ガーフィールド大統領が凶弾に倒れて、20年後、1901年9月6日、同じオハイオ州選出で、同じく南北戦争で軍功をあげた大統領がニューヨーク州のバッファローで開催中のパン・アメリカ博覧会の会場で支持者と握手をしている最中、支持者の間に紛れ込んでいた無政府主義者の Leon Frank Czolgosz(レオン・フランク・ツォルゴッズ)に
銃撃された。大統領は、第25代大統領
William McKinley(ウィリアム・マッキンリー)。高関税による産業保護政策、アラスカの金鉱発見に伴う国内の好景気に支えられ、対外政策でも米西戦争に勝利し、プエルトリコ、グアム、フィリピンを領土に加え、ハワイを併合し、前年に2期目の当選を果たしたばかりの人気絶頂のときであった。人格者としても知られ、誰からも好かれた大統領が狙撃されたことは、ことのほか大きな衝撃を与えた。大統領は、地元バッファローの著名な弁護士Ansley Wilcox(アンスリー・ウィルコックス)の邸宅に運ばれた。
ウィルコックス邸
この事件は、ヴァーモント州で遊説中の副大統領にもすぐに知らされた。副大統領が駆けつけると大統領の周りには他の閣僚も既に集まっていた。マッキンリー大統領の腹部に到達した弾は所在が不明であった。博覧会には当時最新技術のX線撮影機も展示されていたが、X線が人体に与える影響をおそれ、医師はこれを使用しなかった。幸い大統領の容態は持ち直したため、そのまま経過を見ることとした。医師は大統領は回復すると見込んでいた。このため、副大統領もいったんニューヨーク州北部のAdirondack Mountains(アディロンダック山地)で休暇中の家族の元に行くこととした。
副大統領の名前は、セオドア・ルーズベルト。セオドア・ルーズベルトについては、一度
セオドア・ルーズベルト国立公園のところで触れたが、1886年にノースダコタから帰ったルーズベルトは幼馴染のEdith Carow(エディス・キャロウ)と再婚し、エネルギッシュに公務を再開した。ルーズベルトはエディスとの再婚は5人の子供にも恵まれ、公私ともに充実した生活を送った。1888年に
Benjamin Harrison(ベンジャミン・ハリソン)の大統領選挙を支援し、ハリソン当選後は人事委員会の委員に起用され、政治介入廃絶に尽力し、1895年にはニューヨーク市公安委員会委員長に就任し、腐敗根絶に努力した。1897年には、マッキンリー政権1期のとき、海軍次官補に任命され、米西戦争の準備を指揮し、戦争が始まると、次官補の職を辞し、
Rough Riders(ラフ・ライダーズ)と呼ばれた志願兵による騎兵隊を組織して従軍し、San Juan Hill(サン・ユワン丘)の戦いで同丘攻略に活躍し、一躍国民的ヒーローとなる。戦争後は、1898年にニューヨーク州知事に当選し、1990年の大統領選挙では、マッキンリーとともに副大統領候補として当選し、副大統領となったばかりであった。
9月13日、登山から帰ってくる途中のルーズベルトの前に電報を持った使者が現れた。大統領は危篤ですぐにバッファローに戻るべきとの電報であった。ワゴンを仕立て35マイル離れたNorth Creek(ノース・クリーク)の駅につき、汽車に乗り込むとき、ルーズベルトは訃報を聞かされた。銃創が壊疽を起こし、マッキンリー大統領の命を奪ったのである。翌日午後、バッファローに到着し、亡き大統領と対面し、家族に哀悼の意を表した後、戦争長官
Elihu Root(エリフー・ルート)の進言により直ちに大統領就任の宣誓をウィルコックス邸の書斎で行うこととなった。ルーズベルトは着の身着のまま駆けつけたため、周囲の人から衣服を借り、連邦地方裁判事の前で
宣誓を行った。このときルーズベルトは、42歳。当時としては最も若い大統領の誕生であった。
ウィルコックス邸の書斎
この若き大統領に不安を覚えた者も少なくなかった。しかし、ルーズベルトは、前任者のことが忘れ去られるほど、有権者の支持を集め、歴史に名を残す大統領として活躍することとなる。
(国立公園局のHP)