のHP)

Tags:#砦 #西部開拓 
▲ by shiraok4563 | 2007-10-30 08:38 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
Chaco Culture National Historical Park

ニューメキシコ州の北東部に850年頃から1250年頃にかけて造られたアナサジ族最大の遺跡群が存在する。緻密な計画に基づいて整備された3-4階建ての500人規模を収容できる巨大な集合住居と多くのキバからなる集落(Great House:グレート・ハウス)が巨大なキバ(Great Kiva:グレート・キバ)を含む広場を取り囲むように整備されており、この計画集落がいくつも点在している。計画的な工事によって整備された周辺の道路は、東西南北からこの遺跡群にアクセスしており、ここがその時代の交易、政治、文化、宗教などの一大中心地であったことが伺われる。これらの遺跡群は、Chaco Culture National Historical Park(チャコ文化国立歴史公園)として保存されており、アズテック遺跡とあわせて、アメリカ原住民の最大級の遺跡として世界遺跡にも登録されている。

ここはどんなところであったのだろうか。この地域に住む原住民には、周辺の部族が一同に会し、宗教儀式を行う場であったとの話が伝わっている。これらの遺跡からは、独特の白黒の模様が施された土器が出土しているほか、この地では発掘されないトルコ石をあしらったビーズ、ネックレス、ペンダントなどが発見されており、高い技能をもった職能集団が存在したことをうかがわせる。また当時貨幣の代わりに用いられていた、貝殻、銅鐘、インコやオウムの羽なども発掘されており、メキシコ北部との大規模な交易の跡が残されている。巨大な石造りの建物も、初期には石を敷き詰め泥で固めた石壁が使用されていたが、建物が高度に巨大になるにつれ、砂岩をブロックの形に整形し、それを敷き詰めて、すきまを小さな石で埋め、モルタルで固めるようになっていく。複数階の建物の場合、1階部分の石壁は分厚く敷かれ、上に登るにつれて薄くなっており、計画的に建物の安定性を考えて建設されたことが伺える。高い技能をもった石工集団の存在が伺える。また、これらの集落は、18.6年周期で繰り返される月の昇降点のぶれを反映して配置がなされているものもあり、高い天文学的知識の裏づけも推察される。このように栄えた集落も、周辺の遺跡よりも早く、1200年ごろには何らかの理由により使用されなくなるが、その影響はアズテックやメサ・ベルデの遺跡に残されている。

ビジターセンターからは9マイル(14km)のCanyon Loop Drive(キャニオン・ループ・ドライブ)が整備されており、これを回ると6つの遺跡にアクセスすることができる。ビジターセンター裏の駐車場からは1マイル(1.6km)のトレールがあり、それをたどるとUna Vida(ウナ・ビダ)遺跡にたどり着く。ウナ・ビダとは、スペイン語でOne Lifeを意味する。この遺跡はほぼ自然の状態のまま保存されている。ウナ・ビダは、850年頃から1100年頃にかけて徐々に形成されていった遺跡で、チャコ遺跡の中でも最も東に位置する。
ウナ・ビダ

また近くには、Petroglyph(岩面彫刻)も残されている。


一方通行の道をたどって進むと次にたどり着くのは、Hungo Pavi(フンゴ・パビ)遺跡である。フンゴ・ピバは、ナバホ語で「葦の生える泉の村」を意味する。フンゴ・ピバは、グレート・ハウスがグレート・キバをDの字の形で取り囲むチャコの典型的な遺跡の形をとっている。943年頃から1047年頃にかけて段階的に整備された集落で150の部屋を擁した。遺跡自体は、発掘されず、そのままの状態に置かれている。
フンゴ・パビ

キャニオン・ループ・ドライブの折り返し地点付近には、ここの遺跡の中でも大きなものが3つ残されている。Chetro Ketl(チェトロ・ケトル)、Pueblo Bonito(プエブロ・ボニート)、Pueblo del Arroyo(プエブロ・デル・アロヨ)は、衛星写真で見ると、くっきりと集落の形が見える。







    チェトロ・ケトル          プエブロ・ボニート        プエブロ・デル・アロヨ

チェトロ・ケトルは、その名前の由来は不明だが、500の部屋を誇る巨大な遺跡でチャコ遺跡の中では2番目の大きさである。1010年ごろから12世紀のはじめにかけて建設された。1階部分に225部屋、2-3階部分に275部屋を数える。遺跡の西側部分のみが発掘されている。この遺跡の広場に当たる部分は、周囲の土地より12フィート(4m)わざわざ高く造られている。
チェトロ・ケトル

プエブロ・ボニートは、チャコ遺跡最大の遺跡である。スペイン語で「美しい村」という意味のこの遺跡は、最も調査が進んだ遺跡でもある。850年頃から1150年頃にかけて段階的に整備され、600の部屋と40キバを内包する巨大なコンプレックスであった。
プエブロ・ボニート

プエブロ・デル・アロヨは、スペイン語で「谷の村」を意味する。比較的短期間に1025年から1125年にかけて2段階で整備された集落である。この遺跡は、280の部屋と20のキバを誇ったが、広場にはグレート・キバは整備されていない。
プエブロ・デル・アロヨ

折り返しの道の途中にあるのが、Casa Rinconada(カーサ・リンコナーダ)である。カーサ・リンコナーダは、スペイン語で「角の家」を意味する。ここはチャコ遺跡最大のグレート・キバが設けられていることで知られる。このグレート・キバには夏至の日に太陽光が差し込み、反対側の壁を照らすように穴が設けられている。
カーサ・リンコナーダ

これらの遺跡のほか、ドライブの折り返し地点からトレールが出ており、それをたどるとKin Klesto(キン・クレスト)、Casa Chiquita(カーサ・チキータ)、Penasco Blanco(ペヤニャスコ・ブランコ)、Pueblo Alto(プエブロ・アルト)と呼ばれる遺跡や数々の岩面彫刻を見学することができる。カーサ・リンコナーダの奥には、Tsin Kletsin(ツィン・クレツィン)と呼ばれる遺跡もある。

今から1000年も前に、これだけ巨大な石造りの建築物を計画的に整備していたということは驚きで、北米大陸における原住民の歴史への見方が変わってくる。なお、チャコ遺跡に通じる道は、いずれも粘土質のダート・ロード(舗装されていない道)なので、スコールが降ると車が足元をとられて身動きできなくなる可能性があるので、必ず4WDで出かけるようにしよう。

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)

Tags:#原住民 
▲ by shiraok4563 | 2007-10-29 05:32 | New Mexico | Trackback | Comments(0)
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