フィラデルフィアの郊外のSchuylkill Valley(シュイルキル谷)に産業革命前に一時は米国第2位の生産量を誇った製鉄所の跡が保存されている。当時鉄の生産には、原料である鉄鉱石、不純物を取り除くための石灰石、鉄鉱石を溶かし鉄に変えるための燃料である木炭、溶鉱炉に圧縮された空気を送り込むための水車が必要であった。鉄道ができる前は、原材料の運搬が課題であったことから、当時の製鉄所は、鉄鉱石が産出される山間に設けられた。
ここHopewell(ホープウェル)の製鉄所もシェイルキルの山間にMark Bird(マーク・バード)によってアメリカ独立革命の前夜1771年に開設された。当時イギリスは自国の製鉄産業を保護するとともに、植民地の力を押えるために、アメリカでは銑鉄の生産しか認めず、新たな製鉄所の建設を制限しようとした。しかし、植民地ではこれらを無視して、とりわけ豊富な鉄鉱石、水力、森林資源を背景に、ペンシルベニアで製鉄が盛んに行われた。バードもこの点に目をつけ、Hopewell Mine(ホープウェル鉱山)とJones Good Luck Mine(ジョーンズの幸運鉱山)を開き、鉄鉱石を生産すると同時に、イギリス本国の規制に反して、ホープウェルで調理用コンロの生産を開始し、独立戦争時には大砲や弾丸の生産を行って、1789年には全米で第2位の生産量を誇る大製鉄所に育て上げた。しかし、独立後には、連邦政府からの借金の回収がうまくいかず、これに不景気と洪水被害が追い討ちをかけ、製鉄所を売りに出さざるを得なくなった。
David Buckley(デービット・バックレー)と彼の義理の兄弟であるマシューとトーマスのBrooke(ブルック)兄弟がこれを1800年に買取ったが、うまく軌道に乗せることができず、8年で再び閉鎖された。1816年に再開の努力がなされ、政府の高関税による保護政策、安い移民労働力、調理用コンロへの選択と集中により、Clement Brooke(クレメント・ブルック)がIronmaster(工場長)のときにホープウェルの製鉄所は復活を遂げることとなる。ブルックは父と叔父の製鉄業を16歳のときから手伝い、家業の表裏を知り尽くした経営者であった。Hopewell Furnace National Historic Site(ホープウェル炉国立史跡)は、最盛期であった1820-40年頃の製鉄所を再現している。
工場長の家
レンガ造りの溶鉱炉に鉄鉱石(磁鉄鉱)、石灰石、木炭を投げ込み、下から水車で圧縮した空気を送り込んで、溶鉱炉内の温度を1500度程度に高め、融けた鉄がスラッグとともに下に落ち、この中からスラグを取り除き、銑鉄棒の型又は鋳型に注ぎ込みながら、鉄製品を生産していた。溶鉱炉は年に1回メンテナンスのために止められる以外は、24時間燃やし続けられた。Filler(詰め屋)と呼ばれた原材料を溶鉱炉のトンネル内に投げ込む人は30分おきに100kgもの鉄鉱石、20kgの石灰石、500リットルの木炭を投げ込んでいたという。Gutterman(溝掃除屋)が融け落ちてくる鉄からスラッグを取り除き、Founder(鋳物屋)が融けた鉄をモニターし、1日に2回、鋳型に流し込むタイミングを判断し、Moulders(鋳型屋)が融けた鉄を鋳型に流し込んでいた。この他、別に木炭を生産する部隊があり、分業により大規模な生産を可能としていた。
水車と溶鉱炉(煙突)
しかし、
1837年からの恐慌により需要が落ち、ホープウェル製鉄所は1844年には調理用コンロの生産から撤退する。南北戦争で一時銑鉄の需要が増大し、息をつくが、時代は産業革命へと向かっており、蒸気を用いた熱風式のコークス・無煙炭炉がピッツバーグなどに建設され、鉄道網と結びついて、大規模な生産を始めるようになっていた。ホープウェル製鉄所も熱風式の無煙炭高炉を建設し、再起を図るが、失敗に終わり、この昔ながらの製鉄プランテーションも1883年には火を消すこととなった。
失敗に終わった熱風式高炉跡
ホープウェル炉国立史跡では、夏の時期、当時の格好をした人々が当時の生活を再現してくれ、この製鉄村も活気を取り戻す。
(国立公園局のHP)