ヴァンダービルトの豪華な邸宅の近くに、第32代大統領
Franklin D. Roosevelt(フランクリン・ルーズベルト)が生涯愛したSpringwood(スプリングウッド)と呼ばれる家がある。フランクリン・ルーズベルトは、米国史上唯一3期以上務めた大統領で、世界恐慌、第2次世界大戦という厳しい試練の中、米国を導いた大統領として、今なお深い尊敬と愛情をもって語られる大統領である。頭文字をとって、FDRと呼ばれている。
フランクリン・ルーズベルトは、恵まれた裕福な家庭に生まれ、育った。1882年1月30日に、ニューヨークの鉄道会社の重役である父James(ジェームズ)と母Sara(サラ)の一人っ子として生れた。ミドルネームのDelano(デラノー)は母方の苗字である。父親のジェームズは先妻を亡くし、再婚したサラとの間に54歳のときに授かった子供であった。フランクリンは、一人っ子で、父親が年をとってからの子供であったため、両親に深い愛情を注がれ、スプリングウッドで何一つ不自由しない子供生活を送った。家庭教師について学び、頻繁にヨーロッパに旅行に出かけ、乗馬、ハンティング、ポロ、テニス、釣り、ボートなど英国貴族の師弟のような子供時代を送った。フランクリンは、14歳のときにマサチューセッツの私立学校(Groton School:グロトン校)に入学し、寄宿舎での生活を体験する。グロトン校の校長
Endicott Peabody(エンディコット・ピーボディー)牧師は、生徒に恵まれない人々への奉仕を説き、これが後にフランクリンを政治の世界に向かわせるバックボーンとなった。卒業後、ハーバード大学に進んだ。在学中に、遠縁のセオドア・ルーズベルトが大統領に就任し、進歩的政策を推進していく姿に感銘を受ける。卒業後、コロンビア大学ロースクールに学ぶが、在学中に司法試験に合格し、中退し、ニューヨークの弁護士事務所で弁護士として勤務を始めた。コロンビア在学中に、セオドア・ルーズベルト姪に当たるEleanor(エレノア)と結婚する。エレノアとの結婚生活は、6人(うち5人が成人)の子供に恵まれ、進歩的な思想を有するエレノアはフランクリンの政治判断にも大きな影響を与える。
かねてより政治の世界に興味のあったフランクリンは、1910年にニューヨーク州の上院議員に選ばれ、1912年の大統領選挙では
Woodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)を支援し、ウィルソン政権下で海軍次官補として活躍する。1920年の大統領選挙では、オハイオ州知事の
James Cox(ジェームズ・コックス)の副大統領候補として民主党より出馬した。選挙では、
共和党のWarren Harding(ウォーレン・ハーディング)に敗れるが、フランクリンの名前は全国区で知られることとなった。将来のリーダーとして嘱望される中、フランクリンを突如不幸が襲う。1921年の夏、避暑中のところ、ポリオに感染し、下半身不随となる。これで政治生命を絶たれたと思われたが、エレノアの支援の下、健康回復に努め、1924年、1928年の大統領選挙でニューヨーク州知事の
Alfred Smith(アルフレッド・スミス)の支援を行った。また、ポリオ撲滅にも力を注ぎ、ジョージア州に療養施設を建設し、ポリオ研究募金運動などを展開するNational Foundation for Infantile Paralysis(全米ポリオ財団)を設立した。フランクリンは、スミスの後継者として1928年ニューヨーク州知事に出馬し、知事選に勝利した。1930年に知事として再選され、世界恐慌に多くの人が苛まれる中、進歩的政策を実施し、次第に大統領候補として頭角を現す。フランクリンは、1932年の大統領選挙に出馬して現職の
フーバー大統領を大差で破り、第32代大統領に就任した。フランクリンの大統領就任は、米国史上初の障害者の大統領の誕生も意味した。フランクリンは、New Deal(ニューディール)と呼ばれた政府支出の大規模な出動により、世界恐慌と戦っていくこととなる。大統領時代のFDRについては、Franklin Delano Roosevelt Memorial(フランクリン・デラノー・ルーズベルト記念碑)のところで紹介します。
彼にとって終始マイホームであったのが、スプリングウッドである。子供時代を過ごし、結婚後母親と同居し、ポリオに倒れた際も回復に努め、選挙中の作戦本部となり、大統領任期中も世界のリーダーを接遇し、頻繁に帰還したのは、思い出の詰まったスプリングウッドである。大統領退任後も、スプリングフィールドに帰る予定であったが、第2次大戦終了前夜にジョージア州で静養中に倒れ、返らぬ人となってしまった。フランクリンとエレノアは、彼らが愛したスプリングウッドに眠っている。
スプリングウッド
(国立公園局のHP)