カリフォルニア州のフルーツなどの農産物の最大の生産地であるセントラル・バレーと大都市ロサンゼルスの間にはテハチャピ峠が立ちはだかっている。ここは貨物列車もとぐろを巻くように登坂する場所として鉄道ファンには知られているが、その近くにオバマ大統領が初めて指定した国立公園ユニットがある。ここは、ヒスパニックの労働運動指導者として1960年代から1980年代にかけて季節農業労働者の地位向上に努めた
César Chávez(セザール(シーザー)・チャベス)が組織したUnited Farm Workers of America (UFW)(全米農業労働者組合)の本部が置かれる場所であり、チャベスが永眠する場所でもある。
ビジターセンター
チャベスは、1927年3月31日にアリゾナ州ユマに雑貨屋と牧場を営む両親の元に生まれた。一家の暮らしはつつましくも生計は安定していたという。しかし、チャベスが11歳のとき、一家は大恐慌の荒波に飲み込まれ、家屋・土地を失い、カリフォルニアの農場で季節労働者として働くために移住した。チャベスは家計を支えるため、中学で学校を辞め、自身も季節労働者として農園で働くようになる。1946年から2年間海軍で勤務し、除隊後、農園で知り合った
Helen Fabela(ヘレン・ファベラ)と結婚した。チャベスは自身の農園での経験から季節労働者の過酷な労働条件を身をもって体験した。大恐慌時の季節農業労働者の苦境はスタインベックの「怒りの葡萄」に描かれているところである。
1952年、ヒスパニック系住民の地位向上のため選挙権登録運動などを行っていたCommunity Service Organization(CSO)の創始者
Fred Ross(フレッド・ロス)は、サンノゼ支部を立ち上げようとしていたとき、この若者の才能を見出し、CSOにリクルートした。チャベスは、ロスの下で、10年間公民権運動の手ほどきを受け、後にCSOの事務局長として活躍した。農園労働者の過酷な労働条件と貧困を知り尽くしていたチャベスは、1962年の誕生日に、CSOでの経験を農園労働者の地位向上のために活かすべく、CSOの事務局長を辞し、妻ヘレンや同士の
Dolores Huerta(ドロレス・ウエルタ)らとともにNational Farm Workers Association(全米農業労働者協会)を立ち上げた。これまで誰も成功できなかった農園労働者の組織化への挑戦が始まった。
チャベスのオフィス
それまで農園の雇用主は、農園労働者を過酷な労働条件におき、労働者側が抵抗すると、暴力で脅し、又は代替労働者を雇うことで労働者側の抵抗を抑圧してきた。チャベスらは1965年Agricultural Workers Organizing Committee(農業労働者組織委員会)によって開始されたデラノでのブドウ農園労働者のストライキの支援に回った。チャベスは、非暴力主義を掲げ、ストライキ、デモ、不買運動等により、農園労働者の待遇改善を求めた。彼自身、ハンガーストライキを行うこともあった。この運動を通じて、全米農業労働者協会と農業労働者組織委員会は合併して全米農業者労働組合を結成し、組合への支持は多くの農業労働者に広まった。次第に彼らの運動は全国的な注目を浴びるようになり、このストライキは連邦議会上院でも公聴会でも取り上げられた。5年余りの長丁場となったが、最終的に全米農業者労働組合は約1万人の農業労働者の代表として賃金等の交渉を行うことが認められ、彼らの賃金・労働条件の向上を勝ち取った。
1970年に始まったレタス争議を契機としてトラック運転手組合と全米農業労働者組合との間の権限争議が勃発した。これは農業労働者の労働条件の切り下げを目論む農園主と組合勢力拡大を目論むトラック運転手組合が手を結び、全米農業者労働組合を排除しようとした動きであった。チャベスは全米農業者労働組合の正当性を訴えて、ピケ、不買運動等を行った。この争議は、結果的に加州議会でAgricultural Labor Relations Act of 1975(1975年農業労働関係法)が成立するまで続いた。同法は農業労働者が選挙でその利益を代弁する組合を選ぶ権利を認める法律で、この法律に基づく選挙では農業労働者は圧倒的多数で全米農業者労働組合を自らの代表に選任した。
80年代にはチャベスはブドウ栽培に使用される農薬問題にも関心を向け、不買運動等を通じて、農薬が農業労働者の健康に与える影響への警鐘を鳴らした。こうして農業労働者の労働条件の向上に努めたチャベスであったが、ときにはハンガーストライキをも辞さない不屈の運動手法は次第にチャベスの健康を蝕み、1993年4月26日アリゾナ州ユマで帰らぬ人となった。
チャベスの墓
彼が運動に用いたスローガン"Sí, se puede"(Yes, one can)はオバマ上院議員の選挙スローガン(Yes, we can)となり彼の大統領当選の原動力の1つとなった。そのオバマ大統領がチャベス氏を記念する国立公園ユニットを指定したことには運命の絆を感じる。彼の誕生日3月31日はカリフォルニア、コロラド、テキサスなどの州で祝日に指定されている。敬虔なクリスチャンであったチャベスの人生は、彼のモットーである"It is my deepest belief that only by giving our lives do we find life"(私の深い信念は人生を捧げることで生きる意義を見出すということである。)のままに生きた人生であった。
メモリアルガーデンの石碑
(国立公園局のHP)
2013年3月25日にオバマ大統領が新たに401番目の国立公園ユニットとして追加した場所がオハイオ州デイトンの近くにある。ここはBuffalo Soldiers(バッファロー部隊)と呼ばれた黒人部隊の士官であった
Charles Young(チャールズ・ヤング)の住居が保存されている。
バッファロー部隊とは、1866年に議会により南北戦争後に原住民との戦いのために創設され、西部に配属された黒人部隊の愛称である。当初6部隊が編成されたが、間もなく第9及び第10騎兵隊並びに第24及び第25歩兵隊の4部隊に再編成された。第10騎兵隊と戦った原住民がバッファローの毛皮に似た兵士の毛髪の態様とバファローのような戦闘における勇敢さから第10騎兵隊のことをバッファロー部隊と呼んだのがバッファロー部隊の始まりで、バッファロー部隊の名称は黒人部隊全体の愛称として流布するようになった
バッファロー部隊は、原住民との戦闘ばかりでなく、国立公園の保護の任務を担ったことでも知られている。陸軍は、1891年から1913年にかけて
ヨセミテ国立公園、
セコイア国立公園、
キングス・キャニオン国立公園(当時はグラント将軍国立公園)の警備に任ぜられ、その一環としてサンフランシスコのプレシディオhttp://usnp.exblog.jp/6017246/に駐屯するバッファロー部隊がその任務に配属されることがあった。彼らは米西戦争やフィリピン戦争にも従軍している。
バッファロー部隊の指揮官は白人士官であったが、その例外がこの国立公園ユニットの主人公であるチャールズ・ヤングである。ヤングは、1864年に解放奴隷の両親の下、ケンタッキー州に生まれた。一家はヤングが2歳のときにオハイオに移住した。ヤングは父親の薦めもあり、1883年に陸軍士官学校を受験し、見事合格。1889年には人種差別や偏見を乗り越え、陸軍士官学校創設以来3人目の黒人卒業生として任官した。
卒業後、ヤングは第9騎兵隊に少尉として配属され、西部各地を転戦したほか、オハイオ州の大学で教鞭もとった。1903年には、セコイア国立公園所長代行として道路整備や密猟者対策などに尽力した。その後、陸軍アタッシェとしてハイチやリベリアに派遣されるとともに、フィリピン戦線などに従事するなど、海外で活躍し、中佐まで昇格した。1917年に一旦健康を理由に大佐昇格・除隊となるが、第1次大戦時に復帰し、本国で新兵の訓練に当たった。大佐の地位は、当時の黒人士官の中で最上級のランクであった。1920年には再びリベリアに陸軍アタッシェとして派遣されたが、その任期中、1922年に調査のため訪れたナイジェリアで客死する。ヤングは、アーリントン国立墓地に眠っている。
オハイオ州のWilberforce(ウィルバーフォース)には、ヤングが1899年に大学で教鞭をとっていたときに購入した家が残されている。ここは海外勤務の多かったヤングが自宅に定めた場所であった。ヤングは、National Association for the Advancement of Colored People(全米黒人地位向上協会)の創設者
W.E.B. Du Bois(W.E.B.デュボア)や詩人
Paul Laurence Dunbar(ポール・ローレンス・ダンバー)らと親交を深め、彼らはヤングがYoungsholm(ヤングショルム)と呼んだヤング邸の常連客であったという。
ヤングショルム
このユニットはまだ指定されたばかりでヤング邸はまだ一般にオープンになっていない。今後改修工事が進められる予定であり、早期に公開されるようになることを願っている。
(国立公園局のHP)
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by shiraok4563
| 2013-05-13 11:10
| Ohio
奴隷の子供として生まれた後、逃亡して自由の身になり、さらには自らの危険も顧みず70人近い奴隷の逃亡を手引きし、旧約聖書のイスラエルの民のエジプト脱出にちなみ「モーゼ」と呼ばれた女性がいる。名前は
Harriet Tubman(ハリエット・タブマン)。日本ではあまり知られていないが、米国では
小学生が読む偉人伝に取り上げられるほど有名な人物である。彼女の活躍は奴隷解放運動の場にとどまらず、南北戦争中にはスパイとして南軍陣地に潜入し、戦後は女性の参政権運動に取り組み、貧しい黒人のための老人ホームを創設するなど、その超人的な活躍には驚嘆させられる。彼女が生まれ育った地域は、2013年3月25日オバマ大統領が署名した大統領令により399番目の国立公園ユニットとして指定された。
ハリエット・タブマンは奴隷の父Ben Ross(ベン・ロス)と母Harriet Green(ハリエット・グリーン)との間に9人兄弟姉妹の5番目の子供として生まれた。生まれた年は1822年ごろとされているが、定かではない。生まれたときの名前はAraminta(アラミンタ)であったが、成長してからは母親の名前ハリエットを名乗るようになった。母はMary Brodess(メリー・ブロデス)、父は材木プレンテーション経営者のAnthony Thompson(アンソニー・トンプソン)によって所有されていたため、一緒に暮らすことができず、ハリエットは母親によって育てられた。後に子供のうち3人はブロデス家によって売却されるなど不安定な家族関係にあった。
ハリエットが生まれたとされるブロデス農場跡
ハリエットは5歳から働きに出され、働きが悪いとしてしばしば鞭で打たれた。12歳の時に雑貨屋にお遣いに出され際に。無許可で農場から離れた奴隷を捕えようとして管理人が投げた錘がハリエットの頭に直撃し、ハリエットは頭蓋骨骨折、意識不明の重体となる。何とか一命を取り留めたものの、癲癇性の発作に生涯悩ませられることとなる。
ハリエットが重傷を負った雑貨屋(Bucktown Village Store)
1844年にハリエットは自由な身分の黒人John Tubman(ジョン・タブマン)と結婚した。1849年、ブロデス家の当主エドワードが亡くなり、病気がちだったハリエットは売却される可能性が高まった。ハリエットは兄弟2人とともに逃亡することを決意し、メリーランドを脱出しようとしたが、兄弟2人の気が変わり、結局主の元に帰ることとなった。しかし、すぐにハリエットは、今度は一人でUnderground Railroad(地下鉄道)と呼ばれた奴隷逃亡支援者のネットーワークの助けを得てフィラデルフィアに逃亡した。
1850年逃亡奴隷法が成立し、北部にいる逃亡奴隷は見つければ逮捕して元の所有者に送り返さなければならなくなり、ハリエットの身も安全ではなくなった。しかしながら、ハリエットは、11年間にわたりメリーランドに13度も密かに潜入し、70人弱の奴隷の逃亡をカナダへと導いた。奴隷解放運動家
William Lloyd Garrison(ウィリアム・ロイド・ギャリソン)は、イスラエルの民のエジプト脱出を導いたモーゼに例えて、ハリエットのことを「彼女の仲間たちのモーゼ」と呼んだ。彼女自身一度も捕まることはなく、彼女が手引きした奴隷も一人として途中で捕まることはなかった。彼女は秘密のルートを生涯明かさなかったのでどのルートを使用したのかは明らかとはなっていない。タブマンは、1859年に後にリンカーン政権の国務長官となる
William Seward(ウィリアム・シウォード)からニューヨーク州のAuburn(オーバン)に土地を購入し、そこに親類縁者のための居を構えた。
また南北戦争時には、連邦軍を支援するためサウスカロライナ州に赴き、傷病兵の看護の他、スパイとしてインテリジェンスの提供、プランテーションの奴隷解放作戦への参加等に活躍した。しかしながら、これらの奉仕に対して政府からは適正な報酬の支払いや顕彰は行われなかった。政府から支給を受けた恩給は南北戦争に従軍した夫に対するものであった。
戦後、タブマンは、オーバンに戻り、様々な仕事をしながら親戚縁者の生活を支えた。1869年にはタブマンの家に寄宿していた20歳年下のNelson Davis(ネルソン・デービス)と結婚し、1874年に養女をもらった。タブマンの生活は困窮を極め、見かねた奴隷解放運動家のSarah Hopkins Bradford(サラ・ホプキンス・ブラッドフォード)は彼女の自叙伝を出版し、原稿料をタブマンに寄付するほどであった。この頃から女性参政権運動の指導者の
Susan B. Anthony(スーザン・B・アンソニー)らとも交流が始まり、彼女も女性参政権運動の支援のため各地を講演して回った。1890年代には若年期に受けた頭部への傷が原因で癲癇の発作や睡眠障害がひどくなり、本人の志願により南北戦争中の兵士のように麻酔なしで銃弾を噛んで開頭手術を受けたという。
20世紀に入り、タブマンは自らの土地の一部を貧しい黒人の高齢者のための老人ホーム教会建設用に寄付した。1908年にHarriet Tubman Home for the Aged(ハリエット・タブマン老人ホーム)は開設した。次第に身体が衰えていったタブマンも1911年に老人ホームに入居し、その2年後に亡くなってしまう。亡くなったときにはほぼ無一文だったという。
ハリエット・タブマン老人ホーム跡
Harriet Tubman Underground Railroad National Historical Park(ハリエット・タブマン地下鉄道国立歴史公園)は、波乱万丈の一生を送ったハリエット・タブマンの生まれ育った地域の風景を保存しようとする国立公園ユニットになっている。メリーランド州と連携して2015年にビジターセンターを開設する予定となっており、現在のところ、タブマンが兄弟を助ける際に秘密のメッセージの伝達人となったJacob Jackson(ジェイコブ・ジャクソン)の住居があった場所と父親の職場の材木プランテーションの近くを流れるStewart's Canal(スチュワートの運河)が保存されているものの、標識も何もまだ整備されていない。タブマンのゆかりの地の多くは現在民有地となっており、これらの場所も含めた歴史公園としての今後の整備が望まれる。
スチュワートの運河
(国立公園局のHP)
2013年3月25日オバマ大統領が署名した大統領令によってデラウェア州にとって初めての国立公園ユニットが誕生した。しかも400番目のユニットというおまけつきである。そのユニットは、First State National Historical Park。デラウェア州が合衆国憲法を批准した最初の州であることを記念して、そのゆかりの歴史建造物などを保存する公園となっている。
デラウェア州のあるデラウェア湾、デラウェア川流域は17世紀初めよりイギリス、オランダ、スウェーデンが領有を巡って争った場所である。デラウェアの名前は、イギリス人航海士
Samuel Argall(サミュエル・アーガル)が嵐に遭遇した際、穏やかな湾に流されて難を逃れ、当時のヴァージニア植民地の初代総督、
第3代De La Warr(デラワー)男爵Thomas West(トーマス・ウェスト)にちなんで名付けたのが由来と言われている。
1638年にスウェーデンは現在のWilmington(ウィルミントン)に拠点、Fort Christina(クリスティーナ砦)を構えた。オランダは1631年に現在のLewis(ルイス)に拠点を構えるも原住民に滅ぼされ、1651年に再度現在のNew Castle(ニュー・キャッスル)に拠点Fort Casimir(カシミール砦)を構えた。知事の
Peter Stuyvesant(ピーター・ストゥイフェサント)は、Green(グリーン)と呼ばれる緑地を中心としてNew Amstel(ニュー・アムステル)の町の整備を行った。カシミール砦は1654年一旦スウェーデンの手に落ちるが、翌年ストゥイフェサントは逆襲し、スウェーデンをこの地から追い出すことに成功した。しかしオランダの成功も束の間、1664年イギリスはハドソン川、デラウェア川一帯からオランダを追い出すことに成功し、現在のニューヨークからデラウェアまでの一帯は当時の国王
チャールズ2世の弟である
ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の領有地となった。ニュー・アムステルはNew Castle(ニュー・キャッスル)と改称され、後にデラウェアの中心都市となった。
ニュー・キャッスル・グリーン
1681年チャールズ2世は、現在のペンシルベニアとなる土地を盟友の息子である
William Penn(ウィリアム・ペン)に勅許した。この際、ペンは、ペンシルベニアが陸の孤島となることを恐れ、ニュー・キャッスルから半径12マイル(約19km)の土地は明確にペンシルベニアから除外されていたものの、デラウェア川下流のデラウェア湾西岸の土地の使用をヨーク公に願い出て認められた。一方で国王はこの土地を別途メリーランド植民地を所有していたボルティモア卿にも勅許しており、後にデラウェア川下流の土地がペンシルベニアとメリーランドのいずれに帰属するのかが争いとなった。両者の争いは、1760年に国王が仲裁に入るまで続き、デラウェア川下流の土地は両者主張の中間に線が引かれることとなった。メリーランドとペンシルベニアを画する線は後にこのときに測量を行った測量技師の名前にちなみ、
Mason-Dixon Line(メイソン・ディクソン線)と呼ばれるようになり、アメリカの北部と南部の境と言われるようになった。
ウィリアム・ペン上陸の地
1682年にペンはニュー・キャッスルから上陸し、各郡の代表からなる議会を組織してフィラデルフィアとニュー・キャッスルとで交互に開催することとした。しかし、やがて双方の地域は不仲となり、1704年に1人の知事の下に2つの議会を有する体制へと移行した。ニュー・キャスルの議事堂は、一旦火災により消失したが、1732年に再建され、立法・司法の中心として機能した。
旧ニュー・キャッスル裁判所
イギリスと植民地アメリカの緊張が高まる中、デラウェア川下流3郡は大陸会議に
Thomas McKean(トーマス・マッキーン)、
George Read(ジョージ・リード)、
Caesar Rodney(シーザー・ロドニー)の3名の代表を送った。マッキーンとロドニーはイギリス及びペンシルベニアの双方からの独立を主張し、1776年6月15日デラウェア川下流3郡議会は満場一致でペンシルベニアからの独立を宣言した。しかし、イギリスからの独立については意見が分かれた。マッキーンはこれを支持し、リードは戦争の準備が整っていないことを理由にこれに反対した。ロドニーは一旦警備活動のため大陸会議から故郷に帰還していたが、7月4日
急遽フィラデルフィアに戻り、独立に賛成票を投じた。この結果、デラウェア州は独立宣言に賛成することとなった。
1777年イギリス軍の圧力が高まる中、戦火を避けるため、デラウェア州は州都をニュー・キャッスルから南のDover(ドーバー)に移転した。独立戦争終了後、フィラデルフィアで開催された憲法制定会議は、1787年9月17日合衆国憲法を採択し、各州において批准の賛否を問うこととなった。合衆国憲法はデラウェア州では町の中心Green(グリーン)に位置する仮の議会の場所Golden Fleece Tavern(ゴールデン・フリース宿屋)において満場一致で採択され、同年12月7日にデラウェア州は合衆国憲法を批准した最初の州となった。このため、デラウェア州の愛称はFirst State(最初の州)となっている。
ドーバー・グリーン
First State National Historical Parkは、最初の州都ニュー・キャッスルの州議会・裁判所が置かれたOld New Castle Courthouse(旧ニュー・キャッスル裁判所)を含む町の中心緑地Green周辺や、現在の州都のドーバーの中心緑地Green周辺を保存するほか、デラウェア州の北限近くに位置するWoodlawn(ウッドローン)と呼ばれる1,100エーカー(440ha)の森林・牧草地も含んでいる。ウッドローンは、地元紡績商
William Poole Bancroft(ウィリアム・プール・バンクロフ)
が後世のためにBrandywine Creek周辺を公園として保護した土地である。ウッドローンには、クウェーカー教徒たちが入植した当時の18世紀の風景が残るほか、多くのトレールが整備されており、よい散歩コースとなっている。
ウッドローン
ウッドローンのトレール
(国立公園局のHP)
1993年9月に
Cape Cod National Seashoreを訪れて以来、最後の
National Park of American Samoaまで、足掛け18年10ヶ月、米国滞在期間だけで数えれば7年で、アメリカ国立公園ユニット全397箇所(2012年7月末現在)を訪れることができました。米国にある国立公園のファンクラブに報告したところ、全制覇は私が23人目だそうです。おそらく日本人では他にいないのではないかと思われます。
前回帰国に際して一筆をしたためたときには、375/391だったのですが、再度の米国赴任はないと思っていたため、全制覇は不可能と思っていました。ところが奇跡のように再度米国赴任の機会を得て、ここまで来れば全て行くしかないと思い、未到達地への訪問を再開しました。途中何箇所か新たに国立公園ユニットが追加されたため、近づいたと思ったら遠くなる蜃気楼のようなターゲットでしたが、何とかゴールにたどりつくことができました。このようなわがままを許してくれた家族には感謝の念で一杯です。
米国の国立公園ユニットはこれまで毎年1-2箇所程度追加されてきているので、今後その数は397を確実に上回ることになると思われますが、私の国立公園ユニット訪問は一旦ここで区切りとし、今後追加されたユニットについては、またいつかの機会に訪れることとしたいと思います。
この気の遠くなるような試みを始めたおかげで、文字通り普段観光客が行かないようなアメリカの隅々まで訪れ、その豊かな自然に触れるとともに、日本の学校では学べないようなこの国の歴史・文化を深く学ぶ機会に恵まれました。これらの経験は私の中で無形の財産として残されており、このブログを通じて少しでも伝えることができれば幸いです。
本ブログにつきましては、米国国立公園ユニットの魅力を伝えることが目的ですので、閉じることなく、このまま存置しておきたいと思います。米国旅行に際して、どこか訪れるのに良い所はないか、このユニットはどんな内容の公園か、このユニットに行くことにしたが概要がわかるような資料がないか、というようなときには、左側の州別の分類のところから手繰っていただければ、目的とするユニットに容易くたどり着けますので、ご活用いただくとともに、ご家族、ご友人にもご紹介いただければ幸いです。
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by shiraok4563
| 2012-07-30 08:06