自由の国アメリカ。アメリカを形容する言葉としてよく語られる。しかしアメリカでも最初から現在のような自由が与えられていたわけではない。植民地時代には、信教の自由や権利の平等はなかった。その中で信教の自由を求めて戦い、原住民との対等の関係を目指したイギリス人がいた。彼はその信念に基づき、信教の自由と対等な原住民との関係に根ざした植民地を造ろうとした。彼が創設した植民地は、後にアメリカの一つの州となった。その州は、ロードアイランド州。アメリカで最も小さな州で、アメリカの地図を書くとほとんど見えなくなってしまうほど小さい。しかし、この小さな州は、その後のアメリカの歴史を見れば、300年以上時代を先取りした偉大な試みの成果であったことがわかる。この州の創設者の名前は、
Roger Williams(ロジャー・ウィリアムス)。異端扱いされ、マサチューセッツ植民地を追われた人物である。
ロジャー・ウィリアムスは、1603年ごろ、ロンドンの貿易商の家に生まれた。若い頃から聡明で、法律学者
Edward Coke(エドワード・コーク)卿に見出され、ケンブリッジ大学で学んだ。卒業後、イギリス国教会の牧師となるが、礼拝の自由を唱え、清教徒に転じた。このことは、国教であるイギリス国教会に反旗を翻すことであり、迫害・弾圧の対象となることを意味した。このため、1631年にウィリアムスは、清教徒とともに、マサチューセッツ植民地のボストンに渡った。彼は、セーラムの教会で副司祭の職を得るが、イギリス国教会からの離脱、政府による信仰生活への介入の排除を主張し、次第にマサチューセッツ植民地の指導者に疎まれるようになる。彼らの圧力により、ウィリアムスはセーラムを追われ、プリマスの教会に行くが、ここも追われ、1633年に再びセーラムに戻った。なおもウィリアムスは、セーラム教会のニューイングランドの教会からの独立を勧めるとともに、政府によるモーゼの十戒の実践の強制や聖職者の給与負担を強く批判した。また、彼は、原住民と植民地人との平等を説き、土地は原住民から適正な対価で購入すべきこと、原住民を強制的に改修すべきでないことを主張した。これらの当時としては過激な主張に多くの清教徒はウィリアムスを敵視するようになり、マサチューセッツ植民地政府も彼を逮捕してイギリスに強制送還しようとした。
ウィリアムスは、自らの信条を守るため、1636年にセーラムを脱出し、親交のあったWampanoag(ワンパノアグ)族のもとに身を寄せた。そして、さらに親交のあったNarragansett(ナラガンセット)族から土地を譲り受け、家族と友人を呼び寄せてProvidence(プロビデンス:神の導き)の町を創設した。そして、良心の自由の保障と政教分離を新たな植民地の礎とした。
その翌年にプロビデンスの南に彼が築いた交易所は、原住民と植民地人が対等な関係で交易を行う場所として原住民との良好な関係構築に寄与した。マサチューセッツ植民地政府は、ウィリアムスの原住民との親交に目をつけ、1637-38年のPequot(ピークワット)族との戦いに際し、ナラガンセット族がピークワット族と同盟を結ばないようウィリアムに仲介を依頼した。ウィリアムスは、マサチューセッツを追い出された身でありながら、この依頼を引き受け、ナラガンセット族にピークワット族と同盟を結ばせないばかりか、イギリスの側に立って戦闘することを承諾させた。これ以降、ウィリアムスは、イギリス人と原住民の間の橋渡しを務めることとなる。
プロビデンスとその周辺地域は、宗教的な弾圧を受ける人々の避難所となり、発展していった。1637年にはボストンの聖職者を批判してマサチューセッツを追放された
Anne Hutchinson(アン・ハッチンソン)らを受け入れ、
Aquidneck Island(アクウィネック島:後にロードアイランドと名前を変え、植民地名となった。)にPortsmouth(ポーツマス)の町がつくられた。1639年にはそこから分かれて
William Coddington (ウィリアム・コディングトン)らが同じ島にNewport(ニューポート)の町を設立した。1647年にはプロビデンスとロードアイランドの植民地が統合され、良心の自由が再確認された。1638年にはマサチューセッツを追われたバプティスト派の人々がウィリアムスの助けでアメリカ初となるバプティスト派の教会を建てた。後には、クウェーカー教徒、ユダヤ教徒などが、信教の自由を守るために、集まってきた。1652年には、アメリカ植民地で他に先駆け初めて奴隷を違法化している。
こうして植民地が発展していくと、1643年には、ウィリアムスは、ロードアイランド植民地の地位保全のため、国王の特許を得にイギリスに渡った。ウィリアムスは、1651年に、国王特許について紛争が生じたことから、交易所を売り払って資金を調達してイギリスに戻った。1654年から58年までウィリアムスはロードアイランド知事を務めたが、私財をはたいて宗教の自由が守られる植民地の維持に腐心したため、貧困のうちに亡くなった。彼の思想は、合衆国憲法修正第1条や日本国憲法にも引き継がれ、現代民主国家の礎を築いている。彼の築いたプロビデンスの当時の場所が公園として彼に捧げられているが、プロビデンスの町自体が彼の記念碑とも言えるだろう。
最初の井戸のあった場所
(国立公園局のHP)