1777年、前年ニューヨーク市を手中にし、ニュージャージーでアメリカ軍と対峙するイギリス軍の総司令官ウィリアム・ハウ将軍は、次なる狙いを事実上の首都フィラデルフィアに定めた。(その前年の経緯は、
モーリスタウン国立史跡を参照。)1777年8月25日に、メリーランドのチェサピーク湾の付け根から上陸した。ワシントンは、軍をフィラデルフィアとイギリス軍の間に当たるBrandywine(ブランディーワイン)川の東岸に置き、イギリス軍の北進を阻止しようとした。9月11日に両軍は激突することとなるが、ハウ将軍はイギリス軍を二手に分け、主力をアメリカ軍の待ち構えるChadd’s Ford(チャドの小川)ではなく、迂回させ、アメリカ軍の右翼を襲わせることに成功した。アメリカ軍は総崩れとなって退却した。この報を聞き、大陸会議はフィラデルフィアを脱出し、西のLancaster(ランカスター)に移動した。この戦いで弾薬が尽きたアメリカ軍は、レディングの武器庫を守らざるを得なくなり、フィラデルフィアは、無抵抗のまま、9月26日にイギリス軍に占領された。大陸会議は、ランカスターも逃れ、さらに西のYork(ヨーク)へと避難した。ワシントンは軍勢を整えて、10月4日にフィラデルフィア北西のGermantown(ジャーマンタウン)に駐留するイギリス軍と再び戦火を交えるが、イギリス軍の厚い防御を突き崩すことができなかった。イギリス軍はフィラデルフィアを落としたものの、アメリカ軍がデラウェア川を押えていたため、食料等の調達がかなわなかった。イギリス軍は、デラウェア川に面したFort Miffin(ミフィン砦)を攻撃し、3週間の戦いの末に落とした。(この間の動きについては、
ここを参照。)
1777年の冬は、ワシントンにとって殊のほか、辛い冬となった。ニューヨークに続き、フィラデルフィアも陥落した。大陸会議では、連戦連敗のワシントンを解任しようとする謀議が図られていた。アメリカ軍は、衣服、靴はぼろぼろの上、十分な食料も無く、建て直しが急務となった。12,000の部隊のうち、1/3に当たる4,000は兵役に不適格な状況であった。ワシントンは、冬のキャンプ場所をフィラデルフィア郊外西のValley Forge(ヴァレー・フォージ)に定めた。ここであれば、フィラデルフィアのイギリス軍の動きを監視でき、かつ、高台とSchuylkill River(シュイルキル川)に守られ、防御も容易であったためである。アメリカ軍は、その年の12月19日にヴァレー・フォージに到着した。しかし、ヴァレー・フォージは、決して安らぎの場所ではなかった。キャンプ中のアメリカ軍を、飢えと寒さに加え、チフス、赤痢、肺炎などの病気が襲い、2,000名の兵士が犠牲となった。ワシントンは、各地に支援と造兵の要請を行いつつ、様々な職業の民兵からなる寄せ集めの組織を規律ある効率的な軍隊組織に生まれ変わらせなければならなかった。
ワシントンの指令本部
このためにパリのベンジャミン・フランクリンがワシントンの元に派遣したのが、プロシア王国の元参謀
Friedrich Von Steuben(フリードリッヒ・ヴォン・ストイベン)である。ヴォン・ストイベンは、1778年2月23日にヴァレー・フォージに赴任し、直ちに監察官代行に就任し、アメリカ軍の立て直しに着手する。当時は訓練の標準的なマニュアルはなく、ヴォン・ストイベンも英語をほとんど話せなかった。彼は、フランス語で訓練マニュアルを執筆し、それを翻訳させ、そのマニュアルに従い、自ら訓練の指揮をとり、兵士を鍛えた。まず100名の兵士を選び、その100名を自ら徹底的に鍛え上げた。見る見るうちに規律のとれた機敏な兵士に生まれ変わっていくのを目にすると、他の兵士も英語を解しないこのブロシア人の言うことを聞かざるを得なかった。
バラック
この間、情勢は一変する。
サラトガの戦いでのアメリカ軍の勝利に感化され、フランスがアメリカ側に立ち、参戦を決定した。また、イギリス軍では、総司令官がハウから
Henry Clinton(ヘンリー・クリントン)に交代した。クリントンに課せられた最初の課題は、フィラデルフィアからの撤退であった。フランスの参戦により、ニューヨークの防備を強化する必要に迫られ、イギリス本国からの指令により、フィラデルフィアを脱出した。アメリカ軍は1778年6月28日、これを追って、ニュージャージーでイギリス軍を追撃(Battle of Monmouth:モンメスの戦い)した。これが北部戦線最後の大きな戦いとなり、独立戦争の主舞台は、南部に移ることとなる。(続きは
Kings Mountain National Military Park(キングス・マウンテン国立軍事公園)にて。)
ヴァレー・フォージは、戦況が著しく不利な中、艱難辛苦を耐え忍び、冬の訓練を経て、アメリカ軍が鍛え直された場所として知られている。総司令官のワシントン自身が一番辛かった時期であるが、ワシントンはアメリカ独立の正義を信じ、揺らぎ無き信念のもと、アメリカ軍の再生に成功した。独立戦争は、この後、フランスの参戦により、次第にアメリカ軍有利に転がり始める。このため、ヴァレー・フォージでの冬は、サラトガの戦いとともに、独立戦争のターニング・ポイントと評価されている。
ヴァレー・フォージには、ワシントンの司令部や再建された兵士のバラックが立ち並ぶ。しかし、ヴァレー・フォージの意義を語るのは、Memorial Arch(記念アーチ)だろう。アーチの窓から星条旗が翻るのが見え、最終的なアメリカの勝利を誇っているようだ。
記念アーチ
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)