ボストンから南に車で45分程度行ったところにNew Bedford(ニュー・ベッドフォード)という町がある。ここは、かつてアメリカの捕鯨基地であった町で、今もその当時の町並みが残されている。19世紀中ごろ、アメリカは世界の捕鯨大国で、世界の捕鯨船の半分以上は、このニュー・ベッドフォードの港から出航していたという。現在では、ここはNew Bedford Whaling National Historical Park(ニュー・ベッドフォード捕鯨国立歴史公園)に指定され、全米唯一の捕鯨をテーマとした国立公園ユニットとなっている。
ニュー・ベッドフォードの町は、1699年にクウェーカー教徒が教会を建てたのが町の始まりだが、ここが捕鯨基地として発展するきっかけを作ったのは、Joseph Russell(ジョセフ・ラッセル)という人物である。1761年に彼がManufacture(マニュファクチュア)という捕鯨船を出航させたのが始まりである。そこにJoseph Rotch(ジョセフ・ロッチ)というナンタケット島出身の捕鯨商が加わった。その頃までこの町はAcushnet(アクシュネット)と呼ばれていたが、ラッセルと同じ苗字のベッドフォード公爵にちなんで、ベッドフォードと変えようとしたが、マサチューセッツ州には他にベッドフォードという町があったため、ニュー・ベッドフォードと呼ぶこととした。18世紀には沿岸でクジラを捕獲していたため、漁場に近いナンタケット島が主たる捕鯨基地として機能していたが、クジラの漁場が遠くなるにつれ、大型の船が必要となり、喫水が浅く、砂州に囲まれたナンタケット島よりもニュー・ベッドフォードが次第に好まれるようになり、1840年に鉄道が開通し、ボストンやニューヨークなどの消費地とのアクセスが便利となると、ニュー・ベッドフォードの優位性は決定的なものとなった。
ニュー・ベッドフォードから出航した捕鯨船は、世界中の海に出かけ、北極海やベーリング海のような厳しい条件の場所にも出かけていったため、ニュー・ベッドフォードは「世界の捕鯨の首都」と呼ばれた。この頃は、本船からクジラを探し、小さな6人乗りボートを降ろして、小さなボートでクジラに近づいて銛を打ち込み、弱って浮いてきたところでクジラの背に乗り、やりを打ち込んでとどめを指すという捕獲方法がとられていた。1848年にLewis Temple(ルイス・テンプル)という鍛冶屋が先端部のかえしが1つになった鉄製の銛を発明し、打ち込まれた銛がクジラから抜けにくくなり、捕鯨量が増加した。セミクジラ、マッコウクジラのほか、西海岸でコククジラ、北極海でホッキョククジラを捕獲していた。クジラの脂身は、ろうそく、ランプオイル、潤滑油の原料となった。クジラのひげは、コルセット、傘の骨、馬車の鞭、帽子のつばなどに使用された。特にマッコウクジラからは、脂身よりも質の高い油となる鯨ろうやりゅうぜん香がとれ、重宝された。
ルイス・テンプルの像
しかし、19世紀半ばには、大西洋からマッコウクジラとセミクジラは姿を消し、20世紀を迎えるまでに西海岸のコククジラや北極海のホッキョククジラも姿を消した。これに伴いアメリカの捕鯨基地も西海岸さらにはハワイに移っていった。また、1859年にペンシルベニアで石油が発見されると次第にクジラ油の需要が減少していった。1870年代には北極海で氷に閉じ込められる事故が相次ぎ多くの船を失った。やがて蒸気船や捕鯨砲を備えた外国船との競争も激しくなり、ニュー・ベッドフォードの捕鯨基地としての役割は終わりを告げた。
1841年1月3日、ニュー・ベッドフォードの港からアクシュネットという名の捕鯨船が太平洋に向けて出航した。その乗組員の中には、
Herman Melville(ハーマン・メルビル)という名の20歳の青年がいた。彼は、1851年に、この体験を基にして、Moby-Dick(白鯨)を出版した。白鯨の中では、当時のニュー・ベッドフォードの町の様子が描かれている。
また、ニュー・ベッドフォードは、奴隷制度に反対したクウェーカーの伝統の残るリベラルな町で、捕鯨産業の隆盛による雇用の増大を背景に、多くの逃亡奴隷がニュー・ベッドフォードに安住の地を求めた。反奴隷運動家の
フレデリック・ダグラスもその一人である。南北戦争の際には、この町から多くの黒人が北軍に志願し、黒人部隊として名をはせた
マサチューセッツ第54連隊を構成した。
ニュー・ベッドフォード捕鯨国立歴史公園には、当時の捕鯨船の模型、捕鯨に用いられた器具、クジラのひげや歯や骨で作られた作品(Scrimshaw)、捕鯨をテーマとした絵画や写真、鯨の巨大な骨などが展示されている世界でも珍しい
捕鯨博物館があるほか、1831年に建てられ、メルビルも含め捕鯨船乗組員が航海の安全を祈った教会であるSeamen’s Bethel(シーメンズ・ベテル)、1836年に竣工の今も使用されている
税関所、かつて2つの銀行が同居した
Double Bank(ダブル・バンク)ビル、捕鯨船乗組員が時間を合せるのに用いた日時計、1810年に建てられた
Rodman Candleworks(ロドマン蝋燭工場)、捕鯨商William Rotch Jr.(ウィリアム・ロッチ・ジュニア)が捕鯨全盛期の1834年に建てたRotch-Jones-Duff House(ロッチ/ジョーンズ/ダフ家邸宅)などが点在している。
シーメンズ・ベテル
ロッチ/ジョーンズ/ダフ家邸宅
この町や港を散歩すると、メルビルが見たであろう風景が甦ってくる。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
奴隷の身分に生まれ、父親が誰かわからず、母親と一緒に暮らせず、奴隷として過酷な生活を経験し、黒人に読み書きを教えることが禁じられた時代に独学で読み書きを覚え、ついには逃亡して自由の身分となり、奴隷解放運動に身を尽くし、黒人の地位向上にその生涯を捧げた人物がいる。その人物の名は、
Frederick Douglass(フレデリック・ダグラス)。南北戦争前後の頃、最も有名な黒人と呼ばれた人物である。貧しく、厳しい生い立ちにも挫けることなく、運命に立ち向かっていったその一生は、どんなドラマよりも劇的である。彼が最後に暮らした邸宅がワシントンDCのはずれにある。
フレデリック・ダグラスは、まだ奴隷が合法であった時代の1818年に、メリーランドで奴隷の母親に生れた。生れた月日は不詳である。父親は白人だが、誰なのか不明で、生れたときは母親の苗字をとって、Frederick Augustus Washington Bailey(フレデリック・オーガスタス・ワシントン・ベイリー)と名付けられた。母親はよそに売られ、フレデリックは祖父母と従姉妹の許で育った。その母親も7歳のときに亡くなっている。8歳のときに、ボルティモアのAuld(オールド)家に召使いとして出された。12歳のときにオールド夫人から簡単な読み書きを習うが、当時黒人奴隷に教育を施すことは法律で禁止されていたため、オールド家の主人は夫人にフレデリックに読み書きを教えることを禁じた。しかし、このことはかえってフレデリックの学習意欲を高め、彼は学問こそが自由への道だと信じひそかに勉強を続けた。16歳のときに戻され、反抗心が強いとみなされたフレデリックは、奴隷を「叩き直す」ことで知られたEdward Covey(エドワード・コーベイ)の農場に出され、毎日のように鞭で打たれた。ついに我慢できなくなったフレデリックは、コーベイに対峙した。この日を境に鞭で打たれることはなくなったという。そしてコーベイから脱走を試みるが、失敗し、ボルティモアに連れ戻され、今度はそこで造船所で働いた。ボルティモアでは、自由の身分になった多くの黒人に出会ったが、その中には後に妻となるAnna Murray(アナ・マレー)も含まれていた。
しかし、チャンスは再び回ってきた。1838年9月3日、フレデリックは、知り合いの船乗りの協力を得て、船乗りの格好で汽車に乗り、さらに船を乗り継いでニューヨークに脱出した。自由な身分になったフレデリックにアナ・マレーも加わり、二人は結婚し、マサチューセッツ州のNew Bedford(ニュー・ベッドフォード)に移り住んだ。結婚を機に、フレデリックは、ダグラスを苗字として名乗るようになった。フレデリックは、イギリスの詩人
Walter Scott(ウォルター・スコット)の詩The Lady of the Lakeの登場人物からとったものである。そこで黒人の教会に通い、反奴隷集会に顔を出すようになり、奴隷反対運動の急先鋒
William Lloyd Garrison(ウィリアム・ロイド・ギャリソン)のThe Liberator(解放人)を購読するようになった。そのギャリソンが参加する集会に参加したところ、思いがけず自分の経験を話すように言われたのが、奴隷反対運動家としてのデビューであった。彼の雄弁は多くの人々を感化し、あちこちで出席依頼がかかるようになった。1843年には、ボストンのAnti-Slavery Society(反奴隷協会)からの依頼でニューイングランドを講演して回った。1845年には、自叙伝のNarrative of the Life of Frederick Douglass, an American Slave(フレデリック・ダグラス自叙伝:アメリカの奴隷)を著し、大きな反響を呼んだ。有名になると、今度は逃亡奴隷を捕まえて元の所有者に返すことで賞金稼ぎをしていた人々がダグラスを狙うようになった。このため、ダグラスは一時ヨーロッパに逃亡した。このときイギリス人の友人が彼の自由を買い取ってくれたため、晴れて自由の身となることができ、1847年に帰国した。帰国後、ニューヨーク州のロチェスターに身を置いて奴隷制度廃止を訴える新聞を発行するとともに、活動の範囲を広げ、女性参政権問題についても積極的な支持を訴えた。1848年にはニューヨーク州のセネカで行われた
女性の権利向上を訴える大会にも参加し、女性の人権を謳う感情宣言に署名している。この間に知り合った反奴隷運動家の中に
John Brown(ジョン・ブラウン)がいた。1859年に、彼は決行の2ヶ月前に連邦武器庫奪取計画をダグラスに打ち明けて協力を求めたが、ダグラスは却ってアメリカ国民の感情を悪化させるとして断った。しかし、ブラウンの計画が失敗に終わると、ダグラスは共犯者として疑われることを恐れて、一時カナダやイギリスに身を寄せた。南北戦争が始まると、ダグラスはこの戦争は奴隷制度の廃止のために行われるものだと呼びかけた。1863年に奴隷解放宣言が出されると、黒人に兵士に志願するよう呼びかけるとともに、リンカーン大統領と会い、黒人兵の地位の向上を訴えた。彼の息子2人も有名な
マサチューセッツ第54連隊に所属し、南北戦争に参加した。
ダグラスは、南北戦争後は、黒人の参政権を求めて新たに運動を展開した。南部に対する穏健的な政策を信奉する
ジョンソン大統領を厳しく非難し、1868年の選挙では
グラントを推し、人種による投票権の差別を禁止した憲法修正第15条項の採択に力を尽くした。この憲法修正条項は、性別による投票権の差別を禁止するものではなかったため、黒人参政権運動はこの時点で女性参政権運動と袂を分かつこととなってしまった。ダグラスは、1872年にロチェスターの自宅が火事で消失してしまったの機に、ワシントンに移住した。1874年には、解放された元奴隷の黒人のための金融機関として設立されたFreedman’s Savings Bank(フリードマン貯蓄銀行)の頭取に任命されるが、前任までの放漫経営が祟り、幕を閉じる役割となった。その後、再び講演活動に戻り、1875年には公共の場所での差別を禁止する公民権法の成立を見届けた。1877年には
Rutherford B. Hayes(ラザフォード・B・ヘイズ)大統領によってDC担当の連邦裁判所執行官に選ばれたが、ヘイズは南部からの連邦兵の撤退を実行し、事実上南部での人種差別撤廃の実行手段を無くしてしまった大統領であったため、そのヘイズから名誉職の任命を受けたことを多くの黒人から批判された。また、同年には、Anacostia(アナコスティア)川の近くの白人以外お断りの土地に邸宅を購入し、Cedar Hill(シーダー・ヒル)と名付けた。ここがダグラスの終生の家となった。彼はSage of Anacostia(アナコスティアの賢人)と呼ばれるようになった。
シーダー・ヒル
1880年にDCの登記管理所長に選ばれるが、1882年には長年連れ添ったアナを亡くしてしまう。しかし、2年後の1884年に彼の秘書であった
Helen Pitts(ヘレン・ピッツ)と再婚し、世間を驚かせた。それはピッツが白人であり、当時人種を超えた結婚は許されざるものと考えられていたためである。ダグラスは、最初の結婚は母親の人種に敬意を払い、2回目の結婚は父親の人種に敬意を払っただけだと言った。1889年から1891年まではハイチ総領事を務めた。1895年にダグラスは、シーダー・ヒルで亡くなった。ヘレン・ピッツは、このシーダー・ヒルをダグラスへの記念碑とするためにその保存に尽力した。シーダー・ヒルには、当時の上流階級の家具や調度品が並び、ダグラスの成功した地位を伺わせる。その中には、リンカーン夫人から送られたリンカーンが使用した杖も残されている。ダグラスは外の東屋で読書をするのが楽しみであったようだ。
東屋
当時白人以外お断りだった土地は、残念ながら現在ではすっかり異なり、ワシントンの犯罪多発地帯となっている。訪問するときには車で移動するなど十分な注意が必要だ。
(国立公園局のHP)
Richmond(リッチモンド)でグラントの軍に包囲されたリーは、大胆な作戦を考え付いた。それは、2倍以上の北軍に囲まれていながら、50,000の南軍の一兵団を割き、シェナンドア・ヴァレー、さらにはワシントンの背後に部隊を派遣し、撹乱することで、リッチモンドにおける北軍の勢力を割かさせ、南軍への圧力を弱めさせるというものであった。このために、リーは、1864年6月12日、
Jubal Early(ジュバル・アーリー)中将に8,000の兵を持たせ、北上させた。
アーリーの部隊は、途中
John Breckinridge(ジョン・ブレッキンリッジ)少将の兵とLynchburg(リンチバーグ)で合流して14,000にまで膨れ上がり、シェナンドア・ヴァレーを駆け上がり、1864年7月5-6日にポトマック川を渡って、メリーランドに侵入した。アーリーは、7月8日にFrederick(フレデリック)の町を包囲し、攻撃を加えない代償として20万ドル要求し、これをものにした。南軍の北上の情報は、ボルティモア=オハイオ鉄道の職員によってグラントにもたらされた。ワシントンまでの途中には、
Lew Wallace(リュー・ワラス)少将の部隊2,300しかいなかった。グラントは直ちに、
James Rickett(ジェームズ・リケット)准将の師団5,000を差し向け、追って
Horatio Wright(ホレイシオ・ライト)少将の第6兵団を派遣した。ワラスは、アーリーがワシントンを目指しているのか、ボルティモアを目指しているのか明らかではなかった。このため、リケットの師団と合流し、ボルティモアとワシントンへの分岐点に当たるメリーランド州のフレデリックの郊外のMonocacy Junction(モノカシー・ジャンクション)で南軍を待ち伏せることとした。
両軍は、7月9日、モノカシーで激突した。まず南軍
Dodson Ramseur(ドドソン・ラムサール)少将率いる師団が北軍の前進部隊と衝突した。続いて、アーリーは、John McCausland(ジョン・マッコースランド)准将の騎兵隊にモノカシー川を渡らせ、ワレス軍の左翼を攻撃させた。そこにはリケットの師団が待っていて、Worthington Farm(ウォーシントン農場)とThomas Farm(トーマス農場)の間で激しい戦闘となった。
ウォーシントン農場
南軍は、さらにリケット師団の左翼に
John B. Gordon(ジョン・B・ゴードン)少将の師団をぶつけた。圧倒的に数で劣る北軍はたまらず、ボルティモアに向かって退却を始めた。
戦闘の激しかった場所(林の向こうが南軍がモノカシー川を渡った場所)
戦いは南軍の勝利であったが、アーリーはここで1日費やしてしまった。翌日、南軍はワシントンに向けて進軍し、ワシントン防衛網の一つ
Fort Stevens(スティーブンス砦)の前に到着した。しかし、そこには、1日の差でライト少将の第6兵団が到着しており、北軍と南軍との力関係は逆転してしまった。翌日、アーリーは、スティーブンス砦を攻撃するが、堅固な防御を前に、これを落とすことは不可能と判断し、兵を引き揚げた。このとき、リンカーンがスティーブンス砦に状況視察に来て、砲台に登り、南軍の様子を見ようとしたところ、南軍の狙撃兵から攻撃を受け、隣に立っていた医務官に当たり死亡してしまった。その場に居合わせこの様子を見た若きOliver Wendell Holmes, Jr(オリバー・ウェンデル・ホルムズ・ジュニア)がリンカーンに向かって「ばかやろう、頭を下げろ」と言ったという話が残っている。ホルムズは、後に最高裁判事として活躍する。また、対峙する南軍のブレッキンリッジ少将は、1860年の大統領選挙で南部民主党の候補としてリンカーンと争った人物で、大統領選挙の対立候補が戦場で対峙した唯一の例となったという。これも後日談だが、モノカシーで北軍を率いたワラスは、後に小説ベンハーでベストセラー作家となる。
1日の差でワシントン攻略を逃したアーリーは、ライト師団の追撃を振り切り、シェナンドア・ヴァレーに引き揚げるが、グラントはアーリー追討のため、さらに
Philip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将に4万の兵を与えて、Army of the Shenandoah(シェナンドア川軍)を組織させ、シェナンドア・ヴァレーに向かわせた。そしてアーリーとシェリダンは、シェナンドア・ヴァレーでまみえ、
Ceder Creek(セダー・クリーク)で最後の決戦に挑むこととなる。
(国立公園局のHP)
メリーランド州のボルティモアの郊外に広い農園に囲まれたお屋敷が立っている。ここはHampton National Historic Site(ハンプトン国立史跡)と呼ばれ、この屋敷の持ち主であったRidgley(リッグレー)家6代の歴史を通して、アメリカ上流社会の暮らしぶりの変遷を今日に伝えている。
物語は、Charles Ridgley(チャールズ・リッグレー)大佐がNorthampton(ノーザンプトン)に1,500エーカー(600ha)の土地を購入したことから始まる。彼は移民3代目で、土地取引や商業で財をなし、郡の裁判官や民兵の仕官を務めるなど、地元の名士であった。後にメリーランド州下院議員も務めた。1760年に、彼は、この1,500エーカーの土地を息子のチャールズ・リッグレー・ジュニア大尉に譲り、二人の息子チャールズ、ジョンとともにGunpowder River(ガンパウダー川)のほとりで製鉄所を始めた。この製鉄所は独立戦争の際にアメリカ軍や私掠船に大砲、弾丸、キャンプ用のやかんなどを供給し、アメリカの独立を助けるとともに、リッジレー家の財産拡大に寄与した。チャールズ・ジュニアは、この財で没収された王党派の土地を財産に加えていった。彼の土地は、24,000エーカー(97平方キロ)にまで膨らんだ。彼は、ノーザンプトンの土地に大きな屋敷の建設を計画した。屋敷はハンプトンと名付けられ、7年をかけて1790年に完成した。33の部屋からなるこの屋敷は、当時アメリカで最も大きな屋敷と言われた。1階のホールは、51フィート(15m)×21フィート(6m)あり、50人のディナーが可能であったという。300人規模のパーティーが頻繁に催された。
ハンプトン
この年、チャールズ・ジュニアは、子供がなかったため、甥の
Charles Carnan Ridgley(チャールズ・カーナン・リッグレー)に12,000エーカー(49平方キロ)の土地と製鉄所の権利の2/3を譲り渡した。チャールズ・カーナンは、元の名前がチャールズ・リッグレー・カーナンといったが、財産相続の条件に従い、チャールズ・カーナン・リッグレーに改名した。チャールズ・カーナンのときがリッグレー家の絶頂期で、土地は25,000エーカー(101平方キロ)まで増え、製鉄所のほか、農園、牧場、サラブレッドの飼育、炭鉱、大理石採掘、製粉所、貿易などを経営し、チャールズ・カーナンはメリーランド州知事にも選ばれた。1829年にチャールズ・カーナンが亡くなったときには、350の奴隷は解放され、ハンプトンの屋敷と4,500エーカー(1,800ha)の土地は長男のジョンが相続し、残りの財産は他の子供に分配された。ジョンは、妻のEliza(エリザ)とともに庭園造りに情熱を注いだという。また、ジョンは事業経営のため再び60人の奴隷を購入するが、1864年にメリーランド州では奴隷の保有が禁じられた。この結果、奴隷の労働力に依存した労働集約的なリッグレー家の事業は、次第に衰退していく。1867年に、資産はジョンの息子のチャールズに譲られ、1872年にチャールズが亡くなると、その資産はその息子のジョンに譲られ、1938年にはその息子のジョン・ジュニアに譲られた。この頃には財産の維持は困難となり、ジョン・ジュニアは相続した土地を利用して不動産開発することでしのいだが、それも続かず、1948年には屋敷を一般に公開し、ファーム・ハウスに移り住んだ。しかしながら、ハンプトンは、150年以上に渡り、1つの家族で引き継がれてきたため、調度品が散逸せず、多くの古い家具や食器類などが残されている。
ファーム・ハウス
(国立公園局のHP)
ヨーロッパでのナポレオン戦争にはるか離れたアメリカも巻き込まれた。まだ国力の伴わないアメリカはヨーロッパの戦争に巻き込まれないよう中立政策をとったが、イギリス、フランスともにこれを無視し、米国商船を拿捕した。
マディソン大統領は、いずれかの国が中立を保障してくれるのであれば、相手国との貿易を断ち切るとの手段に出て、損害を減らそうとした。フランスがアメリカの中立の保障を約束したため、アメリカとイギリスの間は急速に関係が悪化した。イギリスは、原住民を扇動してフロンティアの人々を攻撃させるとともに、次々とアメリカ商船を拿捕し、イギリス人乗組員(イギリス出身のアメリカ人を含む。)を徴発した。この結果、アメリカ国内にイギリスへの宣戦布告を求める声が高まり、1810年の中間選挙で大量の戦争推進派(War Hawks)が当選したことから、1812年6月18日、マディソンは押し切られてイギリスに戦線布告を行った。これがいわゆる英米戦争(War of 1812)の始まりである。
しかし、この戦争はアメリカにとってつまづきの連続であった。マディソンの志願兵募集の呼びかけに対して各州は州兵を出し惜しみ、ニューイングランド諸州は戦争でイギリスとの貿易機会を奪われることを恐れ、戦争に協力しなかった。アメリカの当初のカナダ侵略作戦は完全に失敗に終わった。
Oliver Perry(オリバー・ペリー)のエリー湖での勝利や
William Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン) によるBattle of the Thamse(テームズ川の戦い)でのイギリス・原住民連合軍に対する勝利などの成果はあったが、ヨーロッパでのフランスとの戦争が終焉を迎えるにつれ、イギリスはアメリカ大陸での作戦を本格化させ、ニューヨークとワシントンへの侵攻を目指した。Robert Ross(ロバート・ロス)陸軍少将とAlexander Cochrane(アレクサンダー・コクレン)海軍中将率いるイギリス陸軍・海軍連合5,000名がチェサピーク湾を北上し、8月24日のBattle of Blandensburg(ブランデンスバーグの戦い)で民兵中心のアメリカ軍は撃破され、大統領、大統領夫人、閣僚らはワシントンを脱出し、ワシントンは焼き討ちにあった。このときホワイトハウス、国会議事堂なども焼き討ちにあった。ワシントンを攻略したイギリス軍の次なる標的は、ボルティモアであった。
ボルティモアは、独立戦争従軍経験を持ち、地元選出の上院議員でもあった
Samuel Smith(サミュエル・スミス)少将の指揮の下、イギリス軍の侵攻を予期し、ヴァージニア、メリーランド、ペンシルベニアの民兵などからなる15,000の兵を配備し、万全の準備が進められていた。海上には、John Rodgers(ジョン・ロジャース)准将率いる4隻の艦船が配備された。防御の要となるFort McHenry(マクヘンリー砦)には、
George Amistead(ジョージ・アーミステッド)少佐以下1,000名ほどが詰めていた。マクヘンリー砦は、1802年に竣工した星型のボルティモア港防衛のために建設された砦で、地元出身の第3代戦争長官
James McHenry(ジェームズ・マクヘンリー)にその名は由来する。
アミステッドの像
1814年9月12日、イギリス軍5,000はNorth Point(ノース・ポイント)に上陸し、ボルティモアに向け進軍した。途中アメリカ軍守備隊と戦闘になり、ロバート・ロス少将は戦死し、代わってイギリス軍の指揮は、Arthur Brooke(アーサー・ブルック)大佐がとることとなった。ブルックは、アメリカ軍を撃退し、ボルティモアまで2マイル(3km)のところまで迫り、海軍の攻撃を待った。コクランは、13日未明、マクヘンリー砦に対して、19隻の艦船が
爆撃を開始した。爆撃は、25時間続くこととなる。1日の爆撃でもマクヘンリー砦はびくともしないことから、コクランは作戦を変え、その夜、海軍がボルティモアの西側に攻撃を仕掛ける間に、その隙にブルックが兵を率いてボルティモアの東から侵入することを期待した。しかし、悪天候の中、闇夜の上陸作戦は失敗に終わり、朝まで続けられた1,500から1,800発と推定される爆撃も効果がなく、イギリス軍はボルティモア攻略を諦め、兵を撤退させた。その朝、マクヘンリー砦には、銃声とともに、Yankee Doodle(ヤンキー・ドウードル)の曲(日本では「アルプス一万尺」)にのって、大きなアメリカ国旗が掲げられた。縦30フィート(9m)、横42フィート(13m)の
15個の星と15本のストライプがあしらわれたこの旗は、イギリス軍が遠くからでも見えるようにとボルティモアの旗作りの名人
Mary Pickersgill(メアリー・ピカーズギル)によって砦用に作られたものであった。この旗は、現在ワシントンのスミソニアン歴史博物館に保存されている。
マクヘンリー砦
この旗をボルティモア港に停泊中の艦船から感動を持って見守っていた若き弁護士がいた。彼は、アメリカ艦船に乗り、イギリス艦船に拿捕されていた友人の釈放を交渉していたところ、イギリス軍のボルティモア侵攻作戦が始まり、そのまま拘禁されていたのであった。彼の名前は、
Francis Scott Key(フランシス・スコット・キー)。キーは、その場で作詞を始め、16日ボルティモアに戻って詩を完成させた。その詩は当初
”Defence of Fort McHenry”(マクヘンリー砦の防衛)と呼ばれたが、やがて”To Anacreon In Heaven”(天国のアナクレオンへ)というイギリスの酒歌のメロディーに乗せて歌われるようになり、タイトルも”The Star-Sprangled Banner”(星条旗よ永遠なれ)に変わった。この歌は、1931年にアメリカの国歌となった。
マクヘンリー砦は、1848年にボルティモア湾の先にFort Carrollキャロル砦)ができるまでボルティモア防衛の要としての役割を果たした。南北戦争の際には、南軍兵士や南軍親派を拘留する拘置所として用いられ、囚人の中にはフランシス・スコット・キーの孫も含まれていたという。1917年から1923年までは陸軍病院として第1次世界大戦の退役軍人の治療が行われた。第2次世界大戦中には、コーストガードの訓練施設として用いられた。今日では、マクヘンリー砦は、National Monument(国立遺跡)に指定されるとともに、Historic Shrine(歴史聖堂)としての位置づけもなされている。英米戦争の主戦場にして、アメリカの国歌の生まれた場所は、多くのアメリカ人に愛されている。
(国立公園局のHP)