1848年3月1日、じゃがいも飢饉の年に、
Augustus Saint-Gaudens(オーガスタス・セイント・ゴーデンス)は、アイルランドのダブリンに、フランス人の父Bernard(バーナード)、アイルランド人の母Mary(メリー)のもとに生れた。一家は、飢饉で苛まれるアイルランドをその年に離れ、アメリカのニューヨークに移住した。オーガスタスは、芸術に興味を示し、13歳で学校を終えると、フランス人の装飾品彫刻士に弟子入りし、そして夜はCooper Union(クーパー・ユニオン)、National Academy of Design(国立デザイン学校)で学んだ。19歳で年季奉公を終えると、パリの万国博覧会を見学し、そのままパリで装飾彫刻をしながら、École des Beaux-Arts(エコール・デ・ボザール)でFrançois Jouffroy(フランソワ・ジュフロワ)に執事した。1870年に普仏戦争が勃発してからは、ローマに拠点を移し、美術と建築を学び、そこで妻となるAugusta Homer(オーガスタ・ホーマー)と出会った。
1875年にアメリカに帰国し、翌年、ニューヨークのマディソン・スクエアーの南北戦争の名将
ファラガット提督像の発注を受けた。これにより1877年にオーガスタと無事結婚にこぎつけることができた。オーガスタは、バスレリーフ(浅浮彫り)の肖像を手がけ始めるとともに、保守的な年長層に反発してSociety of American Artists(全米芸術家協会)を立ち上げた。1881年にファラガット像が公開されると、多くの批評家が絶賛する作品となった。この後は、次々と制作以来が舞い込むようになり、これを断ることなく、次々と作品を手がけた。「ジキル博士とハイド氏」や「宝島」を執筆した
Robert Louis Stevenson(ロバート・ルイ・スティーブンソン)やニューヨークのメトロポリタン美術館の創始者の一人
Samuel G. Ward(サミュエル・ワード)の肖像などの多くのバスレリーフとともに、シカゴのリンカーン公園に立つ
The Standing Lincoln(立つリンカーン)、ボストンコモンに立つ
The Shaw Memorial(ショー記念碑)、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収められている
Diana(ダイアナ)や
Amor Caritas 、友人のHenry Adams(ヘンリー・アダムス)の亡き妻に捧げた
アダムス記念碑、ニューヨーク5番街に立つ
シャーマン将軍像などの代表作も残している。セオドア・ルーズベルト大統領の要請を受けて、
記念硬貨のデザインも手がけた。その傍ら、Art Students League(美術学生連合)で後身の指導に当たった。
1885年の夏、初めてセント・ガウデンスは、友人の別荘であったニューハンプシャー州のCornish(コーニッシュ)を訪れ、気に入り、1892年に夏のスタジオとして購入した。1900年に体調を崩してからは、ここを終の棲家に決めた。セント・ガウデンスは、この別荘を完全にモデル換えをし、父の出身地であるフランスのAspet(アスペット)から名前をとった。また、アシスタントが働くスタジオを併設し、造園を施し、並木道を整備し、レクリエーションエリアも設けた。
アスペット
コーニッシュは、いつの間にか、多くの画家、詩人、作家、音楽家らが集まるようになり、この地はThe Cornish Colony(コーニッシュ・コロニー)と呼ばれるようになった。セント・ガウデンスが愛したコーニッシュの風景と彼の邸宅・スタジオなどは、Saint-Gaudens National Histroic Site(セント・ゴーデンス国立史跡)として保存されている。この公園を歩くと、彼の代表作のレプリカが庭園やスタジオなどに置かれ、芸術家の家を見事に演出している。
並木道
(国立公園局のHP)