Lyndon B. Johnson National Historical Park(リンドン・ジョンソン国立歴史公園)は、第36代大統領ジョンソンの生涯をテーマとした歴史公園である。
リンドン・ジョンソンは、1908年8月27日に、父Samuel Ealy Johnson, Jr. (サミュエル・アーリー・ジョンソン・ジュニア)と母Rebekah Baines(レベカ・ベインズ)の長男としてテキサス州Stonewall(ストンウォール)に生まれる。ミドルネームのベインズは、母方の苗字を受け継いだものである。ジョンソンの生家は、復元され、歴史公園の一部になっている。
ジョンソンの生家
1913年に家族は、父方の祖父の従兄弟の名前をとったJohnson City(ジョンソン・シティー)に引っ越した。少年時代を過ごした家、父方の祖父の牧場跡も、歴史公園の一部となっている。父親は州の議員として活躍し、リンドンはその影響を受けて育った。
少年時代の家
祖父の家
高校卒業後、カリフォルニアで働いた後、Southwest Texas State Teachers' College(南西テキサス州立教育大学)に働きながら通い、1年休学して、メキシコ移民の子供たちを教える経験もする。大学卒業後、高校教師を務めた後、地元選出のRichard Kleberg(リチャード・クレバーグ)の秘書に採用され、ワシントンで知られるようになる。その後若者に職業訓練と就業機会を与えるNational Youth Administration(全国青年局)のテキサス所長として地元に戻り、地元のJames Buchanan(ジェームズ・ブキャナン)下院議員の死去を受けて出馬し当選。2期目に上院選挙に出馬し、一度は敗れるものの、二度目の挑戦で当選。第2次大戦中は、海軍に志願し、パプアニューギニアの日本軍空軍基地攻撃に参加し、メダルを授与されている。上院総務に選ばれ、黒人に参政権を付与するCivil Rights Act of 1957(1957年公民権法)やNASAの設立などに尽力した。
1960年の大統領選挙で民主党の副大統領候補に選ばれ、ケネディーの大統領当選により副大統領に就任。しかし、副大統領時は、専ら議会対策を任され、政策決定からははずされていたと言われている。1963年のケネディー大統領暗殺は、ジョンソンの運命を変えた。
大統領としてのジョンソンは、評価の分かれる大統領だろう。一方で、社会政策の充実に力を注ぎ、Great Society(偉大なる社会)の実現のために、War on Poverty(貧困撲滅)政策、メディケア・メディケイド(高齢者・貧困者のための健康保険)、人種・性別等を理由とする差別の禁止(Civil Rights Act of 1964:1964年公民権法)、黒人による投票権行使の確保、公立学校補助、低所得者への教育費補助など、進歩的な政策を実現した。他方で、ドミノ理論と封じ込め政策の信奉者で、ベトナム派兵を大幅に増加し、ベトナム戦争をエスカレートさせ、戦争の泥沼に米国を引きずり込んだ大統領として悪名も高い。
ベトナム戦争が大きく影を落とす中、ジョンソンは3期目(自身では2期目)の出馬を途中でとりやめ、引退を決意する。引退後彼が戻ってきた場所は、彼が愛してやまない牧場(LBJ Ranch)であった。なお、彼がこの牧場に戻ってきたとき飼っていた犬は「Yuki(雪)」という名前の白い犬であったそうだ。この牧場は、上院議員のときに、親戚(叔母)から譲り受けたもので、ジョンソンが子供の頃、夏を過ごした思い出のつまった場所でもあった。ジョンソンは牧場経営に情熱を注ぎ、2,700エーカー(11km
2)の牧場には400頭の牛が飼育され、とても成功した牧場であった。マネージャーのところにはしょっちゅう大統領から電話がかかってきていたという。牧場にある住居では、大統領在任中執務も行われ、Texas White House(テキサス・ホワイトハウス)呼ばれた。ジョンソンは、メディアでの自身の取り上げられ方に敏感で、自宅ではTV3台で常に3大ネットワークをフォローし、新聞しか読まなかったという。そしてダイニングテーブルの席はTVが見えるように配置され、いつでも苦情が言えるよう電話が取り付けられていた。
テキサス・ホワイトハウス
私たちが訪れたときには、牧場に花が一面咲きほこり、とても美しかった。ジョンソン大統領と夫人は、この牧場に眠っている。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)