アメリカのジャーナリストJohn O'Sullivan(ジョン・オサリバン)は1845年に米国の西部への拡大は、Manifest Destiny(明白なる使命)と唱えた。これ以降、この「明白なる使命」が錦の御旗となり、政府、資本家、開拓農民、探鉱者、牧場主など一丸となって西部へと拡大していく。彼らが勢力を拡大していく西部には、遊牧を営む数多くの原住民が住んでいた。農業、牧場、探鉱のために新たな土地を求める人々と伝統的な遊牧、狩猟の生活を守るため、先祖から受け継いできた土地を守ろうとする原住民とが衝突するのは必至であった。Big Hole National Battlefield(ビッグ・ホール国立戦場跡)もその衝突の場の一つである。
ビッグ・ホールの戦いは、1877年にNez Perce(ネズ・パース)族と合衆国連邦政府との間で各地で行われた一連の戦いの一つである。詳しくは、
Nez Perce National Historical Park(ネズ・パース国立歴史公園)のところで紹介するが、ネズ・パース族はアイダホ、モンタナ、オレゴン、ワシントン各州境一体で遊牧、狩猟生活を行っていた部族で、合衆国政府から武力を背景に、先祖から引き継いだ土地の1/10程度に過ぎない居留区への定住を迫られた際に、5つのグループはこれを拒否し、その後さまざまな経緯があり、結果として第7騎兵隊に追われる身となってしまった。
5グループ、約800名ののネズ・パース族の人々は、1877年8月7日の朝、緑深いビッグ・ホール峡谷で
ビッグ・ホール川(北支流)の南岸にキャンプを張ることとした。リーダーの
Looking Glass(ルッキンググラス:鏡)酋長は、軍の追跡からは逃れたと思い、見張りも立てず安心していたが、実はそうではなかった。
ネズ・パース族キャンプ跡
John Gibbon(ジョン・ギボン)大佐率いる第7歩兵隊162名はすぐ後を追っており、翌日の8月8日にはビッグ・ホール峡谷でキャンプするネズ・パースの人々を発見し、9日の早朝奇襲をかけるべく、民兵34名とともにビッグ・ホール川(北支流)の北側の土手の影に身を隠して夜明けを待った。ちなみにこのジョン・ギボン大佐は、南北戦争時に勇猛果敢で知られた北軍の士官で、
第2次マナサスの戦いで上り坂の突撃部隊を指揮し、
ゲティスバーグの戦いではピケット将軍の突撃を食い止める役割を演じた。
第7歩兵隊記念碑
しかし、彼らは、早朝、号令の前に、馬を見に来た原住民に偶然見つかってしまい、そのまま戦闘になだれ込んでいった。早朝の混乱の中、無差別に銃撃され、ネス・パース族の人々は兵士、老人、女性、子供の区別なく殺害された。第7歩兵隊はキャンプの南端に回り込んだが、狙撃体制を整えたネス・パース族兵士の効果的な反撃に遭い、川の北岸の松林の山の中に撤退を余儀なくされ、逆にこれをネス・パース族兵士が包囲し、釘付けする形となった。このときにネス・パース族の兵士は、第7歩兵隊から
Howitzer(ホーウィッツアー)砲を奪い取り不能にしてしまった。公園では、その大砲のモデルが当時の場所に置かれている。そして第7歩兵隊を釘付けしている間に他のネス・パース族は南から脱出し、2日目には包囲を行っていた兵士もみんなの後を追った。
ホーウィッツアー砲
ネス・パース族は戦いに勝ちはしたものの、犠牲は大きかった。正確な死者の数は不明だが、60-90名が犠牲となったと言われ、そのうち2/3は老人、女性、子供であったという。ネス・パース族は、軍の追跡を逃れながら、助けを求めて長年の友軍Crow(クロー)族のところへと向かった。この続きは、いつかネズ・パース国立歴史公園のところで。
ビッグ・ホール戦場跡
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)